第6話 猫――風が吹けば桶屋が儲かる真相
――ヨハンとシニアが外出から戻ると、小隊の談話室に奇妙な闖入者があった。留守中に部下たちが猫を基地の中で拾ったらしい。容赦なく猫を捨てるよう命じるヨハンと、ソフィアとミリアムを中核とした愛護派は対立する。相容れない両者の主張の果てに、猫を抱えて基地から逃げようとした乙女たちにヨハンは言う。「無駄な抵抗をやめて、猫を捨てろ!」と。
統合参謀本部は、ハーレークイン小隊の処遇について紛糾しているらしい。
彼らが不可抗力とはいえ〝来訪者〟を見殺しにした点がひとつ。
これだけでも、指揮官と彼に属する幹部たちを更迭するには充分だった。
ただ厄介なことに、ハーレークイン小隊はその際に、魔族の襲撃を撃退し、さらには極大呪文の発動を阻止したという。
小隊規模の部隊とは思えないほどの戦果を帝国陸軍にもたらした。
貴重なダムを破壊した点に関しても、問題視する声があったが、これは空軍から〝座標を聞き違えた〟さらに〝不幸な事故だ〟と、信じがたい知らせが入り、責任の所在が有耶無耶になってしまった。
結果的には、諸々の事情を勘案して、ハーレークイン小隊の処分は保留として、あらためて内偵中のシメオン伯爵令嬢からの報告書を待つ、という結論に至った。
肝心のシメオン伯爵令嬢――ミリアムが負傷して加療中だったため、統合参謀本部はしばらくの間、ハーレークイン小隊には待機を命じることになる。
命に別条はないが、全治には二週間かかるという話を軍医から聞いたヨハンは、シニアと相談した。
小隊には交代で一週間の休暇を与えてもらうよう、ボーマン基地司令に話を通すためだった。
執務室を訪ねるとボーマン大佐は言う。
「よく命があったもんだ、そう思わんか? 大尉」
ボーマン大佐は、元々統合参謀本部の幕僚補に就いていた人物で、大戦の最中に帝都で行われていた派閥闘争に敗れて、閑職に追いやられた人だった。
また、帝国は封建的な社会構造が根付いているために、黒い肌の有能な平民が白い肌の無能な貴族に命令を下すことに、公然と異を唱える風潮がいまだに存在する。
「はあ――まあ、防具の性能と運と、乳の大きさに助けられたようなものですかね」
「違う――貴官ら全員のことだ。その魔族は〝サムエル〟と名乗ったんだろう?」
「はい」
「彼は魔界連邦の現宗主国の王太子だぞ――二つ名は〝宵の明星〟だったか」
「ええ!? マジですか!」
「口を慎め、若造――どこに耳がついてるかわからんのだからな」
両肘を机について、指を組み合わせた手を鼻と唇の上に当てながら話すボーマン大佐は、片目を閉じてみせた。
「……失礼しました、大佐」
「統合参謀本部からも、貴官らハーレークイン小隊に休息を取らせよとのことだ――私からも異論はない。次の任務まで、しばらくは安らうがいい。しかし、スミス大尉。貴官には副官が不在の間、たっぷりと書類を提出してもらうぞ」
ヨハンは瞬いた。
「そんな、小官だけ休暇は返上ですかっ? あんまりです、大佐。だいたい……」
そう異議を唱えたが、上官が机の上に見慣れた箱を置くと、
「あ……」と口をつぐんだ。
ボーマン大佐は箱を開いて言う。
「私のシガーボックスから葉巻をくすねておいて、ただで済むと思ったか? もういい、失せろ」
ヨハンは敬礼して踵を返した。
基地司令の執務室を出たヨハンは、ポケットからいつもの細巻きではなく、大佐が愛用している大ぶりの葉巻を取り出した。
同じものが、ポケットにはあと三本ある。
「持つべきものは、残業代の先払いをしてくれる上官だよな」
兵舎に戻るとヨハンは部下を集めて、交代で休暇をとらせると告げた。
