第7話 妾の可愛い坊やよ良い子だねんねしな
――珍しく机に向かうヨハンは何やら書類を書き込んでいる。どうやら有給休暇の申請書だ。不思議に思ったソフィアが彼の机を見ると、空軍の重鎮が表敬訪問にやってくるという知らせが届いていた。彼の人物こそ、身寄りのないヨハンを養子として引き取った竜族の長でありながら、童女の姿で周囲の人を惑わせるマイアであり、ヨハンが逆らえない人物の一人だった。
「あら、なにをご覧になってますの?」
後宮の庭園で、〝神姫〟ヴィクトリアは来客に訊いた。
庭園に設えられた白亜のガゼボにいた客は主君に気づいて、
「これはご無礼をした――許されよ、陛下」と椅子から立とうとした。
ヴィクトリアはそれを制して言う。
「どうかそのままで、小母様」
後宮に上がることを許されている者は、広大な版図を誇る帝国の中でも、両手の指で数えられるほどしかいない。
これは言うまでもなく、安全保障上の理由が背景にあり、公然の大義名分としては〝伝統〟とされている。
具体的には〝神姫〟の名のもとに任命された各省庁の尚書、武官においては各軍の長官と統帥本部総長、参謀本部議長、憲兵総監といった元帥たちと近衛連隊の指揮官、文官としては宮内省の侍従の高官とその補佐官といった人々だ。
もっとも、それは公にされているものに過ぎず、一部の特権階級の人は例外的に自由に出入りを許されている者もいる。
帝国空軍中将、統合参謀本部次官補、帝都防空基地司令、貴族院立法審議委員、あるいはエフライム侯爵、そして竜族の長――悠久に近い年齢を重ねているだけあり、とにかく彼女には、いくつもの肩書があった。
マイア・ウンドーミエル・ケレブリーアン・フォン・エフライム。
人間に合わせた短い名前を名乗ることが、この二千年の間は多い。
竜族の長にして、世界でも稀に見る長寿を誇る彼女の容姿は一言でいうと童女だ。
なにかの悪い冗談としか思えなかったが、人間の姿をとるとき、マイアはこうなってしまうらしい。
真偽のほどは不明だがマイアはこれから成長期に入るらしい。
実に竜族というものは計り知れない。
力だけなら、この地上に並ぶもののいない実力者が、普段は童女の姿をして人を惑わせているのだ。
ある人間の評はこう伝えている。
〝創造主がマイアを生んだのは、阿片とケーキ用のラム酒を飲みすぎて酩酊していた時に違いない〟と。
この日、マイアのまとっている豪奢なフリルやタフタの折り重なった、臙脂色のワンピースとケープという、古風な身なりは、貴族の女の子が抱いている陶器人形のようだった。
椅子にかけている足が地面に届かず、ぶらぶらと宙に揺れている。
犬の尾のように、それは彼女の感情をよく表していた。
「坊やはよくやっておるようじゃ」
「それは重畳です」
マイアの手にあるのは、空軍の部下から提出された作戦報告書の束だ。
あれから、ハーレークイン小隊はいくつかの作戦に出動し、少なくない戦果を持ち帰っていた。
麻薬カルテルの秘密工場の爆破、地方領主の武装蜂起を未然に阻止、緩衝地帯の捕虜収容所に取り残された同胞の救出、〝聖域〟の森での希少動物の密猟の阻止――どれもが不正規戦で、栄光や名誉とは無縁な任務ばかりだった。
こういうときこそ、彼らの出番として任務が与えられる。
ただ、指揮官が指揮官だけに、ハーレークイン小隊は任務に対して、完璧に忠実であったとは言い難い。
これは非公式な情報だが、麻薬カルテルの工場が吹き飛ばされる前に、精製された麻薬が数オンス紛失したとか。
あるいは武装蜂起した地方領主が所蔵していた宝飾品が何者かに持ち出され、帝都のいくつかの質店によく似た品物が並んでいたこともある。
