03悪魔の魚、タコ
今日の海中は薄暗く、時間帯は昼なのにまるで夜のような暗さだった。
どうやら海上は嵐のようで分厚い雲に太陽が隠れているからか、海中まで日が届かない。
海面付近は波が荒く海流も激しくなっているのでこういう日は浮上制限が掛かる。
万が一巻き込まれると遥か遠くまであっという間に流されるし最悪潜水機が壊れてしまう。
ヴォルティ達調査員が搭乗する小型潜水機は1人乗りだ。
小回り出来るよう小さく、そして軽く作られているのでそこまで頑丈に作られていない。
判断を見誤ると簡単に海の藻屑と化してしまうので細心の注意が必要で、実際に何人かこれが原因で亡くなっている。
母なる海は優しくも恐ろしい。
この中型の長期調査船がラメール区に帰還したのはこんな嵐の日だった。
中型とはいえハンドルを容易に持っていかれる程の嵐で、よく操縦出来たものだ。
本来であればこういう日の航行は中止になるが、都市へ戻ることを優先したのか決行したらしい。
アンテナなどに破損が見られたもののさほど損傷のない調査船が停泊すると支部内部から安堵の声が漏れた。
何がともあれ無事のようだ。
「いやー…、ちゃんと戻ってこれたみたいだな」
支部長のニッケルが胸を撫で下ろしている。
ここで消息不明などなろうものなら大事になるし、こちらとしても仲間の安否が気掛かりで生きた心地がしないだろう。
通信では乗組員全員、健康上問題ないとあった。
この中型の調査船は小型潜水機とは違いこの船の中である程度生活が出来るように設計されている。
それを生かし長期航行を行うことで海底都市より離れた場所にあるであろう沈んだ新たな大陸を発見することを目的としていた。
大まかな位置を特定し周辺の地形や海流の調査や危険生物がいないかなど、今後調査するにあたっての先遣隊の役割も担っている。
最低でも1ヶ月以上の過酷な長期航行となる為、乗組員は調査員の中でも経験が豊富なベテランが選ばれるが、時折ここに強制的に搭乗させられる者がいた。
「ああ~………帰って来れたぁ………」
支部専用の停泊場から通路へ繋がる所で、1人の若い男がへたりこんでいる。
周りの調査員はそれを見ながら笑みを見せつつ、労うようにその男の肩を叩いていた。
ヴォルティもその男に見覚えがある。
アトラ区で同期の調査員だったリノだ。
「……あ!?ヴォルティ!?お前こっち来たのか!?」
リノはヴォルティに気付くと勢い良く立ち上がり「久しぶりだな」とか「元気だったか」と頻りに声を掛ける。
他の調査員からは知り合いだったのかという声が聞こえた。
「ああ、リノお前、長期航行に行ってたんだな」
「ま、まあな。色々あって……、お前こっちに来たばっかりだろ!?そうだろ!?なら年上の先輩の俺が案内してやるぜ!」
「いやいい」
リノの提案をすっぱり断ってみせたヴォルティに周りから笑い声が上がった。
まさか断られるとは思っていなかったのかリノは思いの外ショックを受けた顔をしている。
「はあ~!?何でだよ!先輩の俺がせっかくなあお前!」
「先輩ってお前、年上だけど同期だろ。試験失敗して1年留年し」
「うわー!やめろー!その話はするなー!」
リノはヴォルティの1つ上の年齢だが、彼は調査員の資格試験に落ちてしまい1年留年したのでヴォルティと同期となってしまっているのだ。
その為、2人はアトラ区での新人研修を一緒に受けている。
留年の話はその時に本人から聞いたものだが結構気にしているらしい。
「何だお前ら同期だったのか」
様子を見に来たニッケルが微笑ましそうにしながら会話に入ってきた。
ヴォルティとしては別にどうでもいいことではあったがリノからするとあまり深く掘り下げてほしくないようだった。
「ああ~…、支部長どうも」
「よく戻ったな、どうだった?」
「いや、ははは……、…もう行きたくないです……」
感想を問われたリノは意気消沈した様子となり、か細い声で絞り出した。
よほど嫌だったのか、かなり堪えたのか。その姿にニッケルや他の調査員は笑うだけだ。
本来ならヴォルティ達のような経験の浅い調査員は長期航行には赴かない。