部下の半分が陽気に兵舎を出ていく声と、シニアの暇乞いの挨拶を聞きながら、ヨハンは机に向かっていた。
机の上にあるカップで、ソフィアは湯浴みをしながら身を乗り出して言う。
「また間違ってる――こんどは綴りが」
ヨハンは集中力を使い果たしたのか、ペンを机の上に転がして、椅子の背もたれをきしませながら天井を仰ぐ。
「お前さんも休暇中だろ――たまにはあの怖いおっかさんに、顔を見せに帰ってやれよ。安月給で靴下でも買ってやってさ、せっかく親孝行できる相手がいるんだから」
「いい」
ソフィアは言った。
シニアにも休暇を与えたため、ヨハンはミルクの泡のないコーヒーを口にする。
「あなたのそばにいたいから――と言ったら、嬉しい?」
相変わらず表情を変えずに、妖精の少女は言った。
「はいはい――嬉しくてたまらないね。うろちょろしてくれるおかげで、書類は進まないし、綴りがどうの記入欄がどうの、煙草の吸いすぎだの、掃除をしろだの、世の中の所帯持ちって、みんなこんな感じなんだろうな。どうかしてるぜ。ん? なにやってんだ?」
いつもの益体のない無駄口を聞かされたソフィアは、いつの間にか背中を向けていた。
妖精の少女がどんな表情をしているのか、ヨハンからは見えない。
しばらくすると、カップの湯船から上がったソフィアは何も言わずに、書類仕事を手伝い始めた。
なにか心境の変化でもあったのかと訊けば、
「目の前にやりかけの書類があるのは精神衛生によくない」とソフィアは言った。
山のように積み上げられていた書類は、みるみるうちに片付いていく。
その日の夕方には申告書類が一段落し、あとはヨハン一人になっても、一週間もあれば終わらせられる程度の分量になっていた。
「お礼は高いお菓子でいい――どこかにいいお店を知ってる?」
「こんな時間にやってる店があるかよ――あ、ちょっと待った。あそこなら、絶対に食い物があるはずだ」
「こんなところに、お店があるの?」
ヨハンはソフィアを連れて帝都の中央まで外出していた。
二人が歩いている道の横は、一面、白亜の高い壁が外界との境界線のようになっている。
彼らがいるのは、宮殿の外壁に面した通りだった。
間もなく通用門が見えると、ヨハンはそこに近づいた。
彼はそこで、ソフィアが初めて見る、金属でできた身分証を差し出した。
「武装は全てこちらに」
近衛兵に言われる通り、ヨハンは拳銃や予備の弾倉、それから帯剣の代わりに腰から下げている銃剣を差し出した。
「後宮――初めて入った」
ソフィアは、巨人が通れそうなほど天井の高い廊下を、上から下まで行ったりきたりしながら、飛び回っている。
「今日はピンクのレースなんだな――まるで一晩十ギニーの高級淫売婦みたいで好みだぞ」
「そう……」
近侍に案内されると、窓に面したサロンに二人は通された。
「まあ、よくいらっしゃいました」
そこで待っていた女性が声を上げて二人を歓迎する。
「陛下……?」
ソフィアがヴィクトリアを見て瞬いた。
ヨハンから見ても、驚いているのがよくわかった。
ヴィクトリアは駆け寄らんばかりに足早に近づき、優雅な仕草でヨハンの手をとった。
「ご無事のご帰還に、心よりのお喜びを申し上げます――部下の方のお加減は、その後いかがでしょう」
「大丈夫だ――しかし、お前さんに心配されたと知ったら、逆に心停止しちまうかもな」
「まあ――では内緒、ということで」
ヨハンが親しげに〝神姫〟と話しているのを見て、ソフィアはもう一度瞬いてから、二人を見ていた。
「どういうこと?」
休暇が明けると、ミリアムは無事に退院して部隊に復帰した。