捕虜の収容所にいた人間だけではなく、家畜や愛玩動物、果ては観葉植物に至るまで残らず回収したこともある。
〝聖域〟の森では、この時代の狩猟では禁止されているトラバサミに密猟者を追い込んだり、彼らが好んで使う大口径で殺傷力の高いライフルで狙い撃つなど、密猟を阻止するためにゲリラ戦方式と称して狩りを楽しんでいたようだ。
「きっと、羽目を外したかったのでしょう」
ヴィクトリアは短い失笑を漏らして、扇子で口もとを優雅に覆った。
マイアは報告書に視線を戻して、眉をひそめる。
「この〝猫じゃらし〟とやらが、何なのかわからぬが――これによって、夜間も精密な空爆を誘導できるようになったそうな」
「猫じゃらし……? それは、つまり猫に関わるなにか、でしょうか。けれど、戦場にそんなものをお持ちするのでしょうか」
「臣の不明をお許しあれ――妾も寡聞にして、そのような通称の兵器を聞いたことはござらぬ」
ヴィクトリアは首をかしげる。
戦場に猫じゃらしとは、舞踏会に水着と同じくらい、場違いなものだろう。
とはいえ、ヨハンは何をしでかすかわからないことが多い。
彼のことだから、本当に猫の玩具を戦場で活用するかもしれなかった。
マイアは報告書のファイルを閉じた。
「臣として謹んで、陛下に申し上げる――信賞必罰は武門の依って立つところ。したがって、いかに不正規戦とはいえ、これほどの戦果を成さしめたことは、他の将兵にも範と示すためにも、名誉勲章の叙勲を推薦してはいかがか」
マイアの上目遣いに対して、ヴィクトリアは目を伏せた。
「わたくしも、そう申したのですが――頑なに固辞されてしまいましたの。先の、魔族との遭遇戦で、部下の方が負傷された折に、ぜひ殊勲賞をとご提案したところ〝そういうのはやめとけ〟と」
「ほう」
「わたくしが不用意に圧力をかけると、政府と軍部に摩擦が生じてしまうと、懸念されておいでのようでしたわ」
マイアは無邪気な子どものように声を立てて笑い出した。
「なんとなんと――失敬、非礼を詫びよう。しかし、あの坊やが、こうも人の立場に対して気遣いをするとはのう。よき子に育ったものよ。とまれ、信賞必罰を厳にした場合、坊やは褒めてつかわせばよいのか叱ればよいのか、判断に迷うところがございますの」
「ええ、まったく」
〝神姫〟は基本的に、いくつかの例外を除いて軍に対して距離を置いている。
その立場から理由のいかんによって叙勲を推薦すれば、政治的な繋がりを疑う者が出てくるかもしれない。
ましてやそれが、新設された連隊に属する得体の知れない小隊に対して行われれば――なおのこと疑惑を深めてしまう。
「さておき、坊やの悪知恵は、存外にも政に向いているかもしれん――退役後には、政界に打って出させるとしよう」
マイアは大真面目な口調で言ったが、童女の外見がそうすると、不思議なことに余計に冗談めいて見えてくる。
ヴィクトリアはヴィクリトアで、マイアの座興に便乗してくる。
彼女は手を叩いて、さも良いことを思いついたように言う。
「その暁には宮内尚書に任命いたしますわ――そうしたら、わたくしたちは毎日一緒にいられますもの」
「大変よきお考えと存ずる――しからば、誰ぞ軍でそれなりに立場のある者から、労いの言葉をかけてやる程度にしておきまする」
マイアが牙を覗かせて笑いかけた。
「小母様のよきように」
ヴィクトリアは微笑して了承した。
ヨハンは執務室に戻ってくるなり、さきほど基地司令、ボーマン大佐から渡された書簡を放り出した。
「やばいやばいやばい、何がやばいってこれマジでやばいわ」
それから、麻薬中毒者の呂律のような口調で、不可解なことを口走った。
