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第3話 羊皮紙の上でソフィアはペンと踊る

――魔界との大戦が停戦したことに悪態をつくヨハン。しかし、彼には新たな辞令が下った。空挺を専門とし、いかなる事態にも即応できる小隊を編成せよとのことだ。彼は小隊軍曹、シニアの助言をもらい、通信の専門家を部隊に招くことに。そしてヨハンは帝国の通信管制塔に務める、可憐な妖精族のソフィアを軍に入隊させるために脅迫しようとする。

「ちょっと出てくる」

 ヨハンはそう()げて、外出手続きをとって午後から出かけた。

 副官に続いて、准士官まで統合参謀(さんぼう)本部からのお目付け役に来られては困るため、彼は急いで目星をつけた人材に当たらねばならなかった。

 先日、シニアにもらった助言に従って、一芸に(ひい)でたものを部隊に引き込もうとしているのだが、そのためにはいくつかの問題を解決せねばならなかった。

 シニアが読んでいた新聞と同じものを酒保(しゅほ)の売店で買い、ヴィクトリアを訪ねると、〝神姫(しんき)〟に帝国が抱える人権問題をひとつ解決するようにと頼み込んだ。

「……? 構いませんが、なにをお考えですの?」

 怪訝(けげん)な顔をしたヴィクトリアは、ヨハンに頼まれるまま羊皮紙(ようひし)に口頭で教わった文章を書き込んでいく。

 玉璽(ぎょくじ)の押された巻物に(ふう)をして双子の兄に渡すと、彼はそれを乱暴に新聞の間に挟んで、足早に後宮の庭園を出ていった。

「お茶くらい、ご一緒してくださってもよろしいのに」

 (あわ)ただしく出ていくその背中を見送りながら、ヴィクトリアは少し唇を尖らせた。


 翌日。

 帝都中央にある寺院の敷地内には通信管制塔があり、ここでは妖精族が(せわ)しなく働いている。

 寺院の入り口で馬を降りたヨハンはシニアとここで分かれる。

 上官から准士官として通信の専門家を部隊に加えると聞いて、小隊軍曹は諸手(もろて)をあげて賛成した。

 しかしそれを、妖精族に頼むというアイデアに彼は難色を示した。

 戦場を縦横に駆ける遊撃部隊の命綱は、情報の正確さと早さだ。

 この技術においては、世界中のどこを探しても妖精族よりも()けている種はいないだろう。

「しかし、かなりの特例となります――帝国軍法でも、市民権の問題が絡んできますし。強引に進めれば、人権侵害と憲法違反を問題視されかねません」

 シニアの懸念(けねん)はもっともだった。

 まず、妖精族は竜族と同様に帝国に恭順(きょうじゅん)しているが、様々な政治的な理由で市民権を認められていない。

 そして帝国の軍は、入隊する条件として市民権を持つ者を対象にしている。

「これは、例えばだが――今日いきなり、帝国が妖精族に市民権を与える布告を発したら、どうなるんだろうな?」

「……まさか」

 シニアは笑って、そんな都合の良い偶然(ぐうぜん)が起きるわけないと言おうとした。



「そんじゃ、エロい身体をした女騎士のほうは頼んだぜ――右はいいけど、左のおっぱいは俺に残しといてくれ」

 その()らず口を聞き流して、シニアは()く。

