第2話 戦後は次の戦争への準備期間
――約1年前。帝国と魔界によって繰り広げられた10年に渡る世界大戦は、完全に膠着していた。新任の中隊長として前線に送られたヨハンは、軍歴40年に及ぶ中隊付軍曹のシニアを伴って、空挺が可能な兵たちを集めて“退屈な戦争”を変えようとする。一方で彼の半生を振り返ってみたとき、彼の出生にはスキャンダラスな秘密が隠されていた。
一年前。
「やめてね! やめてね!」
子どものような、あるいは若い女性や少女の悲鳴に似た声が、前線の後方で聞こえた。
ヨハンが立ち止まって悲鳴の方を見ると、部下の下士官や兵卒たちが、粘体生物の魔物を捕まえて、煙草の火を押し付けたりしている。
「ねっとりできなくなっちゃうよ!」
「ねっとりできなくなったら、ぼくたち、しんじゃうんだよ? わからないの?」
「しんじゃうのは、ねっとりしてない、くそにんげんだけでいいよ」
粘体生物の魔物は、拙い発音ながらも、標準語で命乞いをしていた。
「このスライム、めっちゃ喋るな!」
「いいこと考えた――おい誰か、酒保からパスタの茹で汁と塩を盗んでこい」
「どうするんです? 伍長」
「浸透圧ってあるだろ? あれでこいつの水分抜いたら、どうなるか見てみようぜ!」
「あー、いいっすね」
ほぼ完全に膠着した前線の士気は低く、敵も味方も退屈な戦争をだらだらと続けていることに、ヨハンは飽き飽きしていた。
「いかがされましたか――中尉殿」
となりにいた中隊長補佐の上級曹長、シニアが訊いてきた。
「けしからん」
彼はそう呟いて、
「おい!」と、下士官たちに詰め寄っていく。
ヨハンが下士官たちに向かって歩きだすとシニアがそれに続いた。
「傾注!」
その号令とシニアをひと目見てから、下士官たちはその場で直立するとともに、ヨハンに敬礼した。
この短いやりとりで、現場にいる下士官たちは、若すぎる上官に対して明らかに不信感を持っているのだとわかった。
彼は平静を保って訊く。
「邪魔して悪い――で、なにやってんだ?」
「中尉殿にご説明せよ――そこ、ホーキンス伍長」
指名されたホーキンスは、非番の間、暇を持て余して捕まえた粘体生物で遊んでいたのだと、丁寧な口調で語った。
「現住動物、魔物の虐待は軍規違反である――承知の上か!」
シニアは厳しい口調で咎めた。
「でも――上級曹長殿、こう暇だと他にやることがないですし」
別の下士官が、とりなしてもらえないとかと、ヨハンを見た。
「スミス中尉殿、この者たちへのご処罰を」
シニアはこういった場合に中隊を率いる士官が、不始末を起こした部下にどう綱紀粛正を命令として下すか――上官を値踏みするつもりで訊いたつもりだったらしい。
軍規に厳格に則れば下士官や兵の不満が溜まり、甘くすれば舐められてしまう。
「暇なら、俺と一緒に射撃練習しようぜ」
「え?」
「はい?」
ヨハンは処分のことは口にせず、
「そいつらを虐待しちゃ不味いんなら、せめて有効活用しよう――あ、お前さんたち、スライム捕まえんの得意そうだから、百匹ほどよろしくな」
「えぇ……?」
かくして、ヨハンの中隊は射撃場に集められると〝射撃と弾丸の殺傷力〟の野戦講習が始まった。
「スライムの身体ってやつは九割近くが水分だけど――こうやって、浸透圧を利用して水分を抜いていくと、人体の組成に近づいていくんだ。そこで、みんなあの的に注目してくれ」
銃剣で指した方向には射撃場に立てられた的に、口を塞いだ粘体生物の魔物がくくりつけられていた。
ヨハンは手本を示すように、その標的を次々に撃っていく。
最後のひとつは、かなりの距離があったものの、彼は立ったまま一発で命中させた。