「大尉……?」
「ヨハン……?」
室内にいたミリアムとソフィアが怪訝な顔をしていることにも気づかず、彼は自ら進んで書類とペンを取り、何かを書き付け始めている。
あるいは、唐突に指揮官としての使命感に目覚めて、溜めこんでいる報告書の締切が過ぎていることを思い出して、自らの職務に邁進する気になったのだろうか。
もしもそうならば、数万年前から死火山である巨峰が五秒後に大噴火するだろう。
好奇心に駆られて、ソフィアがヨハンの肩の上に立って、上官の手元を覗いた。
彼が一所懸命に書き込んでいたのは、
「有給休暇の申請書……?」
ミリアムは首をかしげて、執務室にある黒板にかけてあるカレンダーを見た。
「大尉、明後日からお休みでは?」
小隊の予定表では、ミリアムが指摘した通り、明後日から数日の休暇が与えられることになっていた。
「それじゃ間に合わな――ああ! 畜生! 破けた! この糞ったれの紙切れが!」
ヨハンは悪態をついて、書き損じた書類を丸めて後ろに放った。
「一体、何ごとですか?」
ミリアムが訊いた。
「ん――これのせい?」
〝陸軍第九九連隊直属第一小隊指揮官――ヨハン・ユージン・スミス殿。先日の陸軍の要請に際して敢行された近接航空支援において、貴隊による精密な誘導に空軍より感謝を申し述べたい。ついては、今月の九日に代表者が表敬訪問に伺うことをご承知おき願う。かしこ。帝国空軍帝都防空司令、エフライム〟
「……と」
ヨハンの手元にあった書簡を、ソフィアが読み上げた。
どうやら、明日にも空軍の重鎮がこの第九九連隊基地に訪れるらしい。
そして表敬訪問という名目でここに訪ねてくるのは、文面とヨハンの狼狽ぶりから察するに、彼の後見人だったマイアであることは明白だ。
「エフライム侯爵閣下がお運びになるのですかっ!?」
ミリアムは咄嗟に、社交界での呼び方をしてしまった。
「少尉――ここは軍隊」
「あ――つい。失言だった、訂正させてもらおう。特務准尉」
「ん――少尉はエフライム中将に会ったことある?」
「何度か、遠目に晩餐会でお見かけしたことはあるが――雲の上の人だから、小官も面識はない。なんというか、小柄なお方であった気がする。あのお方については、大尉がお詳しいはずだ」
「ならヨハンに教えてもらう」
部下の乙女たちの会話を無視して、ヨハンは懲りずに別の紙を取り出して書き込んでいる。
「よし、除隊だ! 除隊して旅に出よう――保養地のある南国がいいな。これから暑くなるし。ビーチで日焼けしてる間は、水着のねーちゃんを眺めながら、ダイキリをこう、きゅっと」
「ほう――それはよきかな。妾も、ちょうど水着を新調しようとしてたところじゃ」
不意にヨハンの背後、窓の外から声がした。
「!」
ヨハンは背中に爆弾の破片が食い込んだときのように痙攣した。
おそるおそる彼が振り向くと、兵舎の窓枠に両手をかけたマイアが、士官の執務室を覗き込んでいた。
「出やがったなババア!」
「これ、お口が悪いぞえ――元気そうじゃの、坊や」
「坊や……?」
「ここに男はヨハンしかいない」
ミリアムとソフィアが、口々に言って顔を見合わせては、ヨハンとマイアの方に視線を戻す。
「どっこいしょ――ふう」
そう言いながら、マイアは窓枠をよじ登って、縁の上に腰かけた。
床に届かない足は膝の下まであるブーツを履いていたが、足の大きさはヨハンの手ほどしかなかった。
その童女は空軍の制服を身につけており、肩には将官がつける金色の星型の階級章が二つ並んでいた。
胸には無数の略綬が並び、柏つきの金地に紅い炎をまとった蒼い剣と黒い竜を象った勲章がひとつ留めてある。
その反対側の胸には彼女の苗字も刺繍してあった。