「了解――大尉、その封筒はなんですか?」

賄賂(わいろ)だ――これで妖精のメスガキを買収する」

 そう答えると、上級曹長は怪訝(けげん)な顔をした。

 彼が知っている限り、妖精族というのは竜族と同様に公明正大で厳格(げんかく)だ。

 その彼女たちに、賄賂や買収といったものが通じるはずがない。

 しかし、上官は自信たっぷりだった。

「なにか妙計(みょうけい)がおありのようで――ご武運を」

 とはいえ、短い付き合いではあるが、この上官は年齢こそ若すぎたが、愚か者ではないはずだ。

 シニアは列車で隣の州にある幼年学校に向かうため、駅に馬を走らせた。

 ヨハンはヨハンで、静まり返った寺院の聖堂に入るなり、いつもの調子で言う。

辛気(しんき)臭いツラ構えオブザイヤー君、おっすおっす」

「ご用件を(うかが)います」

 愛想(あいそ)笑いという概念(がいねん)を知らない聖職者に受付で訊かれ、

「ソフィア・エインセルを脅迫(きょうはく)しに来た」とヨハンは答えた。

「は?」

「帝国陸軍、第九九連隊直属の第一小隊指揮官、ヨハン・スミス大尉だ――取り次げ」

 彼は一方的に言って、(きびす)を返すと寺院のロビーにあるベンチに腰掛けた。

 そのまま足を組んで、禁煙の注意書きを一瞥(いちべつ)した上で細巻きを取り出してマッチを()った。

 しばらく煙草を味わっていると、

「ここは禁煙」と真上から声がした。

「なら、()()()いてるお香も消せよ」

 顔を上げると、ロウソクのような細い足に、絹よりも細い繊維(せんい)でできた、極端に短いスカートを()いた妖精族の少女が浮いていた。

 青みがかった波打つ銀色の髪が、自分の背中から生えている透明な羽の起こす風で揺れている。

「ソフィア・エインセルだな?」

「ん」

 短い肯定(こうてい)の返事を聞くと、ヨハンは封筒の中身を取り出した。

 二人の会談がロビーで始まると、周りには人が集まり始めていた。

 帝国陸軍の軍人が、妖精の少女を白昼堂々と脅迫している――そんな(うわさ)があっという間に寺院の端から端まで広まったのだろう。

 自分たちが注目を集めていることに気づきつつも、ヨハンは構わずに言う。

「この会話は他の妖精族にも聞こえているのか?」

 妖精族という種には、いくつかの特性がある。

 そのうちのひとつが、感覚や見聞きした情報を、種族間で共有する()()意識の中に統合するというものだ。

 それ以外にも、有名な四精霊とも()()()()()()でコミュニケーションがとれるため、一時的に彼らに〝力〟を貸してもらうこともできるらしい。

 昔話では、帝国を脅かした悪のドラゴンを、力を合わせた妖精が大きな魔法で追い払ったこともあるという。

「そう――あなたが望むなら、言語認識の共感を閉ざすこともできる」

「あー、いい、いい、そのままで――お前さんはエインセル家、いや、妖精族始まって以来の才媛(さいえん)らしいな。自分より馬鹿なやつと同じ空気を吸うのは苦痛だろ? だから余計な手間は全部端折(はしょ)ろうぜ。俺の誕生日を当ててみろよ? 命中したら、土産だけ置いて帰ってやるから」