「モウネットリデキナイ……」
誰にも聞かれることなく、粘体生物の魔物は最後の言葉を残して事切れた。
「おお、委託なしの立射で当てたよ――あの新任の中尉殿」
下士官の中で、射撃に秀でる一人が感心していた。
小銃から抜弾して、負い革を滑らせて背中に銃を回すと、ヨハンは講釈を続ける。
「というわけで、今、人体に近い組成のスライムを撃ったんだが――じゃあ、当たった弾がどうなるか、直に見に行こう。サイレンを鳴らせ!」
射撃場は、的の近くに人が立ち入る時には、安全確保のために警報を鳴らすことになっていた。
粘体生物の魔物の身体は、半透明のゼリー状をしている。
これを利用して、ヨハンは銃弾がどのように殺傷力を発揮するのか、机の上の講義では誰も耳を傾けてくれない話を、下士官たちに聞かせることに成功した。
後に〝大量の粘体生物の魔物を虐待したのではないか〟と、出頭を命じられたヨハンは連隊本部から審問を受けた。
しかし彼は、
「士気高揚と中隊の親睦を深めるために射撃練習をしました」と言ってすっとぼけた。
この一件で、彼は〝融通の利く隊長〟として下士官たちに信頼されはじめた。
幼年学校出身とはいえ、異例の早さで出世した、二十代の中隊長を不審に思っていたシニアも、彼の采配と面の皮の厚さは上官として頼もしいと思いはじめた。
しかし、部隊の人心を掌握しても、ヨハンたち前線の兵たちに、武勲を立てる機会はなかなか巡ってこなかった。
そもそも、このヨハンという青年将校はどういう生い立ちなのだろう。
話は四半世紀ほど前に遡る。
当時の帝国は大騒ぎだった――今上の〝神姫〟が生誕した日、先代が崩御してしまったためだ。
諸般の事情でヨハンには両親がいない。
また、縁故もない彼を養子にしようという奇特な人間は帝国にはいなかった――人間には。
代わりに手を挙げたのは、歴代の〝神姫〟を庇護してきた竜族の長――マイア・ウンドーミエル・ケレブリーアン・フォン・エフライムだった。
いくつかの、例外的な前例はあったものの、当然ながら帝国の上流社会では物議を醸した。
ところが、マイアは帝国法で禁止されていないことを論い、彼女はその日のうちに全ての法的手続きを済ませると、ヨハンの後見人という立場を確固たるものにし、生まれて間もない赤子を連れ去るように私邸へと帰った。
マイア自身は侯爵位を帝室より賜っており、貴族院や帝国空軍においても地位のある人物だった。
彼女は普段は使わない権勢をここぞとばかりに発揮し、既に断絶して久しい子爵家を、苗字のないヨハンのために与える動議を発した。
過半数の賛成票を得て、晴れてヨハンにはスミスという姓と子爵家の家門が与えられることとなった。
マイアの庇護下に置かれたヨハンは、成長にともなってスミス家が軍人の家系だと知ると、大して何も考えずに幼年学校に入学した。
育ての親であるマイア自身が空軍中将という立場だったこともあり、その影響だろうと推察される。
幼年学校を成績だけは良好な結果を記録して卒業したヨハンは、准尉として帝国陸軍に任官し、数年後に少尉に昇進した。
ところが前線の駐屯地である日、彼は問題を起こした。
自らの出自とマイアを嘲弄した上官をその場で叩きのめしたのだ。
帝都に召喚されると准尉への降格の通達を受け、休暇を与えるという名目で謹慎処分を受けていた。
「暇だなあ」
謹慎中のヨハンは、
「軍服着てなきゃバレないだろ」と粗忽に判断して、宿舎を勝手に抜け出した。
同じ頃、帝都では〝神姫〟が戦没者の慰霊を行うと宣言して、帝都の墓地で祭祀を執り行うため大変な賑わいだった。
