第14話 野蛮を好む女騎士にドレスを着せる簡単な方法
――ヨハンたちの健闘も虚しく、またしてもテロを防ぐことは叶わなかった。大河を渡る大陸横断鉄道の橋脚が爆破されてしまったのだ。そして休む間もなく、ハーレークイン小隊は晩餐会の護衛任務に駆り出される。そのさなかに起きた騒動の成り行きによって、ヨハンは貴族の若者と真剣勝負の決闘を約束させられてしまうのだった。
「君たちは政治的に危険な立場になりそうだね」
シャワーと着替えを済ませ、貴賓室に通されたヨハンに、サムエルは再会の挨拶に代わって言った。
表向き、二人の会合は〝警備計画の修正事項の通達〟ということになっていた。
「トカゲの尻尾か――今朝、ちょうど新聞の求人欄を見てたんだがな」
「うん?」
「新聞なんぞ、なんの役にも立たねえって思い知らされたぜ――便所紙の切れたときには重宝するが、ケツにインクが付くからいっそ白紙で発行してもらいたいよな」
「あはは」
サムエルが声を立てて笑った。
彼は調印式の礼服から、私服のチャコールグレイの三つ揃いに着替えていた。
「とりあえず、最大の問題点は君たちの不法越境くらいだね――そのテロリストたちが、あわよくば君たちを爆破犯に仕立てようと画策してるかもしれないけど。それにしてはお粗末すぎるし、状況証拠だけでそれを鵜呑みにするほど、僕たちは浅はかではないよ。リーベルラントもそうじゃないかな」
「うちのお偉方にもそう言ってやってくれよ――そもそもなんだが」
ヨハンはテーブルにあった灰皿を引き寄せながら言った。
「敵の目的かい?」
「橋を落として得をするのは誰だ」
「うん――国家レベルにおいては、当事国はいずれも得をするとは思えない。それどころか、両国の鉄道網がなくなるとなれば、物資の輸送や交易に支障が出そうだね。特に、中間点であり鉄道の経営と運営を担ってるリーベルラントは死活問題だ」
細巻きに火をつけたヨハンは瞬いた。
「交易――そういうことか!」
ヨハンは端末水晶を取り出して言う。
「シックスより全隊へ――海運会社を押さえに行くぞ。連中は爆破犯に協力してい.るだけじゃない。やつらとテロリストの根はもっと深いとこで、繋がってるはずだ」
《どういうことですか? 大尉》
ミリアムが訊いてきた。
ヨハンは今回の事件は海運会社がテロを装って、大河の交易を独占するための工作だと主張した。
「とにかく甲板に集合だ――シフトはさっきまでの体制を維持。ブレイク、セブンは俺と代わって〝レイブン〟に張りつけ。シックス、アウト」
一方的に通信を閉じると、ヨハンは貴賓室を慌ただしく出ていった。
自室に割り当てられた士官の一室に立ち寄って、礼服の上着を脱ぎ捨てるように放り出し、朝から着込んでいた戦闘用装具をシャツの上から身につける。
小銃の負い革を肩からかけて、そのまま甲板に続く通路に出ていく。
廊下で出会った他の部下たちに歩きながら、
「動けるやつは続け!」と再び命じて甲板に出る。
「待ちたまえ、スミス大尉」
先に到着していたシニアに合流したところで彼は止められた。
シニアと並んでいたのは、統合参謀本部の次席幕僚に名を連ねる、スヴェンソン准将だった。
「我々は君たちに出撃の許可を与えた覚えはない――そもそも、民間の海運会社に強制捜査に踏みきれるのは、警察権を有する憲兵隊の管轄だ。確たる情報と証拠があるのならば、君はまずそれを我々に報告すべきであろう」
スヴェンソン准将の理路整然とした物言いに、ヨハンは頭にのぼった血が冷えていくのを感じた。
「ハーレークイン小隊が充分によくやってくれたのを、我々は知っている――橋梁爆破の件は我々に任せて、貴官たちはサムエル殿下の身辺警護に専念したまえ」