 無駄口を叩きながら、ヨハンはソフィアの前で油紙の封筒を左右に()らしてみせた。

「あなたの誕生日に興味はない」

「つれないな――ところで、薄紫のパンツって、ちょっと趣味がババ臭くないか? それともあれか? いまだにおっかさんに自分の下着を買ってきてもらってるのか?」

 人間の少女ならば、ここで悲鳴か平手打ちの一つでも飛んできそうなものだが、妖精族の羞恥(しゅうち)心の引き金は、人間のそれとは仕組みが異なるようだ。

「あなたに関係ない」

 ソフィアの素っ気ない物言(ものい)いを聞きながら、封筒から音を立てて書簡(しょかん)を取り出した。

 封にされている印をヨハンは見えるようにする。

 妖精族の少女は(またた)いた――どうやら(おどろ)いているらしい。

「これは帝室の……? 初めて見た」

 ソフィアがそう認めると、寺院の入口にいた人々はいっせいに顔を()せて黙礼した。

 信仰の対象そのものである(エル)に仕える巫女(ミカ)であり、帝国の最高権力者からの書簡を寺院で取り出せば、こうなるのも無理もない。

 ヨハンは自分が(えら)くなったような気分で、ベンチから立ち上がると、巻物をその場にいた人たちに見せびらかす。

「陛下から(たまわ)ってきた――つまり公文書だ。俺がこれを開いたときに、布告は発効される。中身に興味があるか?」

「ない――けど、あなたの脅迫とそれがどう結びつくか知りたい」

「よっしゃ」

 ヨハンは封を()がして、伝統的な羊皮紙を広げた。

 青墨(せいぼく)のインクで、丁寧な筆記体で書かれた文字がそこには並び、文書の最後には日付と署名、玉璽(ぎょくじ)押印(おういん)されていた。

 内容は、今日をもって妖精族の帝国市民権を認めるというものだった。

 不自然な隙間(すきま)があいているものの、この文書は間違いなく本物だ。

 そう確認したソフィアは、しかし怪訝な顔をして言う。

「この記室(きしつ)の字は見たことがない」

 記室とは帝国の各省庁にいる、公文書を清書する役職の人々のことをいう。

 その中でも、祐筆(ゆうひつ)として〝神姫(しんき)〟に仕える栄誉(えいよ)に預かる、宮内省の十数人の筆跡(ひっせき)を、ソフィアは全て把握(はあく)していた。

 玉璽の押印があることから、書簡は間違いなく本物だ。

 それらを踏まえて、筆跡に心当たりがなければ、自ずと答えはわかるだろう。

「もしかして、陛下の御親筆(ごしんぴつ)?」

「これ以上の〝本物〟はどこにもないだろ?」

「でも、なぜあなたに、これが陛下の字だとわかるの?」

「書いているところを見てたからな」

「……あり得ない」

 彼の言葉が正しければ、陸軍の大尉()()()が〝神姫〟の執務室のある、後宮の奥の院に入ったことになる。

「……」

 ソフィアはヨハンの記録をその場で調べた。

 子爵(ししゃく)家の家督(かとく)を継いでいるが、スミス子爵家は三十年以上前に断絶していた。

 未成年の頃は、竜族のエフライム侯爵(こうしゃく)が後見人だったが、これも奇妙だ。

 竜族は伝統的に皇族を庇護(ひご)するために、帝国に恭順(きょうじゅん)してきたはずである。

「……」

 ソフィアは次に出生記録から戸籍(こせき)を探ろうとした。

 しかし、子爵家を継ぐ以前の記録はどこにもなかった。

 出生記録すら見当たらないが、これには何者かの手が加えられている形跡(けいせき)があった。

 二十年以上前に死去した、先代の宮内尚書が命じたようだ。

 宮内尚書に、出生を隠される秘密とはなんなのか――ソフィアは、この無礼で野蛮な人間の青年に、少しだけ興味(きょうみ)()かれた。

詮索(せんさく)は終わったか? 納得したら、話を先に進めようぜ」

「わかった」

 ヨハンはいつの間にか、片手に火のついていないマッチを持っていた。

 もう片方の手には例の書簡を広げている。

「この文書を燃やされたくなかったら、軍に入って俺の部下になれ――階級は准尉(じゅんい)待遇(たいぐう)もそれに準ずる。役割は通信担当特務だ」

 妖精族が帝国軍に入隊した前例はない。

 そもそも彼らは争い事を好まないし、体格面でも既存(きそん)の武器を運用できないので、半身不随(ふずい)の人間よりも軍人としては不適格だ。

 ヨハンがなぜ自分を軍隊に入れたいのか、ソフィアには見当もつかなかった。

「本気?」

「それをいうなら〝正気か?〟だろ――最初に言った通り、俺はここにお前さんを脅迫しに来たんだぜ」

「……」

 種族特有の共感能力を経てこの場の様子はすべての妖精族が見ている。

 そのため、彼らは本来の自分の仕事を続けながら成り行きを把握できるはずだ。

 しかしながら、さきほどからロビーには妖精族が集まり始めている。

「ソフィア」

 不意に、見物している人たちの背後から声がした。

 現れたのはソフィアと()()()()()を伸ばした妖精だった。

「お母様」

 ヨハンは(またた)いた。

 妖精族というのは、年齢のとり方が人間とは違うことを、彼は失念していた。

「お初にお目もじしますわ、スミス大尉――あたくしはソフィアの母、エインセルと申します」

 現れた妖精族の婦人が(うやうや)しくヨハンに頭を下げた。

「用を(うかが)おう――エインセル婦人」

「はい――うちの娘は大尉のご希望には()えないかと。こう見えて、ソフィアは臆病(おくびょう)ですの。先週も嵐の晩の雷に怯えて、あたくしの(ねや)に来てしまうくらいに。戦場に出ても、きっと大砲の音や銃声で縮こまってしまうに違いありませんわ」

 エインセル婦人は娘と違い、柔和(にゅうわ)愛想(あいそ)のいい口調だった。

 ソフィアを見ても、特に変わった様子はない。人間ならば、こうした場に母親が出てくれば、恥ずかしがるものだが、妖精族は気にしないらしい。

「それが普通の反応だもんな――俺だってこの歳で、いまだにピエロが怖い。おかげでバーガーやチップスが食べたくなっても〝ネッダノーズ〟に行けなくて困ってる。それに高いところも苦手だから、上級空挺記章を取るのにもすごく苦労した。だが、やり()げた。自分の能力と可能性を天秤(てんびん)の片っぽに、もう片方に命を()けたからできたんだ」