「エフライム中将閣下!」
ミリアムは反射的に直立して敬礼した。
「おお、誰ぞと思えば、シメオン家のお嬢ちゃんではないか――奇遇だのう。ちょうどよい、近うよれ」
マイアは手招きしてミリアムを呼ぶ。
呼ばれた方は、足早に歩み寄って黙礼をしてから、お辞儀をする。
頭を垂れながら彼女は言う。
「ご機嫌麗しゅう存じます――閣下のご高名はかねがね聞きおよび、こうしてご尊顔を拝する日を、末席とはいえ帝国軍に身をおいてから……」
「よいから――降りるのを手伝いあれ」
ミリアムの口上を遮って、マイアは両手を伸ばした。
「なんであんたがいるんだよ――そもそも、来るのは明後日だろ? ついにボケが始まって、今日の日付もわかんなくなっちまったのか?」
ヨハンがいつもの調子で訊くものの、マイアはミリアムの手を借りて窓から降りるのに忙しそうだった。
「いや、聞けよ――おい、ババア! どういうことだっ!?」
「なんじゃ、騒々しいのう――そう声を高くせんでも、ちゃんとおばばには聞こえておるぞよ」
「さきほどから気になっておったが」
「は――閣下」
急に〝訓練がある〟と言い出したヨハンに代わって、第九九連隊基地の視察に訪れたマイアの案内はシニアに一任されていた。
さきほど基地司令、ボーマン大佐に面会し、予定が繰り上がったことを伝え、現在はハーレークイン小隊の使う設備をマイアは見て周っている。
傍目には、壮年の男が孫娘を連れて歩いているような絵面だった。
もっとも好奇の視線を集めこそすれども、ハーレークイン小隊の下士官たちを日頃から束ねている、先任上級曹長に絡んでくる命知らずはいないようだ。
「なにゆえ、兵舎のそばに厩舎があるのじゃ? それも牛の」
マイアの質問とともに、間延びした牛の鳴き声がした。
それを聞きつけた当番の下士官たちが、二人の見ている前で厩舎に駆け寄っていく。
「先日の作戦で回収したのはいいのですが――これはあくまで、引き取り手が現れるまでの、一時的な措置でして」
「それにしては、丁寧に世話をしておるではないか――まあ、よい」
当初は基地で加工して食べるという話だったのだが、ミリアムとソフィアを中核とした愛護派の猛反対にあい、説得されたのだった。
決め手になったのは、
〝搾りたてのミルクで美味しいカプチーノが飲める〟というソフィアの一言だ。
帝都育ちのヨハンだが、人づてに牛乳とバターは新鮮なほど美味しいという話を聞いたことがあったため、それに食いついたようだ。
その際に、彼はまたしても不埒な言葉を口から漏らして、ミリアムの機嫌を損ねていた。
「なんとも、牧歌的な基地じゃのう――牧場といえば六三年の夏に、坊やを田舎の別邸で過ごさせたことがあった。そこで初めて馬に乗せたら、高いところが〝怖い怖い〟と申して、とうとう泣き出してしまいおったのう」
「それはそれは」
次にマイアが案内されたのは、兵舎の中にある下士官たちの起居する部屋で、むさくるしい男の四人分の体臭が鼻についたのか、
「次じゃ、次」とマイアは別のところに行こうとする。
「こちらでは武器、弾薬等を保管しております」
兵舎から少し離れ、半分地下に埋めてあるトーチカのような建物の中にマイアは案内された。
そこは、ハーレークイン小隊がほぼ専有している第九九連隊基地の武器庫だった。
銃架には小銃や軽機関銃を始めとした、小隊で運用している銃火器、擲弾筒、携帯無反動砲や小口径の迫撃砲といったものが揃えて掛けられ、中には分解された大口径の汎用重機関銃まで置いてあった。
「これは見たことがないが」
マイアが指摘したのは、改良中の小銃の試作品だった。