それなのに行かなければならなかったリノにとっては精神的にも随分と消耗したようだった。
だがこれが自業自得だということを、ヴォルティは知っている。
「まあそうなるだろうがな、それはそれで報告書は出せよ」
「ええっ!勘弁してください!やっと帰って来れたのに!休ませてくださいよ!」
「これも仕事だぞ。…といっても今回は初めてだったからな、大目に見てやるが次はないぞ」
どうやら報告書は後日でよさそうである。
リノは安心したのか再びへたりこみ、周りから笑い声が上がった。
「ヴォルティ!先輩の俺がいい店連れてってやるよ!」
「いやいい」
業務終了後、日報を提出し終えたヴォルティをリノが呼び止めた。
少し遅くなってしまったので時刻はすっかり夜の電灯だ。
リノからの提案をヴォルティは再び断る。
「な…!?ラメール区に来たばっかりのお前に色々教えてやろうってのに!」
「ロベルトさんに教えてもらったからいい」
だんだんと面倒になって、ヴォルティはそれだけ言うと第2エリアへと足を向ける。
やっと幸子へ行けるのに邪魔をされては堪ったものではない。
それに早くご飯が食べたくて仕方ないのだ。
最近ヴォルティは夜、ご飯を幸子でたんまり食べる為に朝と昼のレーションを少なめにしている。
つまりは今ヴォルティは腹が減ってしょうがない。
人間、腹が減ると誰しも機嫌が悪くなるものだ。
「あー、あの人アトラ区に戻ったんだっけか。俺もロベルトさんに色々連れてってもら……あ!待てってどこ行くんだよ!」
自分を無視してどこかへ行き始めたヴォルティをリノは何故か必死に追い掛けてくる。
一体何だというのか。
「ご飯食べに行く」
「何だよ1人か?寂しいな!俺が一緒に行ってやるよ!」
「いやいい」
三度、すっぱりと断るもリノは諦めた様子は全くない。
「何でだよ!1人より誰かいた方が楽しいだろ!?な!1人は寂しいだろ!?」
「別に」
「何でそんなこと言うんだよお前ー!やっと帰って来ていきなり1人で飯なんか寂しいだろ!」
「お前が寂しいだけじゃないか」
どうやらリノ自身が1人で食事するのが寂しいらしい。
だからヴォルティに声を掛けてきたのだろう。
ヴォルティやリノと歳が近いのは調査員の中ではミランダぐらいで、しかもミランダは誰の誘いも断るというから、リノにとって気軽に話が出来るのはヴォルティだけと判断しているのかもしれない。
しかしヴォルティがここまではっきり断っているのに何故かリノが諦めず、結局「めし処 幸子」まで何だかんだ言い合いながら到着してしまった。
「あ、幸子じゃん」
「……知ってるのか」
「な、何だよその顔…」
あれだけ美味しい店だ。リノが知っていてもおかしくはないが、リノが知っていたことに妙に苛ついてしまう。
知らないでほしかった。
「ロベルトさんに連れられて前食ったんだよ、日本の居酒屋メニューに凝ってて旨いよな」
己の知らない情報が飛び出てくると悔しさから舌打ちを1つ、盛大に鳴らした。
それがしっかり聞こえたらしくリノがたじろいでいる。
日本とは確か大陸があった頃に存在した島国でもの作りに長けていたらしい。
そこは食文化も独特だったようだが、あの国では世界中の料理を国内で食べることが出来たとデータに記載してあった筈だ。
そういえば「幸子」というのも日本特有の名前で、そもそも看板には漢字が使われているし、麦茶の時に日本と言っていた。
「あれ、いらっしゃいませ?」
「あ、ミツルさん」
店の前で騒いでしまったからか、店の扉が内側から開かれた。
そこから現れたのは店主のミツルで2人の姿を見て驚いている。
「すみません、騒いでしまって。コイツが」
「コイツって何だよ!お前が置いてくからだろ!」
「お前が勝手に付いて来たんだろ」
再び騒ぎ出したのを見るとミツルは苦笑いして「中入りますか?」と言って促した。
ともあれヴォルティはそのつもりだったので元気良く「はい!」と答えてリノを放置して幸子の扉を潜る。
「えーと、リノさんでしたよね?」
「あ!覚えててくれたんですね!いやー嬉しいなー!」
「…チッ」
「お、お前何だよまた…」
以前来たことがあると言っていたのは本当らしく、ミツルはリノを覚えていたようだった。