再び体制が整うと、新しい任務の通達を受けるため――ではなく、上流のダム湖を空軍が〝誤爆〟した経緯の説明と、魔族との戦闘の報告、〝来訪者〟を回収できなくなった件に関する釈明を直に行うために、ヨハンはシニアを伴って、帝都の中央にある統合参謀本部に出頭した。
ミリアムはミリアムで、病み上がりだと言うのに、休暇中にすっかり士気が低下し、腑抜けた部下たちを鍛え直すと言い出して、猛訓練を課すと張り切っていた。
「元気そうだし――まあ、いいか」
「そうですね」
しばらくして、統合参謀本部から例によって厄介な命令を持ち帰ってきたヨハンたちは、談話室で騒いでいる部下たちを注意するために踏み込んで、
「気をつけ! 隊長のご帰還である!」とシニアが声を張った。
小隊長と小隊軍曹が戻ってくると、談話室で休憩していた屈強な軍人たちはいっせいに威儀を正して振り返る。
「敬礼も整列もいい、そのままで――それより、少尉と特務准尉はどこ行った?」
ヨハンは部屋の中を見回した。
溶けた鉄でできた氷のように固まっている先任の部下――ミリアムとソフィアに次ぐ序列の下士官に、シニアが促す。
「ローガン一等軍曹、メイソン一等軍曹――報告をせよ」
「にゃーん」
「……ん?」
ローガンやメイソンより先に、談話室のテーブルの中央に置かれた箱から声がした。
「にゃーん」
もう一度、鳴き声が聞こえるとともに、慌ただしくミリアムが戻ってきた。
「待たせたな、諸君――酒保の需品係から、必要な物資を調達してきたぞ! 猫ちゃん猫ちゃん、待たせちゃってごめんねー。すぐご飯にするからねー」
彼女は両手に荷物を抱えているため、前がよく見えないようだった。
「……」
ヨハンが無言で振り返ると、これまでに見たことがないほど顔の筋肉を緩ませていたミリアムと目が合った。
「あ――大尉っ!?」
「物資の調達ご苦労だったな――さすが、少尉だ。独断専行を旨とする、うちの小隊の手本として、俺が命令していないことをやってのけたわけだ。なんだっけ? 〝猫ちゃん猫ちゃん〟のために」
ヨハンは意地悪そうな口調で、裏声を交えながらミリアムの真似をして言った。
「あ、いや――その、これは……」
ミリアムが狼狽して答えに窮し、
「少尉、帰ってきたの?」と猫のいる箱からソフィアの声がした。
ヨハンは嘆息して言う。
「そこにいたのか」
「猫の毛皮は布団に適しているかどうか調べてた」
「なんだそれ?」
「お昼寝」
ソフィアが悪びれもせずに言った。
「捨ててこい」
部下たちから報告を聞いたヨハンは即座に言い放った。
その隣には、憮然としたまま立っているシニアもいる。
談話室は途端にブーイングの嵐となって、部屋の中の空気を切り裂いた。
その中心にいたのは、意外にもミリアムだった。
「ご無体です! 大尉!」
「そーだそーだ!」
「上官の横暴を許すな!」
「動物愛護!」
ミリアムの抗議に、下士官たちは無責任に便乗してきた。
「黙れ馬鹿ども! 捨てるのが嫌だってなら、保健所に引き取らせるぞ! 兵舎でペットを飼えるわけがねえだろっ!? うちはもう、妖精を飼ってるんだから、それで我慢しなさい!」
ヨハンはそこで、談話室のテーブルの箱を見た。
「あとそこ! 上官のお説教タイムに、猫と遊ぶな! というか、なんだその光る線みたいなやつはっ!?」
注意されたソフィアは、周囲の光を集めて収束させ、波長の安定した光線を指先から出して、猫の注意を惹いて遊ばせている。
「さっき覚えた」
「マジかよ、それ遠くに届くなら目標の指示に使えるんじゃねえか――って、そうじゃねえ。猫で遊ぶなって言ってんだろっ!?」
「猫と遊んでる――接続詞と助詞を間違ってもいいのは未就学児まで」
「大尉、それに特務准尉も――本題に戻りましょう」
シニアが仲裁すると、ヨハンは箱の中身をどうするか、話そうとした。