余談だが、帝都では特別な例外を除いて、内燃機関を用いた車両の通行が禁じられている。
これは経典にある静寂を保つためと〝神姫〟の座する帝都の空気を汚さないための配慮だった。
そのため、産業革命を経て半世紀以上も経ったというのに、この帝都では馬や乗り合い馬車、路面電車が市民の主な交通手段だったし、道については馬の足を傷めないように舗装は土のままだった。
憲兵から近隣の歩兵連隊の兵士まで、大通りはびっしりと将兵が警備し、車列を護衛していた。
ヨハンはそれを見て、
「こんな兵力余ってんなら、前線に送れよ――ばーか、ばーか」とつぶやいた。
彼も何度か大戦中の前線に赴いたのだが、十年近くも戦争を続けたせいで、戦線は完全に膠着しており、塹壕は大河の上流から下流に、前線基地は肥大化をつづけて、それぞれがひとつの街のように張り巡らされていた。
前線でヨハンは大隊長の副官補佐をしていたのだが、
〝余計なことはするな〟と、上官に何度もそう注意された。
彼としては、自分の裁量でできることを提案したつもりだったのだが、一週間近くも寝る間を惜しんで作成した作戦計画書は、灰皿の吸い殻と一緒に燃え尽きていった。
人ごみに巻き込まれたせいで細巻きに火がつけられずにいたヨハンは、苛立っていた。
不意に、両手に山ほど風船を抱えた道化師が目についた。
「うわ、気持ち悪っ――あっち行けよ。もしくは顔に青のペンキを塗ったくって、頭にダイナマイトを巻きつけて、おっ死ね」
生まれつき嫌いな道化師を一瞥して、その背中を蹴飛ばそうとしたとき、大通りはひときわ大きな歓声に包まれた。
どうやら〝神姫〟のお出ましらしい。
道化師の風船が宙を舞いはじめ、それに周囲の人々の目が奪われる。
「……?」
ヨハンは違和感を覚えた。
近くで硝煙の臭いが鼻についたのだ。
また、目前にいたはずの道化師が姿を消していた。
さらに、同じように通りの反対側からも風船が飛んでいくのが見えた。
「いやいや――きっと気のせいだ」
そう自分に言い聞かせつつも、他にも風船の塊が飛んでいくのが見えた。
ちょうど〝神姫〟の乗り込んだ、六頭立ての宮内省の馬車を取り囲むように。
「!」
不意に爆竹のような音がした。
銃声ではなく風船が次々に偶然、弾けた音だった。
人々がそれに気をとられた一瞬で、大通りに四人の道化師がいっせいに飛び出してきた。
「敵襲!」
ヨハンは声を張って、隠して携帯していた拳銃を抜いた。
道化師たちが、扮装の中から武器を取り出すより、僅かに彼のほうが早く動き始めた。
「!」
ヨハンが迷わず上空に発砲すると、周囲は騒然となった。
悲鳴をあげながら見物客は恐慌状態に陥り、銃声のそばから少しでも離れようと、大通りに飛び出す者までいる。
「……」
ヨハンは狙いをつけた。
人通りの切れる一瞬の隙を待ち、二発ずつ速射して通りのこちら側にいた道化師を撃つ。
同時に、さらに空への発砲をしながら、邪魔な見物客を押しのけ――というより、蹴飛ばしたり投げ飛ばしながら、彼は大通りに出た。
残りの道化師たちを仕留めようと前に出た――ところが、武装した憲兵に彼は取り押さえられた。
「馬鹿野郎! 俺は味方だ、ボケ! 税金泥棒!」
信じるわけがないと思いつつ、自分を捕まえた憲兵たちにそう怒鳴っている間に、陸軍の近衛連隊が残りの道化師を取り囲んでいた。
道化師は近衛連隊の騎兵に命じられるまま、武器を捨てて投降しようとしていた。
往生際がよすぎるとヨハンは感じた。
周囲の喧騒と、自分を怒鳴りつけてくる憲兵の怒号を無視して、ヨハンは自分が撃ち倒した道化師を見た。