帝国陸軍の小銃は樫の木で造られる、半自動式のライフルだったが、一部の帝国軍将兵からはより軽量で自然環境の変化に強い、硬質樹脂を用いた新型を熱望する声が少なくない。
「ああ、そちらは大尉が近所の銃砲店から部品を購入したものを、ガンスミスが組み立てたものです」
ハーレークイン小隊は遊撃部隊という性格上、通常の軍隊とは異なり、急襲と離脱を繰り返すことが多い。
また、飛竜のキャビンといった狭い空間で待機することも多いことから、試作品は銃身や銃床を短く切り詰めて取り回しをよくする工夫が凝らされているようだ。
「昔からある騎兵銃を、当世風にしたのだと仰っておりました――銃身の長さを十六インチにするか、十四インチ半にするか長く迷っておいでのご様子でしたね。最終的には現行の小銃弾の旋条と相性の良い、十四インチ半に落ち着いたようであります」
「ふむ――いっそ銃床は、短機関銃のようにしてみてはどうじゃ? 折りたたみ式にできるであろう?」
「それがですね、大尉は固定式の方がお好みだそうで――格闘で壊れたりすると、射撃の際に不具合が生じますし」
「さもあろう」
小銃の改良というものは、どこの国でもそうだが、なかなか進まないのが現状だった。
理由はいくつかあるものの、第一は予算だ。
政府や軍の上層部は、新兵器開発と運用に巨額の予算を投じるが、そうなってくると歩兵用の銃や個人装備にかける予算は後回しになってしまう。
今では考えられないことだが、近代以前まで遡れば、兵士の給金は未払い、支給品も入隊したときの一度きりで、遠征先から文字通り裸足で帰ってきた兵が多数いたものだった。
程度の差こそあれども、組織的な体質はそう簡単に代謝するものではない。
ヨハンは自分と部下には常に完璧な装備が必要だと、しつこくボーマン大佐に進言していた。
ボーマン大佐も兵卒から成り上がった人なので、その主張には理解を示したものの上層部が予算を増額することはなかった。
そもそも第九九連隊基地――というより、ハーレークイン小隊には通常の歩兵小銃小隊では考えられないほどの予算と設備が与えられており、破格の厚遇と予算を与えられているのだ。
それを知った上でヨハンは〝足りない〟と駄々をこねている。
「なら自分たちでどうにかします」
こうして、ハーレークイン小隊は任務に赴くたびに、持ち主や所有者が有耶無耶になる場面で物資というより金目のものの現地調達に勤しむことになる。
シニアからそうした裏話を聞いたマイアは、ようやく報告書の奇妙な部分に合点がいったようだった。
「ところで、先任上級曹長」
「は」
「お主なら存じておるやもと思うたが〝猫じゃらし〟とはなんぞ?」
「ああ――それは、装備品ではございません。閣下」
「……?」
夕方になって、訓練と称してマイアから逃げたヨハンが戻ってきたとき、執務室では猫を膝にのせたマイアが嬌声を上げていた。
その様子を一瞥するなり、心から憮然としたようにヨハンが言う。
「いい歳こいて、なにやってんだよ……」
「おお! 坊や――いまな、これなるエインセル嬢に〝猫じゃらし〟とやらを披露させておるところじゃ!」
ソフィアの操る光線に釣られて〝ジェネラル〟が談話室のテーブルを踏み台にして、勢いよく跳んだ。
その前足が天井をかすめていく。
「おぉお! よく跳ぶものよ――飛竜にも引けをとらぬぞ!」
「今のは新記録――さすがジェネラル」
ソフィアはそう言いながら、手を叩いてジェネラルを褒めている。
「まったく大した小動物じゃ」
そうして無邪気に喜ぶ童女の姿は、まるで人間の少女のようだった。
ヨハンはシニアからの報告を聞いてからここに来たので、彼女の用が全て終わったと思っていた。