談話室のテーブルを見ると、今しがたまで角を突き合わせていたはずの妖精の少女が、問題の箱にとりついている。
「少尉、この子はお腹がすいたって」
「大変だ! 用意しないと!」
ミリアムは訓戒の途中にも関わらず、談話室を飛び出していった。
「おい!」
ヨハンが呼び止めるが、彼女は我を忘れているようだ。
その背中を見送ると部下たちに向き直って彼は言う。
「まったく――まあ、少尉の貴重な猫なで声が聞けたから、今回は大目に見てやろう、と言いたいところだけどな。この件は、小隊内で処理するぞ。絶対に外には漏らすな。というか〝訓練中に、演習場をうろついてる猫を拾いました〟って、そんな報告をボーマン大佐に出したら、俺の正気が疑われちゃうだろ」
もう手遅れだ。
口にこそ出さなかったが、居並ぶ下士官たちは互いに顔を見合わせて、頷きあっている。
「なら、飼っていい?」
「それとこれとは別だ! 基地で猫を飼うのは駄目だ! 捨てろ!」
「誰かが引き取ればいいんじゃないですか?」
下士官の一人が言った。
「いいわけあるか! お前さんは馬鹿か? それとも馬鹿のフリをして、俺を試してんのかっ!? 兵舎で寝起きしている兵隊どもが猫を飼うってのは、基地で飼うのと一緒だろうが!」
「では大尉が」
「やなこった――俺は食べられない生き物は嫌いなんだ。たったいま嫌いになった」
帝国軍では士官以上の階級を持つ者には、本人の希望と家族構成に合わせた住宅補助が与えられる。
将校、少佐以上の階級になると、さらに待遇は良くなるのだが帝国軍の将校のうち、約半数がヨハンやミリアムのように貴族の称号を持っているので、彼らには必要のない制度だった。
ミリアムは出自が伯爵令嬢ということもあり、基地の中にある既婚者向けの戸建て官舎を借りているらしい。
〝将来の愛人のために〟とヨハンは基地の官舎とは別に、近くにアパートを一つ借りているが、家主と掃除夫以外に入ったことがある者はいまだにいない。
「お前さんらの魂胆はわかってるぞ」
ヨハンは言った。
「上手いこと少尉をおだてて、この小動物を、彼女の家に引き取らせるつもりだな? で、猫を心配するフリをして、あわよくば上がりこむつもりなんだろうが」
ヨハンにそう決めつけられた部下たちは、再び互いの顔色を窺う。
その中で、一人が小声でつぶやく。
「その手がありましたか」
「聞こえたぞ! ホーキンス!」
「実際、大尉は猫がお嫌いなんですか?」
小隊に謹慎命令を下してから、執務室でヨハンとシニアは休憩をとっていた。
「あんたまで、何を言い出すんだよ――嫌いなのは猫だけじゃない、犬も嫌いだし小鳥も嫌いだ。他にもネズミとか、魚とか、蛇なんか特に嫌いだ。だいたい、畜産でも養殖でもないのに動物を飼うっていうのが気に入らん。それに一匹でも認めたら、次から次にキリがなくなるのが目に見えるだろ?」
「世の中には、色々な趣味嗜好をもつ人がいますから」
「生類憐れみの令が下ったら、従うほかないけどな」
「……そうですか」
シニアはカプチーノマシンを操作しながら言う。
「おや?」
カプチーノマシンから蒸気が噴き出す。
温めた牛乳が泡立ちながら出てくるはずだったが、いっこうにその気配がない。
それに気づかないヨハンは、話のわかる部下に持論を聞いてもらうことに夢中だ。
「あんたのことだから、俺の懸念はわかってるだろ? うちの小隊は遊撃部隊なんだ、任務によっては何ヶ月も、年単位での遠征だってあるかもしれない――俺たちがいない間、猫はどうすんだ? 他人を雇って世話をさせておいて、帰ってきたらどんな顔で会えばいいんだ? それとも、小隊の備品扱いにして、戦場に連れて行くのか? 本人の同意も署名もなしに? それをやったら、軍隊ですらなくなっちまう。ところで、カプチーノはどうした?」