扮装の下に彼が身につけているものを見て背筋が凍りつく。
ヨハンは、
「爆弾だ!」と叫んだ。
「!?」
一瞬だけ、憲兵の拘束が緩んだ。
その隙を突いて後頭部の頭突きを浴びせ、強引に逃れると、後ろ手に手錠を掛けられたまま駆け出す。
背後から発砲されたが銃撃はすぐに止んだ。
「撃ち方やめ! 撃ち方やめ!」
憲兵たちが狙うヨハンと、馬車から別の近衛兵と近侍に囲まれた〝神姫〟が一直線に重なったためだ。
徒歩で避難しようとしている〝神姫〟のもとに、ヨハンは倒れ込むようにして飛び込んだ。
「慮外者!」
誰かにそう怒鳴られた。
それでも構わず〝神姫〟の服の裾に文字通り食らいついて、
「いやっ!」と、怯えた彼女の悲鳴を聞きながら、その場に押し倒した。
純潔を保つ貞淑な巫女が、見ず知らずの男に押し倒されたら、
「きゃぁああああああ!」と悲鳴をあげるのも、無理はないだろう。
ヨハンはそれを聞いて、
「いつものお澄ましより面より可愛いじゃん」と不敬も甚だしいことを囁いた。
道化師が扮装の中に仕込んでいた爆弾を起爆したのは、その直後だった。
轟音を背後に聞きながら、彼は背中に何かが突き立てられたのを感じ、それを最後に気絶した。
道化師たちによる〝神姫〟弑逆未遂事件において、帝国陸軍准士官が身を挺して国家の象徴を守った。
マスメディアが大喜びしそうな一報はしかし、報道管制が敷かれた。
後日の宮内省の公式会見では近衛連隊と憲兵がテロリストを鎮圧したと発表された。
これは言うまでもなく手柄をヨハンに横取りされてしまったことと、帝国軍の警備体制が脆弱だったことを民衆から誤魔化すための国策だった。
それよりも問題だったのは、神聖不可侵の〝神姫〟の玉体を非常手段とはいえ、地面に組み敷いた者がいるなどと、どう言い繕っても発表ができない、という事情もあった。
爆弾の破片を背中に浴びたヨハンは、帝都の病院に収容された。
奇しくも、そこは彼が生まれたところだった。
意識を取り戻したヨハンに、面会に来たマイアが上官に代わって中尉への昇進を告げた。
「戦死扱いの二階級特進なら、水着のプレイメイツと水着を脱いだプレイメイツに囲まれて昇天させてくれよ」
なぜかと訊くと、先日の降格処分が取り消された上での昇進だと告げられた。
さらに、マイアはもう一つ、見舞いの品を持って来たと語った。
「細巻きか? ちょうど欲しかったんだ」
ヨハンの期待は裏切られた。
マイアが病室の扉を開くと、別の客が入室してきた。
「っ!?」
その正装した相手を見て、珍しくヨハンは素直に驚いた。
政治に疎い彼でさえ現職の宮内尚書の顔くらいは知っていた。
宮内尚書――ローゼンクランツ伯爵は〝神姫〟が成人する前は、帝国宰相を務めていた貴族院の重鎮でもある。
しかし、ヨハンが驚くべきだったのは、この国でも最も立場のある政治家が、直々に面会に来てくれたその理由だった。
「ヨハン・ユージン・スミス子爵――いや、帝国陸軍中尉殿。詔勅でござる。謹んで、拝聴めされよ」
彼は玉璽の押された羊皮紙の書状を広げながら読み上げた。
要約すると、今回の功労を〝神姫〟御自らあらためて労いたいので、後宮に上がることを特別に許可する、というものだった。
「は?」
呆気にとられたヨハンをよそに、口上を述べた宮内尚書は一礼してさがり、マイアに会釈すると病室を出ていった。
「ついに、この日が来たか」
人払いを済ませた廊下で、宮内尚書、ローゼンクランツ伯爵は言った。
「どうしてこうなった?」
ヨハンは病院を退院すると、礼服に身を包んで宮殿に向かう馬車の中にいた。
その手には、