「視察は終わったんだろ? 早く屋敷に帰れよ――いつもご自慢の六頭立ての馬車はどうした?」
「んん? なにを申しておる――妾はまだ帰らぬぞよ」
「は?」
「とはいえ宿の用意はないからの――坊や、おばばを泊めておくれ」
「やなこった」
ヨハンは即答した。
「あとそこ! 人の家庭事情をじろじろ見てんじゃねえ!」
声を上げると、執務室の扉を細く開けて、部下たちが様子を覗き見していた。
彼らからすると、普段は飄々とあるいは誰に対してもふてぶてしく振る舞うヨハンが、マイアに対してはやりにくそうにしているのが興味深いようだ。
ハーレークイン小隊の内部事情に精通していないマイアが、不思議そうな顔をしている。
彼女はしごく当たり前といった様子でヨハンに訊く。
「なにゆえぞ? 子というものは、田舎から母親が様子を見に来たら、褥を用意し、食事や風呂の世話をし、思い出話をしながら眠りにつくものじゃ」
「よそはよそ! うちはうち!」
「口の減らぬことよ――まあ、それはとまれ、表敬にわざわざ訪ねてきた空軍の重鎮を無碍に扱わば、陸軍との間に要らぬ溝ができよう。ほれ、ここはそなたの器の大きさを見せるところぞ。わかったら、せいぜい母を歓待するがよい」
「自分の立場を悪用して相手の弱みにつけ込むなんて卑怯だぜ!」
「それは、ヨハンがいつもやってること」
ソフィアが指摘した通り、彼はしばしば自分の立場と相手の弱みを利用した振る舞いをする。
なるほど、まさしく彼女はヨハンを育てた人だと、ハーレークイン小隊の隊員たちは全員が納得した。
「なんじゃ、汚いのう――狭いのう」
官舎に上がったマイアは率直な感想を漏らした。
「掃除に来てくれる、健気なおなごの一人や二人、おらんのかえ?」
マイアはそう言うが、ヨハンの官舎は独身の男の住まいとしては、それほど散らかっているわけではない。
軍隊生活をした人間は自然と整理整頓が身につく。
ヨハンもそれに倣っている。
「そんなもんいねえよ――若くて独身でそれなりの見た目してんのに、なぜか俺はモテねえんだ。ほんとになんでだろうな? もしかして、六十分コースしか選ばなくて、延長料金とお嬢たちへの差し入れををケチってるせいか?」
マイアは慣れた様子でヨハンの無駄口を聞き流しながら、我が子が普段どう生活しているのか、室内を歩き回って確認していく。
部屋は食堂を兼ねた居間を含めて三つで、それ以外は寝室と書斎という名のレコード置き場にそれぞれ分けてあった。
居間に設置された不釣り合いに大きなスピーカーを除けば、最低限の家具が置かれているだけで、調度品――絵画や時計、あるいは何かの置物、写真といった飾り気がまったく無い、ホテルの部屋よりも質素な暮らしぶりだった。
レコード以外の収集品といえばウイスキーくらいだが、ほとんどが普及品で、他には杏や蜂蜜のリキュール類が少しだけある。
これらはその日の気分に合わせてウイスキーに少し垂らし、寝酒として愉しむために使われている。
自炊をしている気配がないのは、汚れのない流し台を見ればよくわかった。
少し見て回ると、マイアは嘆息しながら言う。
「仮住まいじゃの――お主は昔からそうじゃ。そのか弱き身と儚き命だけが自分のものと思うておる。居場所とは、見つけようとするものではないと知るがよい。さしあたっては、いま少し、おなごを呼ぶにあたうよう整えよ」
その小言にヨハンは首をかしげる――彼女は一体、何を懸念しているのか。
「呼ぶ相手がいねえよ――あ、最近、あの店は出張サービスをはじめてたな」
「シメオン家のお嬢ちゃんがおるではないか――それとも、お主の好みは、自ら口説きに参ったという妖精の小娘のほうか?」