訊かれたシニアは、済まなそうに上官に言う。
「それが大尉――申し上げにくいのですが、ミルクの補充が必要なようで」
「……」
ヨハンは顔を上げた。
この基地で、カプチーノに使うミルクを最も消費するのはヨハンだ。
しかし、彼がいない間に、何者かがそれを使い切った。
ヨハンは山高帽を被った阿片中毒の名探偵ではなかったが、犯人の心当たりはすぐについた。
「絶対に追い出してやる――そこで聞き耳を立ててるやつらも聞こえたな! 猫は飼わない! わかったなっ?」
声を張ると、廊下に部下たちの逃げ出す足音が響くのが聞こえた。
立ち上がったヨハンは腰から拳銃を抜いて、
「誰も手を汚したくないなら、仕方ない」と言った。
「どちらへ?」
「ちょっと動物愛護法を破ってくる」
彼は拳銃を片手に、執務室のドアを蹴破るように開けると、廊下に出た。
血迷った上官の背を見送ると、シニアは用事を思い出したのか、部屋を出ると別の――基地司令の執務室がある兵舎に向かった。
ミリアムは談話室に飛び込むなり、テーブルの上に置いてある箱を持ち出した。
呆気にとられている部下たちや、箱の中で猫と一緒にいるソフィアが、揃って怪訝な顔を浮かべるのも構わずに、足早に兵舎をあとにする。
建物から出ると、ミリアムはソフィアに言う。
「まずいことになってしまった、特務准尉――大尉は本気だ」
「ミルクの補充を忘れてたのが発覚した?」
「そうではなく――いや、それもそうなのだが」
ミリアムは歯切れの悪い物言いをした。
「とにかく、敷地の外へいったん撤退しよう」
「そのあとは? この子と一緒に、私たちも逃げるの? どこへ?」
「それは……」
ソフィアが痛いところをついてきた。
ミリアムは答えに窮したのか、基地の門の前で立ち止まってしまう。
「どちらへおいでかな? 謹慎中のお嬢さんたち」
拳銃を片手に先回りしたヨハンが門の前に立っていた。
向かい合う三人を見た門の守衛は、ハーレークイン小隊の幹部たちだと気がついてから、防弾加工の施された小屋に戻っていく。
この基地の守衛ならば誰でも同じようにするだろう。
「無駄な抵抗をやめて、猫を捨てろ! 兵舎に戻れ!」
「嫌」
ヨハンが大真面目な口調で命じると、ソフィアが箱から顔を出して拒否した。
「……」
「戦うしかない」
不意にソフィアが言った。
「っ!?」
ミリアムが瞠目した。
彼女は普段のヨハンの訓練を間近で見ている。
拳銃による早撃ちから専用の狙撃銃を用いる長距離の狙撃まで、およそ射撃と呼ばれる類のもので彼女がヨハンに敵うものは一つもない。
強いて言えば近接戦闘の剣術や銃剣術では、ミリアムのほうが上手だが、それでもその差は僅かなものだ。
それに、ミリアムには上官を斬る覚悟などない――おそらく、彼も自分を撃つ気はないだろうが、話し合いが平行線を辿る以上、別の手段を講じるしかない。
「やむを得まい」
ミリアムは覚悟を決めた。
この場でヨハンの戦闘力を傷つけずに奪い取る――武装を解除すれば、あるいは勝機が見えてくるかも知れない。
とはいえ油断は禁物だと、ミリアムは自分に言い聞かせた。。
ヨハンの格闘技は、彼がいつも立てる作戦と同じように、徹底して手段を選ばない。
拳で殴るよりも速くて強力だからという理由で、相手が素手でも躊躇わずに銃で撃てと、彼はミリアムに言ってきたことがある。
〝矛盾〟の寓話を格闘技教官に聞かされたとき〝盾で殴れ〟と反論した逸話が、幼年学校では今でも語り継がれているほどだ。
「せっかく覚悟を決めたのに攻めてこねえのか――じゃあ、こうしよう」