〝くれぐれもお取り扱いは慎重に〟とローゼンクランツ伯爵から渡された、金属製の身分証があった。
それは存在自体が一般には周知されていない特別なもので、後宮に上がるために近衛兵の固める裏門を通過する際に提示するものだった。
後宮は〝神姫〟の私邸であり、よほどの緊急事態を知らせるためでなければ、敷居を跨ぐことなど出来ないはずだと、ヨハンは教わったことがある。
それができる本人――つまりはマイア自身から聞いたのだから、おそらく正しいのだろう。
中庭の庭園には白亜のテーブルと椅子、それから日除けのためのガゼボが設えられていた。
「ごきげんよう」
そう言って〝神姫〟は一人で現れた。
いくら私邸とはいえ、両脇に近侍を従えていると思っていたヨハンは虚を突かれた。
「あ――へ、陛下。このたびは……」
慌てて、ヨハンはその場で跪いた。
「おやめなさい――ここは、公式の場ではありません」
「しかし……」
「それに! わたくしにも名前があります――あなたには、ぜひヴィクトリアと呼んでもらいたいのです」
〝神姫〟ヴィクトリアは語気を強めて言った。
「いや、そうは申しますが、恐れ多いことで……」
「それもおよしなさい――せっかく、同い年なのですもの。もっと気軽に、そう、友人同士がするような、気のおけない間柄で交わす口調で話してくださらない?」
「いや、タメ口は不味いでしょう――あ、やっべ」
うっかり、ヨハンは口を滑らせた。
しかし、ヴィクトリアは怒るどころか、むしろ表情を一気に明るくして言う。
「そう、それです――いいえ、構わないでしょう。兄妹なら、家の中では普通に話すものです。それがたとえ、王侯貴族でも〝神姫〟でも」
「ん……?」
ヨハンは首をかしげた。
「わたくしは、あなたの妹です」
ヴィクトリアは言った。
「はあっ!?」
混乱の連続だった。
自分に妹がいるという話は、マイアから聞いたことがないし、ましてやそれが〝神姫〟だと――仮に言われても信じなかっただろう。
ヴィクトリアは微笑して椅子をすすめてきた。
「お座りなさいませ――そうそう、マイア小母様から伺ったのですけれど、お兄様はカプチーノがお好きと。こんどおいでになるときは、ご用意いたしますから、今日のところは普通のコーヒーでご容赦をなさって」
「あのババア、余計なことを」
ヨハンが反射的に言うと、ヴィクトリア自らカップにコーヒーを注ぎながら、失笑を漏らした。
〝神姫〟の失笑――これを見たことがある人間がかつてこの帝国にいただろうか。
「わたくしが十歳のとき、小母様がこう仰いましたの。〝そなたの兄君が幼年学校に入学した。彼奴はいずれは、元帥杖を手にして帝国を守るであろう〟と。わたくしも兄がいるとは知らずにいたから、とても驚いてしまいました」
それからヴィクトリアは、なぜヨハンが生後間もなくマイアに引き取られたか、真相を話して明かした。
帝国は代々〝神姫〟を国の御柱に据えて統治される国だった。
そのため、女系を守り続ける必要があるのと、男児は帝室の権力を分散させる不穏因子ともなり得る。
ましてや、自分の出自が帝室ゆかりだと知っていれば、なおさらのことだ。
そのため〝神姫〟が男児を出産した場合は、典医によって〝死産〟が報告され、生まれた子どもは養子として、いずこの貴族家に引き取られるのが慣例らしい。
暗黒の中世や黎明の古代ならば、男児をその場で死産させていたというのだから、ヨハンは今の時代に生まれて幸福だったと言えるだろう。
「ちょっとお待ちを」
ヨハンはヴィクトリアの説明を途中で遮った。
〝神姫〟は唇を尖らせて、
「はい?」と訊き返した。
おそらく口調が気に入らなかったのだろう。