「……」
「命令だ――大尉」
ヨハンは小銃から弾倉をはずして槓桿を引き、薬室の弾を抜いた。
シニアに小銃を差し出すと、彼は無言でスヴェンソン准将に敬礼して踵を返した。
帝国と魔界の歴史的な講和条約の締結と、時を同じくして発生した横断鉄道の爆破によって、午後の鉱石鉱石ラジオのニュースは話題に事欠かなかった。
関係当局においても情報が錯綜したために、夕方の間際に記者会見を開いたものの、爆破の事実とそれにともなう列車の転落と死傷者を伝えるだけにとどまった。
さらに質疑応答もなく会見は半ば強制的に打ち切られた。
ヨハンたちは休息をとってから、ハーキュリーズでシメオン伯爵邸に移動していた。
当初は延期または中止の懸念がされた晩餐会は、魔界側というよりサムエルの強い希望で予定通り行われることとなった。
これは政治的な理由もさることながら、テロリストの攻撃に動じた様子を見せるべきではないという、軍部の見解とサムエルのそれが一致したために実現したものだ。
シメオン伯爵邸の正面にハーキュリーズは着陸した。
貴族の私邸に飛竜が降りるのは、竜族の邸宅以外では極めて異例のことだった。
「殿下、大尉――こちらです」
勝手を知ったるミリアムが先導した。
シメオン伯爵家は、帝国の中でももっとも古い家柄で、数世代前の神姫とも遠戚であるという噂もあった。
元々、シメオン家は金融業を生業としていたが、現当主のシメオン伯爵の立ち上げた、企業向けの損害保険会社の業績が好調で、納税額では現在そちらの方が上回っているという。
「温室を抜けた先の廊下が、父の書斎に通じています」
ヨハンは上着のポケットから端末水晶を取り出して言う。
「シエラチーム、屋根裏にあがって来賓を監視――名簿にないやつが現れたら報告しろ。ブレイク、全隊に告ぐ。三‐二と七‐三を維持しろ。ブレイク、ブラボーは引き続き殿下の警護、所定の位置につけ。ブレイク、ファイブとナイン、アルファチームは地下で休息を取れ。揉め事は避けろ。シックス、アウト」
「了解」
「お先です、大尉」
廊下に出ると、ヨハンに命じられた部下たちはそれぞれに分かれて移動をはじめた。
突き当りまで進むと、扉の前に燕尾服を身に着けた、背の高い初老の男性がいた。
アッシュブロンドの髪を撫で付け、後方で短いリボンで結んでいる。
「家令のシュワルツです」
ミリアムが言ってサムエルの前をあけた。
「シメオン伯爵閣下にご挨拶をしたい――取り次ぎたまえ」
「は――承ってございます」
シュワルツは慇懃に答えて書斎に続く扉を開けた。
そこは応接間だった――どうやら、書斎はさらに奥の部屋にあるようだ。
「灰皿はないんだな」
ヨハンは部屋を見回して言った。
彼は貴族の出自だというのに、調度品や絵画といったものにまったく関心がないらしい。
「そこの壁にかかってる落書きはなんだ? 三歳児がケツに筆を挟んで踊りながら描いた自画像か?」
「大尉!」
ミリアムが嗜めるように囁いた。
「こちらでしばしお寛ぎを――ただいま、主人をお呼びしますれば」
応接間に通されると、ヨハンはサムエルに頷いてソファに腰かけるよう促した。
彼自身は壁に背を向けて立ったままだ。
「……」
ミリアムは上官を一瞥して彼の隣に立って待つ。
間もなく扉が叩かれて、フランネルのスモーキングジャケットを羽織った紳士と、古風な衣装をまとったメイドが銀盆を両手に入室してきた。
最後尾にいたシュワルツという家令が静かに扉を閉め、彼自身は廊下に残った。
「お待たせいたしました――いや、まさかこのような形で娘と再会を果たすとは」