ヨハンは拳銃の弾倉を地面に落として、遊底を引いて薬室からも弾丸を抜き取った。
「いい機会だから、俺のスーパーパワーを見せてやる――〝おねだり〟だ」
彼はベルトに連結してあるポーチからも、予備弾倉を一本ずつ抜いて残らず捨てた。
「ほら」
ヨハンはスライドが後退した位置の拳銃を片手に、無造作に向かってくる。
一見すると無防備に見えるが、この上官はこういうときに必ず罠を張っている。
「俺が勝ったら、前に聞きそびれた〝追い詰められた女騎士のマントラ〟を唱えさせるからな」
「だから、なんなんですかっ!? それ!」
ヨハンが空の拳銃を握った手を伸ばす。
ミリアムは反射的に抜いた剣でそれを払おうとする。
「!」
鈍い金属音が響いて、ミリアムの手首に痛みがはしった。
同時に、握った剣がびくともしなくなる。
よく見ると、拳銃の露出した銃身とスプリングガイドの間に剣の刀身が挟まっている。
「よっと」
ヨハンが声に合わせて拳銃を回転させると、手首を捻られたミリアムはたまらず剣を取り落してしまった。
剣は半回転して、地面に突き刺さった。
ミリアムはやむを得ず、反対の手で腰から拳銃を抜こうとした。
肩の関節の柔らかさが幸いして、彼女は苦もなくやってのけた。
「これもーらった」
ヨハンが見せたのは、ミリアムの帯革に固定されていたポーチから盗んだ、予備弾倉だった。
陸軍の支給品で、二人とも同じものを使っている。
「ほらな? これがスーパーパワー〝おねだり〟だ」
「ただの手癖の悪さです! それは!」
反射的に、ミリアムは抗議した。
おそらく、ヨハンは最初からこれを狙っていたのだろう。
彼はミリアムの利き手を封じて、彼女が無理な姿勢で拳銃を抜く隙を――左の脇が開くように仕向けた。
ミリアムが拳銃を構えるのと、ヨハンが弾倉を装填して遊底を前に戻すレバーを下げたのはほぼ同時だった。
「大尉! やめましょう!」
互いに拳銃を向けたが、ミリアムはすぐに銃口をはずして指を伸ばした。
「なんでだ? ここからが面白いのに――じゃあ、ほら。言えよ」
「……なにをですか」
「だからあ〝く〟で始まる、女騎士が追い詰められたときの台詞だって――なんたって、お前さんは今まさに追い詰められた女騎士じゃん?」
ミリアムの頬が紅潮した。
「だめえ? じゃあ、もう少し攻めちゃうぞ」
そう言うなり、ヨハンは自分の拳銃を捨てた。
彼が膝を沈ませると、地面に倒れていく――その勢いを利用して踏み込むと、一瞬で彼我の間合いが詰まる。
「!?」
ミリアムが拳銃を構え直すと、ヨハンの指が気味の悪い蛇のように手首に絡みついてきた。
格闘技の訓練で同じ技を見たことがあった。
手首や肘といった場所を捕られて、力の逃げ道を失うと、軽い打撃でも恐ろしい威力になる。
特に体重を乗せた肘を急所に打ち込まれると、子どもの筋力でも大人を悶絶させられるほどだ。
手首を引っ張られるのをミリアムは感じた。
「!」
このタイミングを図っていたミリアムは、抵抗をやめて飛び込んだ。
同時に彼女は、掴まれていない方の手を使って、掌底を繰り出す。
おそらく、ヨハンには防がれるだろうが、次の一手は決めている。
しかし、ミリアムの掌底がヨハンの顎を捉えた。
「ちょいと浅かったな」
上官はそう言いながら歯を食いしばって耐えると、ミリアムの伸び切った肘を、親指を尖らせるように握った拳で小突いた。
「!?」
熱湯をかけられたような痺れが、ミリアムの左腕全体に広がった。
彼女の片手を再び封じたヨハンは、あっさりと拳銃を奪う。
足をかけながら、拳銃を奪うために組み合った肘を当てると、ミリアムはその場で転んでしまう。