それが何故か悔しい。
目の前にミツルがいなかったら帰れと言っていただろう。
「ヴォルティさんはお茶でいいですか?」
「あ、はい。えーと麦茶でしたよね」
「俺酒ください!久しぶりの酒と旨い飯が食える!」
店内のカウンターの奥には客1人、焼いた魚らしきものをつまみに酒を飲んでいる。
真ん中辺りに座るとリノが当たり前のように隣に座った。
同時にミツルが出してくれたのは前回飲んだ麦茶と、リノの前にはジョッキに注がれたビールが置かれる。
「今日はタコが入ってますよ」
「タコ?」
「タコォ!?」
そうミツルが言うとヴォルティとリノは同時に声を上げた。
だがそれぞれの声は違いリノはどうしてか嫌そうだった。
蛸は海中でも時折見るが、まさかあのぐねぐねとした不気味な体を食べるというのか。
「タコってあのタコですよね?足が八本ある…」
「そうです。身が締まっていて今日のは特別良いものですよ」
どうですか、とミツルがカウンターの下から持ち上げたのは紛れもなく蛸で何とも言い難い色の表面が電気に照らされている。
でろりと足が垂れ、より不気味さを醸し出しそれを見てリノが悲鳴を上げた。
「うわ!ほんとにタコじゃん!こいつが俺の潜水機に取り付いてきやがってそれで壊されたんだぜ!」
「1人で壊したんじゃなかったのか?」
蛸の種類によって大きさは様々だがデータによると昔より大きくなっているらしい。
最大の捕食者だった人類の殆どがいなくなったからか、大陸が沈み海ばかりになったからか、理由は解明されていないが海中で見る蛸は概ね1メートルを越えている。
そんな大きさの蛸が体をうねらせながら泳ぐ姿はなかなかのものだ。
大陸文明の人々は蛸を悪魔の魚なんて呼んでいたようだが確かにその気持ちは分かる。
そしてこの蛸だが、潜水機で近付こうものなら墨を吐いて視界を遮ってくる上に潜水機に絡み付いてくることがあるのだ。
1メートルを越える軟体動物に捕まるとあの吸盤もあってなかなか振り払えず思いの外危険な生物だった。
まあ、そんな蛸も向こうからこちらへ手当たり次第攻撃してくる訳ではないので近付かなければいいが、砂などに擬態していることが殆どなので接近するまでこちらも気付かないことが多い。
「いやちょっとうっかりルート反れちまってな?そしたらタコの巣穴つついちゃったらしくってさ、取り付かれたと思ったらマジ離れなくて色々やってたら色んなとこにぶつけて壊したんだよ」
「自業自得じゃないか?」
リノが長期航行に強制参加する羽目になったのは潜水機を破損させたことによる謹慎処分を受けた為だ。
都市に1ヶ月以上戻れず狭い調査船の中で、死ぬ可能性がありしかも無給でただひたすらに仕事だけをする、言葉の割にはきつい処分の1つで「島流し」とも言われている。
謹慎も島流しも大陸文明では違った意味だったらしいが海底ではこれが定着していた。
調査船を島に例えているのだろう。
どういう経緯でこの言い方になったのかはもはや誰にも分からない。
ヴォルティは昨日、リノが島流しになっていたと聞いて馬鹿だなと思っていたが実際は想像よりももう少し馬鹿な理由だった。
「挑戦してみます?シンプルに刺身もいいですが足の塩焼きも美味しいですよ」
「ええ…タコなあ……」
「食べます!」
実際、ヴォルティも蛸を食べることには抵抗がある。多少、どころではなく非常に抵抗がある。
あるのだがミツルが美味しいと言うのだから美味しいに違いない。
「おぉい、こっちにもタコの塩焼きくれ」
「はい、少々お待ちくださいね」
カウンター奥の客がついでと言わんばかりに手を上げている。
人が進んで注文するものだからやはり美味しいに違いない。
ヴォルティも同じ塩焼きを頼んだ。
「リノさんはどうします?」
「えっ…お、俺は魚でいいです…」
何やらリノは蛸がトラウマにでもなっているようで普通に魚の塩焼きを注文した。
勿体ないとヴォルティは率直に思うも口に出すとうるさそうなとで黙っておく。
ミツルは蛸の足を素早く切り分けると細かい何かを、恐らく塩だと思うが、それを振ってから串に刺してからコンロの上に並べ始めた。
「うへぇ…足そのままじゃんか…」
