序
最初痛みの描写とか強めです、ご注意ください。
一瞬にして目の前が真っ暗になった。一体何が起きたのか全く分からなかった。そして彼女が、それを理解する事など一生ないだろう事は事実であった。
何かがぶつかる音、それから続いた肉のひしゃげる音とともに、高らかな女の笑い声が響く。
激痛とともにその笑い声を耳に刻み込んだ彼女は、瞬く間に意識までもを闇に刈り取られていった。
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最初に意識したのは激痛だった。とかく体を走る激痛はひどい物で、泣きわめこうにも肺の痛みはただならぬもので、泣く事も出来なかった。
だから必死に息をした。息を吸っては吐き出し、それすら痛くて、ひいひいという音が引き攣れて出て行った。それでも息をした。
どんなに呼吸が苦しくとも、必死に、必死に、息を繰り返した。
一体何が何なのか全く分からず、手足を動かそうと思っても、手足はかけらも動く気配を見せなかった。
第一視界は真っ暗闇で、自分に手足と言う物があるのかどうかもわからないような状態だった。
さらに痛みで体のあちこちの感覚は麻痺し、おそらく大も小も垂れ流していたに違いなかった。
そんな日々が延々と続くかと思われたある日、その痛みはぴたりと治まった。
どうしてぴたりと治まったのかも、全く分からなかった。視界が真っ暗闇の中、誰も声をかけてこないのだ、それで情報を仕入れようと思う方が無理であり、そもそも自分の耳が満足に使える状態なのか、も、分からなかった。
視覚も聴覚も、もはや奪われたのかもしれないと思った時。
「やれ、峠は越えたらしいな」
知らない男性の声が彼女にかけられて、自分の耳はまともに働くのだ、と彼女はそれで理解した。
身じろぎをした事で、自分の意識がある事が、相手にも伝わった様子だった。
彼女は気付いてほしい、と指と思われる部分を数回繰り返し、規則的に動かした。
「なんだ、意識が戻っているのか、頑丈な娘っ子だ、あんな状態だったのに。あれで何時間も生き延びていた時点で、頑丈なのはわかっていたな」
あなたは誰なんですか。彼女は問いかけようとした物の、肺は満足に動く気配もなく、彼女は包帯の中黙り続けた。
それが一週間続き、いつも言葉をかけて来る男が言った。
「そろそろ、お前の包帯を外してもいい頃だと医者が言った」
返事は出来なかった。しようとすると喉から、自分のものとは思えないひしゃげた音が出たのだ。
あまりにも恥ずかしく、声を出せなかった。
返事のない彼女を何と思ったのか、男が続ける。
「明後日、お前の包帯を外す」
それがどういう意味を持っているのか、その時点での彼女は理解できていなかった。
ただ、怪我が治った事になるのだと思うと、少しうれしかったのだ。
そして三日後、眼が光を感じるようになり、軋む肉体がようやく動くようになった後、彼女は包帯の外れた己の顔を見て、黙り込む事になったのだから。
鏡の中の彼女は、彼女の知る顔とは全く違う整い方をしていたのだから。
そしてそうなるように手術を手配した男が、無情にもこう告げてきた。
「お前はこれから、ここで手術代を全部支払うまで働いてもらうんだよ」
美しい造りの表の建物、行きかう人々、はやす声に、麗しい女性たちを値踏みするため、立ち止まる男性たちの何と多い事か。
そして時折鐘を鳴らして現れる、とりわけ美しく着飾った女性の行進。
この綺羅の空間は、都の誰もが知っている、そして国中の誰もが知っている場所だ。
男性も女性も、この空間に足を踏み入れて、つかの間の夢を見る。
ここはそう言った空間だ。周囲を深い堀に取り囲まれて、札がなければ出入りの自由もない。
出入りの門の前には日夜を問わずに、門番が目を光らせ、こっそりと抜け出そうとした誰かはその場で叩きのめされ、逃げだした店に戻される。