「は?」
ヨハンは声を上げた。
「そなたもそろそろ、身を固めてよい齢じゃ――孫の顔もみたいしのう」
「話が飛びすぎてるぞ――部下に手を出すほど、性根は腐っちゃいねえよ」
そう言って、ヨハンは初任務のときに、ミリアムの尻に触ったことを思い出した。
また、ソフィアに対しては日課のようにスカートをめくって、下着の色や柄を確かめている。
「……多分」
「まあよい――さて、なにを作ろうかの」
マイアは臙脂色の上着を脱いで帽子掛にかけると、袖をまくりはじめた。
彼女は侯爵という身でありながら、ヨハンが幼い頃には離乳食を手ずから作り、日々の食事や学校の行事に必要な弁当まで侍女たちに任せず、自ら世話をしていた。
「上級曹長に案内された食堂で、昨夜から明晩までの献立は把握しておる――安心して待っておれ。主菜は魚がよかろう。舌平目の良いのが間もなく届くはずじゃ。デュグレレのレシピを再現してしんぜよう。そなたの基地で、新鮮なバターも入手できたしの」
マイアの言葉通り、すぐに食材やワインが侍女たちによって届けられた。
どうやら、彼女は最初からヨハンの部屋に泊まるつもりで用意を整えていたらしい。
竜族の長は食材とともに届けられた、歪な花の形のフェルトが縫い付けられたり、ところどころが斜めになった名前の刺繍が施された、古ぼけたエプロンを身に着けた。
「まだそれ持ってたのか……」
彼にはそれに見覚えがあった。
「当然じゃ――坊やが妾のために拵えた、正しく家宝である。これだけは、たとえ陛下に請われても献上せぬ」
ヨハンは気恥ずかしさを誤魔化すために、細巻きに火をつけた。
「ほれ、厨房は妾の前線じゃ――湯浴みでもしてくるがよい」
それからしばらくして、食事を済ませるとマイアも風呂に入って、ヨハンに背中を流すように強要してから寝間着に着替えた。
その間に彼女の寝床を用意した――というより自分のベッドをいつもより綺麗に整えていた。
ヨハンは自分が寝るために使う、防水透湿生地のカバーをはずした寝袋を丸めて、ソファの肘掛けに置いておいた。
「晩酌でも付き合わんか――そこに誇らしげに飾ってある逸物は、妾が来たときのためであろう」
マイアが指差したのは、一八年もののウイスキーで、ヨハンの収集物のなかでも最も高価な宝物だった。
通常はオークの樽を使うところを、使い込まれたシェリー酒の樽を用意して、長い時間をかけて熟成させている。
「……」
「ほれ早うせい――おなごを焦らせてよいほど、お主はまだ歳を重ねてはおらぬ」
「……」
ヨハンは迷った末に諦めて瓶をとった。
美食家のマイアの舌を満足させられるもので、自分が用意できるのはこれしかないと理解したようだ。
コルクの栓を抜くと、特徴的な潮の香りが立った。
この酒の蒸留所があるのは、シニアの故郷の離島だったはずだ。
グラスに注ぐと、
「こうして坊やと酒を酌み交わせるようになるとは嬉しい限りぞ――涙を流したいほどじゃ」
「泣きたいのはこっちだ」
そう言いつつ、ヨハンは秘蔵の酒を味わった。
強烈な香りのわりに、熟成が進んでいるせいか口当たりはまろやかで、僅かな甘みとともに酒が喉を通っていくと鼻から抜ける香り――そして飲み込んだあとに立つ残り香へと複雑に変わっていくとともに、喉や身体の芯が温まっていく。
「のう――近々、お主らには新たな任務が下るぞよ。勅命じゃ」
ベッコウ飴を口に放り込み、ダイヤモンドに匹敵するほど硬い歯で力任せに飴玉を噛み砕きながら、マイアはグラスの中身を干して言った。
飴玉の代わりに、ヨハンは細巻きに火をつけたところだった。