「遊びは終わりだ!」
ヨハンは狙いをつけると迷わず撃った。
ただし、その銃口は上空に向けられている。
「あ」
ソフィアが声を漏らすのと、銃声に驚いた猫が箱から飛び出して、走り去っていくのはほぼ同時だった。
それを見たヨハンは言う。
「おっと、逃げちまったか――逃げちまったら、しょうがねえな」
ミリアムから奪った拳銃から、手際よく弾倉と弾丸を抜き取り、彼は部下を見おろした。
「格闘の訓練終了だ――わかったな? その箱は、ちゃんと元に戻しておけよ」
ミリアムは顔を上げた。
「訓……練?」
「事後処理はそういう体裁でってこと?」
頭の整理が追いついていないミリアムの代わりに、ソフィアが訊いた。
「病み上がりでそれだけ動けるなら、いつでも任務に就けるよな」
ヨハンは答えずに、足元に散らかしたものを拾い集めて、先に帰っていった。
数日後。
ハーレークイン小隊の兵舎の廊下を、見覚えのある猫が歩いていた。
「おお、ジェネラル殿だ」
廊下で猫と出会った下士官たちは、敬礼して挨拶を交わそうとするが、猫は素知らぬ顔で談話室に入っていく。
談話室の掲示板には、一昨日の日付で、
〝第九九連隊隷下の部隊は以下の猫の当基地における警邏活動を支援すること〟という通達が、基地司令であるボーマン大佐の署名入りで張り出されていた。
馬鹿げた出来事だが、基地司令と旧知の誰かが直談判したという噂があった。
ボーマン大佐の細君が、自邸で捨て猫や捨て犬を多数保護し、新たな飼い主をコーディネイトしていることを知っているその何者かが、お膳立てをしたらしい。
今では基地のほぼ全員が〝ジェネラル〟と呼ばれている猫と顔見知りだった。
軍医は暇を見つけて動物病院に彼を連れて行くし、需品係はこっそり牛乳を横流しし、厨房の調理師は魚や鶏肉が〝傷んでいる〟と申告して、小骨や軟骨を取り除いた餌を用意している。
幹部たちの執務室の一角に衝立で仕切られた、応接用テーブルの上に用意した、妖精族用の席でソフィアは休憩をとっていた。
「ジェネラル――パトロールに来たの?」
「にゃーん」
ソフィアは指先から光線を出して、それを細かく動かしながら猫の興味を惹く。
本能を刺激された猫は、光線の当たっている床を追いかけたり、壁をのぼったりしている。
ミリアムは衝立の隙間から窺えるその様子を横目にしていた。
彼女は上官に細かい事項の報告をしているところだった。
「少尉殿――まだ途中であります」
シニアに促されて、ミリアムは我に返った。
「いやいや、いいんだ――上級曹長。少尉は優しいから、もう一度、最初からやってくれるはずだ。俺も聞き漏らしがあるかもしれんし、細かい報告を聞くのは大好きだからな。たったいま、好きになった」
「そんなっ」
ミリアムは上官の意地悪に悲鳴を上げた。
その昼下がり、
「この畜生! 心の底から、今畜生だ!」とヨハンは机で怒鳴った。
彼の視線の先には、シニアが淹れてくれたカプチーノが机の上にあった。
いつもなら、カップにきれいな山を描いている泡が目減りしている。
猫はヨハンに怒鳴られても、まったく動じた様子もなく、ミルクの泡を舐めていた。
自分に害を加える人間が基地にはいないことを知っているようだ。
しかし、ここに一人だけ例外がいた。
「昨日は風が強かったからなあ――風が強いとなんで桶屋が儲かるか知ってるか? 埃が舞ってメクラが増えて、生業にしてる弾き語りに使う楽器が売れる、楽器は猫の革を使うんだぜ。でもって、桶屋が儲かんのは、猫の棺桶の需要が増えるからだ!」
ヨハンは腰の拳銃を抜いて、遊底を引いた。
バネの力でスライドが閉鎖する鋭い金属音音を聞いた猫は、殺気の主の形相を見て机から駆け出した。