きらぎらしいところはどこまでもきらびやかでありながら、暗い場所はどこまでも暗い。
この土地は、人の幸運も不幸も数多存在する場所だ。
彼女はやっと見えた世界が、自分の知っている働いていた町とも、故郷とも、遊びに行った事のある都とも違っていたため、困惑の声をあげた。
「……ここは一体どこなんですか」
喋った声は自分のものとは思えない音で響いた。
声だけは褒められる物だったというのに。
彼女は自分の声に衝撃を受けた。
「ひでえ声だな」
男はそれだけ言ってから、この土地の名前を教えてくれた。
「お前はここに入ったのにここがどこなのかも知らないのか、ここは陸の黒真珠さ」
聞いた彼女は息をのんだ。その名前だけは聞いた事があったのだ。
そしてそこの店の人間に買われてしまったという事が、どういう未来なのかも知っていた。
そこは一度入ったらならば、そうやすやすと解放される事はない……遊郭だったのだから。
陸の黒真珠とは、国一番の芸者町とも遊郭とも言われている場所だった。
ここで働く多くの女性たちは娼婦であり、家や家族のために自分の身を売った女性たちである。
「私を誰が売ったの」
「買ってないねえ」
「買っていないの」
「お前さん、ずた袋に詰められて、うちの店の前に置かれてたんだよ、迷惑ったらありゃしねえ。どこのごみかと思えば生きてる娘っ子だからな。誰も道を通らないうちに置かれただろうに、息があるって時点で運がいい。俺は運のいい娘っ子が大好きでな、これは運を持っていると思って医者をよんでみたわけだ」
男が煙管を片手にからからと笑った。煙管の中身はとっくに燃え尽き、煙もでていない。
かん、と鋭い音を立てて、男が煙管から灰を落した。
そんな仕草もその男によく似あう物で、彼女は男の気質が余計に分からなくなった。
「医者は、お前さんの顔が二度と元通りにはできないって言ったね。事実お前さんの顔は鼻もひしゃげているわ眼窩は砕けているわ、頬骨は粉砕に近いわ頭蓋は壊れかけているわ、よくそれで生きてられるなって状態だった」
「……だから違う顔に?」
元通りにならないから、別の顔にする。それは聞いた事のないものであり、それだけで高額な料金を出したのだとわかる。
「違う顔にしかできない物だったんだ。だから医者に言ったわけだ。どうせなら黒真珠一の美女の顔にしろってな」
彼女はそこでようやく、自分とは似ても似つかない麗しい顔の理由が分かったような物だった。
自分の顔は新たに作り直されたのだ。そうでしかない。
「後は全身の骨もひどいありさま、足の健も洒落にならない事になっているわ、子宮のあたりも執拗に砕かれているわ、お前さんそれでも生きてられ立って奇跡だぜ」
「……それだけ助けたから、ここで働けというの」
「代金分はな、安心しろ、俺の勝手で助けたもんだ、代金を上乗せはしねえよ」
男はそう言って、ひょいと立ち上がり、衝立の向こうに消えていった。
「店主、お客様がお待ちです」
「今行くよ、待ってな」
男の鷹揚な声が遠ざかっていく。子供の叱るような調子の声も遠ざかる。
彼女はそこで、大きく息を吐きだした。
「……やっぱり酷い声だわ」
『君の声は世界一綺麗な声だね、僕は君の声を聞いているのがとても好きなんだ、もっと町のことを教えてくれないかい』
『君の声で聞く町は、一層素敵な物のようだ、君のおすすめの店の総菜は、宿のものよりおいしかったよ、また何か紹介してくれないかい』
頭に蘇る、優しい彼とのやり取りが、もう二度と叶わない事に、彼女は涙をこぼした。
遊郭のひしめく町で働くのだ、この店もかなり大きい、きっと遊郭だ。
そこの店主に命を助けられた自分は、きっと身を売って働く事になるのだ。だから。
少しだけ、涙をこぼせるうちに、こぼしたいと彼女はぼろぼろ涙をこぼした。
どれだけ声をあげて泣いていても、自分の声は元通りになる事はなかった。