「待てや、おい」
ヨハンは普段よりも粗雑な言葉遣いと発音で言った。
それを聞いたヴィクトリアは、再び破顔してあらためて訊く。
「はい、なんでしょうか? お兄様」
「なんでいま、俺にそんな話をした? 俺がトチ狂って〝じゃあ帝国乗っ取るわ〟ってなったらどうすんだ?」
ヨハンの疑問に、ヴィクトリアは声を立てて笑った。
「それはありません」
「なんでわかる?」
「これは〝神託〟です――お兄様。お忘れのようですが、わたくしは巫女ですの。お兄様なら、世界中を敵に回してでも、きっとわたくしを守ってくださいますわ」
「……」
呆れるとともに、ヴィクトリアが自分の妹だということに、少しだけ実感が湧いてきた。
物事を自分に都合よく解釈するところや、立場を悪用してでも相手を説得しようとするところ――育った環境が別でも、容姿はまったく似ていなくても、兄妹は似るのだろうか。
「だから、そのために必要な地位と権限をお兄様にご用意いたします――唯一の肉親のためなら、ヴィクトリアはなんでもいたしますわ」
〝神姫〟は瞳を怪しく輝かせながら、力強くヨハンの手を握った。
こうして中尉に昇進したヨハンは、再び前線に舞い戻ることが出来た。
また、念願だった自分の部隊を率いることも辞令として通達された。
中隊長に就任した彼の下には、連隊の中でも――というより帝国陸軍で最古参の上級曹長、シニアと呼ばれて恐れられている古参兵が中隊長付き軍曹に就くことになった。
経験不足の若すぎる中隊長は、いい意味でシニアの期待を裏切り、下士官たちと上手く付き合っていた。
ある日、ヨハンはシニアに訊いてきた。
「空挺記章を持ってるやつって、うちの隊に何人いるのかな?」
いつもながら、この上官はまたしても良からぬことを考えているのだろうか――シニアはそう予感したものの、嘘の報告をするわけにもいかずに、正直に答えた。
「ちょっと足りないな――よその中隊から、引っこ抜くか異動の上申してくる」
数日後、ヨハンは手土産の高級煙草と将校用の蒸留酒の酒瓶をどこで入手したのかを言わず、作戦計画書の清書を手伝ってほしいと、シニアに頼んできた。
ヨハンが立てた作戦は、空挺で展開した少数部隊による、敵の野戦砲台への破壊工作だった。
しかし、問題は夜間に行う点だ。
そうをシニアが指摘したものの、
「夜じゃないと、敵に見つかっちゃうだろ?」とヨハンは頑として譲らなかった。
シニアは、上級空挺記章を有している下士官で、天候に恵まれている日であれば可能かもしれないと告げた。
それを聞くなり、強引に連隊本部に作戦計画書を承認させ、手段を問わずに各中隊の先任の隊長たちを説得し、必要な人員をかき集めた。
このときの作戦は、天候に恵まれたことと、いくつかの幸運の巡り合わせで成功し、ヨハンたちは敵の野戦砲台陣地を完全に破壊することが出来た。
連隊本部は、手柄の上前を跳ねようと、その情報を統合参謀本部に報告し、久しぶりの戦果に盛り上がった帝国軍は、同じような戦術をより大規模に駆使して、一挙に魔界連邦本土に浸透し、橋頭堡を確保できることを期待した。
〝オーバーロード〟と名付けられたその作戦だったが、決行の数日前に、作戦の中止が全軍に通達されてしまった。
中洲の都市国家郡が総意として帝国への恭順を示したことによって、軍事均衡が崩れ、魔界側から停戦交渉の打診があったためだ。
中隊は戦勝ムードに湧いていたが、一人だけ憮然として機嫌を損ねている人間がいた。
もちろんヨハンだ。
「マジかよ、都市国家郡のやつら――余計なことしやがって! 今畜生!」
士官用の幕舎に戻って横になると、辞書に載らない語彙を尽くして悪態をついた。