「妖精族は死を恐れませんわ――けれども、みんな変化を怖がりますの」

「だからって、年頃の娘にダサいパンツを()かせなくたっていいだろ?」

 ヨハンの軽口をエインセル婦人は受け流して言う。

「もしも大尉が、妖精族の力だけを必要としているのなら――僭越(せんえつ)ながら、あたくしがその(にん)に就きましょう」

「……」

 妖精族は嘘や詭弁(きべん)を言わない。

 どうやらエインセル婦人は本気で娘の盾になろうとしている。

 しかし、

「だめだ」とヨハンは(ゆず)らなかった。

「だめですの?」

「俺が答えを聞きたいのはあなたじゃない」

 ソフィアを一瞥すると、ヨハンの指先がマッチを()る。

「待って」

 ヨハンが羊皮紙の(はし)()がしたとき、ソフィアが言った。

「私は軍隊に行ってみたい――この人の正体を、自分の目で見極めたいから」

 ソフィアが言い終わると同時に、ヨハンのつけたマッチは燃え尽きた。

 彼はそれを床に落として、ブーツの底で踏み潰して、白々しく言う。

「おっとっと――俺としたことが、禁煙の場所で間違って煙草を吸うところだった」

 彼は周りの視線を集めながら、

「付いてこい」とソフィアに言った。

「ん」

 二人はそのまま受付のカウンターまで移動した。

 受付係を(にな)っている聖職者は、ヨハンとその手にある神姫直筆の書簡におののいている様子で無言だった。

「書記官と公証人を呼べ」

 背後でエインセル婦人が手を()げた。

「ここにいますわ――若いときに両方とも資格をとりましたの」

 ヨハンはカウンターに羊皮紙を広げ、丸まらないように重りの代わりに拳銃の予備弾倉を書簡の(すみ)にそれぞれ置いた。

「この余白に付け足せ――〝ソフィア・エインセルがハーレークイン小隊での軍務に就く限り〟とな」

 彼は備え付けのペンをソフィアに差し出した。

「ん」

 自分の背丈ほどある人間用のペンを、ソフィアは抱えるようにして持つ。

 彼女はそこで踊るようにして、ペン先を羊皮紙に走らせてヨハンの言う通りにした。

「確認を」

「はあい――はい、けっこうですわ」

 エインセル婦人が文書を確認した。

 これで、妖精族の全員に帝国市民権が与えられたのだが、この場の誰もそのことを気にしていなかった。

「ところで、スミス大尉」

「……?」

「あたくしの娘の任期はいつまでですの? それとも、一生涯(いっしょうがい)、軍に尽くさねばなりませんのかしら?」

 エインセル婦人は、娘を軍隊にとられたというのに相変わらずの調子で訊いてきた。

「准士官だから、任期はない――本人の希望があって、事務手続きに不備がなければ好きなときに辞められるはずだ」

 ヨハンは難題だと思っていた、妖精の少女を部下に引き入れたことで、少し気が(ゆる)んだのだと後に語った。

 また、妖精族の年長者と言葉遊びに(きょう)じるには、役者不足も(はなは)だしかったと、珍しく反省の色を見せた。

 エインセル婦人は微笑したままわざとらしい仕草で手を打ち、まるで今しがた思いついたかのように言う。

「それは例えば今日にでも、ですの? 文書には任期は書かれてませんでしたものね」

「あ、やっべ」

 ヨハンは瞬いた。

 彼は言質(げんち)をとられてしまったのだ。

 公証人として、今も微笑んだままのエインセル婦人が立ち会い、ソフィアが軍を退役する書類をこの場で作成して提出したら――上官としてそれを受理しなければいけない。

 不用意な一言で追い詰められたヨハンはおそるおそる、ソフィアを見た。

「どうかした? 用がないなら、私は荷物をまとめてきたい」

「あ、ああ――用意してこい」

 ソフィアの方はどうやら母親の策にのるつもりはないようだった。

「待ってて」

 妖精の少女がいったんその場を離れると、成り行きを見守っていた周りの見物人たちも自分の持ち場に戻っていった。

 ロビーに残ったのは、ヨハンとエインセル婦人だけとなった。

「娘をお願いしますわね――大尉。なんといっても、嫁入り前ですもの」

「妖精族は結婚とかしないんじゃないのか?」

 知る限り、妖精族は他種族のような方法での婚姻は結ばない。

 また、生殖の方法も変則的だったはずだ。

「あら、あたくしたちも晴れて帝国市民権を得ましたもの――他種婚は、今の時代には珍しくありませんし。そういえば、大尉は独身でしたわね。くれぐれも娘をよろしくお願いいたします。ではでは」