「また厄介事か――と言いたいとこだが、そろそろ俺たちも慣れてきたから、なんとかするさ」
マイアを見ると、彼女は小さい手でグラスを包むように、テーブルの上で持ったまま目を閉じていた。
「これは、明後日まで極秘じゃ――心して聞け」
「やけにもったいぶるじゃないか――似合わねえから、早く言えよ」
ヨハンが促すものの、マイアはまったく動じず、少し間をおいてから口火を切る。
「……帝国と魔界連邦の講和が遅々として進まぬ件でのう――魔界側から交渉に全権代理人を派遣したいと打診してきおったのじゃ」
ヨハンは眉をひそめた。
外交交渉の全権代理人を担う人物――そうした重大案件を任されるのは、その国の大臣や尚書といった、国家の重鎮と相場は決まっている。
「魔界の連中って馬鹿なのか? この時期にそんなの、暗殺してくれって言ってるようなもんだぞ」
しかし、自分で言ううちに、彼は何かに気づいたのか、
「もしかして、うちの新しい任務ってそれか?」と訊いた。
「はて?」
こんどはマイアが首をかしげた。
「いやだから、その外交官をぶっ殺せって、任務じゃないのか――あんまり、繊細な仕事は現状のうちの隊じゃ厳しいと思うんだがな。事故や病死に見せかけるのって、けっこう手間かかるんだろ?」
「これ、誰もそんなことは申しておらぬ――早合点してはいかんぞよ。お主らに与えられる任務はむしろその逆じゃ」
「逆――おい、まさか」
「むしろ、お主が言ったように、この機に乗じて使者を亡き者として、戦だねにしようと蠢動しておる不届き者をあぶり出すのが、真の任務というべきかの」
マイアの口ぶりからすると、主戦論をいまだに唱えている軍上層部の一部は、消化不良に終わった戦争を再開させようと企図しているらしい。
大戦末期に計画された〝オーバーロード作戦〟という、魔界本土への大規模な浸透が決行の直前になって中止命令が下ったことが、その主な要因だと見られている。
目下のところ誰がその陰謀を巡らしているのか、特定できないために、魔界からの要人の警護にヨハンたちを当たらせようとしているようだ。
「無茶言うなよ――それこそ俺たちは門外漢だ。それに、帝都での要人警護は、憲兵隊が仕切ってて、うちは絡めないだろ?」
「そちらは我ら――統合参謀本部が調整するから、心配は無用じゃ」
マイアは断言した。
「陛下はなんとしても、戦の再燃を防ごうと躍起じゃ――されどかの御方には信用あたうる兵があまりにも少ない。強いて申せば近衛がおるものの、外国の使者ふぜいの身を安堵させるがために自国の近衛をまわす愚か者は、君子たる資格がない。御方にはお主がおる」
「あいつを引き合いに出されて断ったら――叛乱罪で、俺は十字架を背負わされてお立ち台だ」
マイアは笑った。
「臣としての義務をともに果たそうぞ――妾にできることなら、なんなりと相談するがよい。全てに便宜を図って進ぜるゆえ。さて、それを呑んだら褥に来るがよい、久かたに子守唄を囁いてやろう」
「冗談じゃねえ――股間に密林を生やす歳になってまで、そんな恥ずかしい真似ができるか」
「妾からしたら、お主はいくつになろうと子どものままじゃ――バーブシカの前で虚勢を張る必要はないぞよ。さ、わかったら寝るがよい。妾の可愛い坊やよ」
翌朝ベッドで目覚めたヨハンは、うっかり間違ってマイアの昔の呼び名を口にしてしまった。
彼は心から頼み込んで、絶対にそれを口外しないことを約束してもらうと、不安そうな顔をしながら基地に出勤していった。
秘密を暴露されることか、あるいはハーレークイン小隊に新しく与えられるであろう、厄介な任務のどちらが彼の表情を固くしているのだろうか。
答えを知っているのはマイアしかいなかった。