ようやく、戦争が楽しめると思った矢先の出来事だっただけに、彼は心底悔しそうだった。
帝都に戻ったヨハンは、再びヴィクトリアに呼び出された。
兄の帰国を〝神姫〟は喜んで出迎えた。
「戦争はまだ終わっていません」
「いや、終わりだよ終わり――なんだよ、もうちょっとで、今頃は河の向こうでドンパチ賑やかにしてたのに」
玩具を取り上げられてすねた子供のように、ヨハンは言った。
ヴィクトリアは兄の機嫌をとろうと、過日の約束に従ってカプチーノを用意した。
テーブルをはさんだ向かい側ではなく、隣に座ってから神姫は言う。
「戦というものは、講和が成立してから終わるのです」
「どうせまた揉めるんだろ? 結局、どっちも河の利権は独占できなかったんだから」
その指摘にヴィクトリアは目を伏せた。
「たとえ、仮初の帳だとしても――この十年というもの、あまたの血が流れてしまいました。こちらもあちらも、民には安らぎが必要です。おわかりになってください」
「甘いもんだな」
ヨハンは鼻を鳴らして、カップの上に盛り上がった泡を舐めて言った。
「そちらは政の分野ですから――一方で、帝国に仇なす軍事的脅威が消失したわけではありません」
「うん?」
「お兄様には、新たに部隊を編成していただきます」
ヴィクトリアは自らの計画をヨハンに話した。
勅命をもって機動的に作戦を遂行する遊撃部隊を作って欲しいそうだ。
「それ、独断で決めちゃ不味いだろ」
「独断ではありません――統合参謀本部議長と統帥本部総長には、内閣経由でそれとなくお伝えするよう、手を回しましたもの」
「お前さん、怖いわ」
ヨハンの率直な感想に、ヴィクトリアは上品に笑い声を立てた。
「いやだから怖いって」
一週間ほどして、ヨハンに辞令が下った。
中隊長を解任することと、大尉への昇進が内定し、新設された第九九連隊直属の第一小隊、通称〝ハーレークイン小隊〟の指揮を執るようにと。
それからしばらく、ヨハンは部隊の編成に忙殺されることとなった。
彼は小隊軍曹として実際に下士官や兵たちを束ねる人物として、前線にいた頃に世話になったシニアを引き抜いた。
帝国陸軍に年齢を偽って、弱冠十三歳で入隊してから、彼の軍歴はすでに四十年近くに達していた。
終戦時には下士官としては最高位の階級にあったが、長年、前線にいた功労を認められ、名誉階級として名高い〝帝国陸軍最先任上級曹長〟という階級を与えられていた。
「名誉階級だろうが――全陸軍に一人しかいない階級章は、あんたにこそ相応しい。なにしろ、元帥たちよりも古株なんだし」
「たまたま生き残っただけの老兵には、身に余る光栄です――小官のことよりも、大尉、昇進おめでとうございます」
一年ほどの短い付き合いだったが、自宅を訪ねて用件を告げたヨハンを、シニアは歓迎した。
「中隊長付から、小隊軍曹じゃ格落ちなんだが」
「構いませんよ」
「まだ何をやる部隊か、実は俺もわからないんだが」
「大尉――僭越ながら申し上げます。あなたは小官に〝戦え〟とお命じになれば、よろしいのです」
シニアは以前ヨハンが贈った高級酒の栓をあけた。
グラスに注いだ酒を掲げて見せて、
「スランジバール」とひといきに飲み干した。
その晩は二人で酒瓶が空になるまで飲み明かし、前線での思い出話と互いの第一印象を語り合う本音をぶつけて、笑い声を響かせた。
「さしあたっての問題ですが――まずは、幹部を集めましょう。小隊ということですから、我々を除いて、副官と准士官の二人が必要です」
「副官はなんとなく、優等生タイプがいいってのはわかるが――残りの准士官って、どういう基準で選ぼうか?」