「赤くなるんスね」
コンロの上の蛸は熱が伝わっていくと徐々に鮮やかな赤に変化していく。
じくじくと焼けて表面は輝き魚とは異なる匂いが届いてきた。
吸盤がまるで目のようでこちらを向いているのではという錯覚を覚え、背筋が少しぞわぞわとする。
本当に食べられるのだろうか。
けれどいい匂いだ。見た目はあれだが。
「兄ちゃん達、タコは初めてかい」
「え、あ、そうなんです」
「タコは旨いぞぉ、ぷりぷりで甘みあるんだ」
ぐびりと酒を飲みながらカウンター奥の客が蛸の魅力を語る。
何故か嬉しそうに笑っているがどうやら既に酔っ払っているらしく顔はかなり赤い。
何故かその話を聞いていると食欲が沸いてくる。
「お待ちどうさま、タコの塩焼きです」
「おお、きたきた」
そして、そうこうしている内に長方形の皿に赤と白のコントラストが美しい蛸の足が乗せられてヴォルティの前に置かれた。
30センチはあろうかという大きさで振り掛けられていた塩が輝いている。
カウンター奥の客は両手をすり合わせながら、串に刺さった蛸をがぶりとそのまま食らいつく。その顔は至福を得て幸せそうなものだ。
なるほど。そのまま食べるものなのか。
「よし、食べる」
「えぇ…ほんとに食うのかよぉ…」
見よう見まねで串を手に取ると、一度匂いを嗅いでみる。
昨日の鯖とは全く違う匂いだが生臭さは感じない。
むしろ焼けた香ばしい匂いが空っぽの胃を刺激した。
意を決して一口がぶり。隣でリノが悲鳴を上げる。
「おいひい!」
「マジかよ!」
まず驚くのはこの弾力。歯を跳ね返す程の、だが固い訳ではない蛸の身はぷりぷりで噛めば噛むだけ甘みが増していく。
教えてもらった通りだ。
そしてこの吸盤が身とは違うこりこりとした食感で面白い。
あんな悪魔のような姿からは想像出来ない味がヴォルティを魅惑の世界へと誘ってくる。
美味しい。確かにこれは美味しい。
止まらない。
「お前食うの早くね…?」
あっという間にタコ足一本を食べてしまったヴォルティにリノは少し引いている。
それとは逆にカウンター奥の客はヴォルティの食べっぷりを気に入ったらしい。
「美味しいです!もう一本ください!」
「お前…お前マジか…、よく食えるな…」
これは確かに悪魔の魚だ。人をこれだけ虜にするのだから。
リノに魚の塩焼きを出したミツルは笑みを見せて蛸の足を再びコンロに置いた。
「俺はこっちでいいんだよ、いやーレーション以外食うの久しぶりだぜ!」
「その魚食べたことないな、半分くれ」
「嫌だけど!?」
「はっはっはっ、よく食うなあ兄ちゃん」
同じ蛸の足といっても細い先端側と太い胴体側では食感がまるで違う。
何度も違った味を楽しませてくれるとは。
流石は悪魔の魚。
あんなにもおぞましい姿を見ても今後は微笑んでしまうだろう。
「本当にお前食べないのか、美味しいぞ」
「いやいいわ…」
結局リノは蛸を一度も食べずヴォルティ1人で食べきってしまった。
「ああ、リノはタコで壊したぞ」
次の日、ニッケルにリノの島流しの理由を聞いてみれば本人の言う通り蛸が原因だったらしい。
改めて考えると情けない話である。
潜水機はそこまで頑丈ではないにせよ、そこまで簡単には壊れない。筈だ。
「あー!何で言っちゃうんですかー!お前も何で聞いてるんだよ!」
「いや本当なのかと思って」
ニッケルは笑ってその時の録画データを見せてくれたが画面一杯にタコが映り吸盤が張り付いている。
何を言っているのかよく分からないリノの悲鳴と共に映るそれは映画よりも臨場感があって迫力があった。
これは確かに気持ち悪い。昨日のリノの反応も頷ける。
だが。
「美味しそうだな」
「はあ~!?お前!これが!?」
「いや、実際美味しかったし」
幸子で食したタコの味を思い出すと自然と胃が動くのが不思議だ。
ヴォルティの中ではもう、タコは立派な食材と化してしまっている。
そうなると美味しそうにしか見えない。いや実際美味しかった。
「お前…、お前マジ分かんねえわ…」
心底理解出来ないといった顔をするリノをこれまた心底理解出来ないといった顔でヴォルティが見ている。
この溝は暫く埋まりそうにない。