 最後に圧力をかけて、エインセル婦人は短い笑い声を残してその場を去った。



 翌日。

 ソフィアは特務准尉として任官し、基地で事務仕事や端末水晶(SINCGARS)を用いた通信の訓練が始まった。

「ヨハン――指揮官がシックス、小隊軍曹がファイブ、副官がセブン。なら、私は?」

 通信の講習が始まると、ソフィアが()いた。

「あいてる数字を好きに選んでいいぞ――背番号みたいなもんだ」

 通信の呼び出し符丁(ふちょう)には、これという決まりがあるわけではない。

 陸軍では指揮官がシックスを使うのと、副官または小隊軍曹がファイブを使う慣例(かんれい)はあるものの、それ以外は部隊ごとに異なっている。

 強いて言うなら、先任のまたは階級が高い者が低い数字を使う傾向(けいこう)はあった。

「それじゃだめ――あなたが決めて」

 ソフィアが言った。

「私はあなたに脅迫されて、軍隊に入った――つまりは隷属(れいぞく)する立場。だから、私のことはなんでもあなたが面倒をみるべき」

「トイレの後で尻をふけって言われたら、どうしよう」

「妖精は汚らわしい排泄(はいせつ)なんてしない――決めて」

 この数日間を一緒に過ごして、妖精の少女は想像以上に頑固者だということを、学びはじめていた。

 執務室の壁掛け時計を見ながら、ヨハンは何かを思いついて言う。

「ナインはどうだ? だってほら、シックスと形が反対だろ?」

「それが?」

「俺たちって、何から何まで正反対じゃないか? 片方は飛べないけど、可愛くて賢くて――もう片方は飛べるけど、無愛想(ぶあいそ)で空気を読まないし」

 世の中には、いくらくすぐられても全く感じない人もいる。

 ソフィアもまた、意地悪な上官にいくら(けな)されても、まったく(こた)えないようだ。

「ハーレークイン・ナイン? わかった」

 それよりも、ソフィアはヨハンに(もら)った通信の呼び出し符丁(コールサイン)復唱(ふくしょう)していた。

(いん)を踏んでるのはわざと?」

「ああそうだ」

 彼が即答するときは、大抵、出鱈目(でたらめ)だとソフィアも理解しはじめていた。

「ん」

 彼女は異論がないようで、さっそく使いはじめた。

 ソフィアが目を閉じて、ヨハンの小指の爪よりも小さな手を合わせると、不意に支給されている、端末水晶が震えた。

《ハーレークイン・シックスへ――こちらハーレークイン・ナイン。晩ごはんの献立(こんだて)を教えて。私は木の実と根菜のキッシュが食べたい。送れ》

 端末水晶の仕組みは、同じチャンネルを使用している小隊の全隊に通信の内容を同時に送信する。

 しかし、ソフィアは通信を統制(とうせい)して、独自の暗号化を(ほどこ)してヨハンの端末(たんまつ)だけに音声通信が届くようにしていた。

 こういうきめ細やかな調整ができるということは、その逆に、例えば帝国軍全体の通信を傍受(ぼうじゅ)したり、あるいはこちらからも情報を送れるのではないだろうか。

 それを訊けば、

「使用している暗号鍵(デコーダー)を取得すれば可能」とソフィアはあっさりと肯定(こうてい)した。

 また彼女は、帝国の端末水晶が使用している暗号鍵の管理は、妖精族に一任されているともヨハンに教える。

「悪用したら、帝国をひっくり返せそうだな」

 ヨハンはそう言って笑った。

「したい?」

 ソフィアに訊かれたヨハンは首をかしげた。

「帝国をひっくり返したら、道を歩く女の子のスカートが全部めくれるってなら、考えてやってもいいな」

 いつもの減らず口をたたいた上官に、ソフィアは冷徹(れいてつ)に告げる。

「帝国の道を行く人は、女の子だけじゃない――老若男女、さまざまな人がいる」

「ババアのパンツなんか見たら、アレルギーと髄膜炎と肺の壊疽を併発して死んじまう――やめだやめ」

「ん――それがいい」

 ソフィアが言うと、ヨハンは通信の講義に戻ることにした。

「ところで、小隊内で通信が完結するときは、部隊名は略せ――あと、キッシュなんて洒落たものが、基地の食堂で出るわけないだろ。金曜の晩飯はビーフ・カリだ」