ヨハンが訊くと、シニアは少し唸ってから持論を語る。
「もしも小官が小隊を預かる身でしたら」
「教えてくれ――あんたの長年の経験だけがただ一つの武器なんだ」
「一芸に特化した者を推薦します――これは准士官に限らず、他の兵たちもですが。単独行動をとる遊撃隊が戦場の霧の中で絶えず生き残るためには、従順な凡夫の集団では話になりませんね。もっとも、より大規模の大隊や連隊の規模の部隊を率いるとなると、今度は凡夫の兵を群として運用したほうが有効でしょうが」
そこで言葉を切って、酔い醒ましに用意した冷たい炭酸水を新しいグラスにそれぞれ注いだ。
「統合参謀本部の思惑を推測しますが――おそらく、お歴々は先の大尉の空挺での活躍ぶりに感心されたのではありませんか。そこで、それを専門にした小隊を新たに、実験的に編成したいのでしょう」
「一芸、か」
「ご参考になれば幸いです」
ヨハンはシニアの宿舎を後にした。
それから二人は、第九九連隊基地、通称〝ノーマッド〟に正式に小隊本部を設置すると、各部隊から伍長以上の下士官をかき集めた。
その中には、終戦間際の空挺作戦に参加した古参兵や、初めてヨハンが率いた中隊に属していた者も混じっている。
「大尉――おわかりかと存じますが、副官と准士官の人事について、統合参謀本部から矢の催促です」
シニアから助言を貰っていたヨハンだが、いまだにどういう人材を当てればいいのか、明確な見通しを立てていなかった。
「差し出がましいことですが」
シニアはヨハンよりも若い、今年の春に幼年学校を優秀な成績で卒業した者たちの経歴書をいくつか並べていく。
「もう、この中から選んじゃうか?」
彼は手近にあったミリアム・フォン・シメオンという女子の幹部候補生の経歴書を手に取った。
「この、恐怖映画かサメのあれの冒頭でエロい目に遭ったり、真っ先に死にそうなのはどうだ? あと、なんだこれ――三三のD? こんなスケベな乳袋が、Dカップのわけないだろ。三一のFってとこか。なんで逆サバ読んでんだ、このお嬢ちゃん」
「よりにもよって彼女とは、素晴らしいご人選です――彼女は本年度の首席ですよ。その功績を讃えて少尉として任官先を統合参謀本部が探しているところだそうです。シメオン伯爵家のご令嬢で、剣術と馬術では全国大会にも出場している実力者でもあります。さらに、幼年学校に編入する前に在籍していた、帝国修道院時代には准看護師の資格も取得しています。少々、厳格すぎる性格のようですが、副官としてはむしろ好都合です」
そのミリアムが、正式にハーレークイン小隊の副官として任命されたと、ヨハンとシニアが知ったのは、翌日のことだ。
聞くところによると、上層部からの半ば一方的な通達だった。
「俺たち、監視されてんじゃね?」
ヨハンはわざとらしく執務室を見回しながら言った。
「いいえ――むしろこれからでしょう」
「……そういうことか」
「ええ」
おそらく、得体の知れない命令系統で新設されたハーレークイン小隊を、上層部が監視するためにミリアムを送り込んできた――ヨハンとシニアの見解は一致した。
「一応、指揮官権限で異議申し立てを行うことはできますが」
「いや、いい」
ヨハンは首を振った。
「そしたら、もっとやりにくい奴が送り込まれてくるだろ?」
シニアは頷いて、ヨハンの机に淹れたてのカプチーノを置いた。
「それに……」
「は?」
シニアが訊き返すと、彼は大真面目な顔で言う。
「俺は一度でいいから、女騎士ってやつに命令をしてみたかったんだ――でもって、そいつの口から〝く〟で始まる真言を聞かせてもらう」