《ナイン、了解――肉は嫌いだから外に食べに行きたい。ブレイク、シックスの随伴(ずいはん)を要請する》

「しょうがねえな」



 妖精族始まって以来の才媛(さいえん)と呼ばれるだけあり、彼女は有能で、一度覚えた仕事はすべて完璧にこなす上に、誰よりも早く片付けていた。

 しかし、それには理由があった。

「俺のカップになんてことしやがるっ!?」

 執務室(しつむしつ)でヨハンの怒声が響いた。

「お風呂にちょうどいい大きさだったから」

 悪びれた様子もなく、ソフィアはヨハンがいつもカプチーノを飲んでいるカップの中で裸になって、湯浴(ゆあ)みをしていた。

 彼女が誰よりも早く仕事を終わらせるのは、不潔(ふけつ)な軍隊の基地でつく(ほこり)や汚れを、風呂で落とすためだった。

 しかし、基地に〝女湯〟という都合の良いものは存在せず、また、妖精族が使える設備も存在しなかった。

「ヨハンのカップは()()()が良くて使いやすい」

「そりゃあ、カプチーノ用だから――って、そうじゃねえよ!」

 妖精の少女は素知らぬ顔で、両手ですくった泡に息を吹きかけている。

 飛び散った泡がカップの中の湯に戻って、溶けていく。

「この小隊は()()より厳しいんだからな……」

 引き出しの中から虫眼鏡を見つけ出したヨハンがそう言いかけると、廊下を挟んだ向かい側の談話室からガラスの砕け散る音が響いた。

 おそらく、各部隊から集めた荒くれ者の軍人たちが、羽目を外したのだろう。

 先ほどまで大人しくカードゲームをしているかと思えば、賭け事に発展した途端に()()有様だ。

 普段なら兵たちを統率する上級曹長、シニアはヨハンの代理で隣の州にある幼年学校に出張していた。

 例の副官として任命されたミリアムを迎えに行くためだ。

 ソフィアが言う。

「副官には綱紀粛正(こうきしゅくせい)をしてくれる、厳格な人が必要」

 これにはヨハンも全面的に同意する。

「ああ――上官のカプチーノ用のカップを風呂(おけ)にする、不届き者を粛清してくれるようなやつだと、なおよしだ」

 彼は大真面目な口調で言って付け足す。

「ついでに、若くて優秀でエロい身体をした貴族の女で、俺の言うことを何でも聞いてくれる素直で従順なやつだと、もっといい――あ、待った。嫌がりつつ命令に仕方なく従うってのも、(おつ)だ」

「あなた()()〝水は低きに流れる〟って聞いたことがある?」

 カップから立ち上がり、ヨハンの覗いている虫眼鏡を通して、妖精の少女は辛辣(しんらつ)な口調で訊いてきた。

「万有引力を発見したやつの言葉だろ? 馬鹿にすんなよ――それくらい知ってるっつうの。()()()()()()()西()()()()()ことだって、俺はちゃんと知ってるんだ」

 またしてもガラスの砕ける音が響き、ヨハンは虫眼鏡を机に放り出して椅子から立ち上がった。

 執務室を出るなり、廊下でヨハンの怒鳴る声がする。

《なにやってんだ! ガラスを割る元気があんなら、今から全員でマラソンするぞ! 警備兵に捕まったやつが罰として後始末だ!》

 その命令を合図にするかのように、廊下には軍靴の足音が響いて、遠ざかっていった。ほどなくして、警備隊の笛の音が基地の中を縦横から聞こえてくる。

 執務室に残されたソフィアは呟くように言う。

「お母様――軍隊は粗野(そや)で野蛮で不潔な人間の男たちの巣窟(そうくつ)でした。正直言って、快適ではありません。でも、あの人間が便宜(べんぎ)を図ってくれるおかげで退屈だけはしません」

 その日の夕方。

 性格や素行に問題があるとはいえ、屈強(くっきょう)な下士官たちにヨハンが持久走で勝てるはずもなく、彼は部下の割った窓ガラスに関する始末書を作成していた。

「ふぇえん、書き終わんねえよう」

 情けない声をあげる上官を見て、

「早くして――ご飯の時間が遅くなっちゃうから」と、ソフィアは言った。

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