「ご無沙汰しております――父上」
ミリアムはどこかよそよそしい口調で言った。
それに気づいているのか、敢えて無視しているのか、シメオン氏は笑顔を崩さずにヨハンに黙礼した。
「殿下――シメオン伯爵閣下がお見えです」
ヨハンに呼ばれて、ソファで寛いでいたサムエルが立ち上がった。
魔界の王太子が動く前にシメオン氏は大股で歩きだして、
「ようこそ当家に――サムエル王太子殿下。魔界の方、それも王太子殿下の行幸の栄誉に預かるることを、心よりの感謝を申し上げさせて頂きたく存じます」と言った。
「ありがとう、伯爵――ところで、あれはゴダーニかね?」
サムエルは晩餐会の主催者を迎えて握手を交わすと訊いた。
「さすがは殿下、よくぞご存知で――左様、あれはシャルル・ゴダーニの晩年のスケッチでございます。当家の数少ない財産でして。さあ、まずはお寛ぎを」
シメオン氏に促されてサムエルはあらためてソフアに腰かけた。
「魔界でも彼は有名でね――僕も一枚欲しいのだけど、帝国の巨匠の作を城に飾ろうとすると、家人たちからなぜか叱られてしまうんだ。帝国の文化が好きな僕としては慚愧に堪えない、いや遺憾というべきかな」
「それはそれは」
しばらく、当たり障りのない雑談をサムエルとシメオン氏は交わした。
内容は芸術や文化的なことに終始し、政治や戦争に絡む話題は意図的に避けているようだ。
初めて立ち会った、外交の盤外戦術をミリアムは神妙な面持ちで見守っていたが、隣の上官が欠伸をしたことに気づいて肘で小突いた。
「……では、殿下も独身でいらっしゃると」
サムエルは頷いた。
「お父君から――それについて、なにかご助言を賜ることは?」
「ああ、あの人――陛下はそういうことに関心がないんだ。今は内政に専念したいと考えているはずだよ。おっと、いまのは失言だ。内緒にしてくれたまえ」
シメオン氏はミリアムを見た。
「わたくしにも娘がおりまして」
つられるようにして、サムエルもミリアムを振り返った。
「聡明で勇敢なお嬢さんだ――なにより、彼女はとても美しい。ただ、今は軍務に夢中のようだけど」
「若いうちはそれでも宜しいが――いずれは娘にふさわしい相手を見つけるのが、父親としての務めでもあります。ミリアム、こちらに座りなさい」
シメオン氏に呼ばれたミリアムはヨハンを見る。
「殿下の隣につけ」
上官に小声で命じられるとミリアムは父親の背後を回り込んでから、
「失礼いたします」と言ってサムエルの隣に腰かけた。
「……」
「……」
親子の間に沈黙が訪れているときに、ヨハンたちの端末水晶に通信が入る。
《シックスへ――こちらシエラ・ワン。名簿にない来客がそちらに向かっています。ブレイク、人数は一、男性、武装はなし。帯剣した貴族っぽいヤツです》
「……」
ヨハンは壁から離れると、腰の拳銃に手を添えてドアの前に立った。
「ああ、わたくしの客ですよ――大尉。せっかちな若者で、予定より早く到着してしまったようですな」
「は?」
ヨハンが振り返るのと、家令のシユワルツが扉を開けるのはほぼ同時だった。
「旦那様――ゼブルン様がお見えです」
「こちらにご案内を」
シメオン伯爵がシユワルツに指示を下した直後、ヨハンたちの端末水晶に続報が入ってくる。
《シックスへ、ブラボーのメイソンです――そちらに強引に向かおうとした、派手な御仁を拘束しました。一応、無傷ですが地下に連れていきますか? それとも身ぐるみ剥いで放り出しますか?》
「解放しろ――〝テベトニー〟の来客らしい」
《了解》
しばらくして、騒がしい声とともにシュワルツが再び扉を開けた。
「シメオン伯爵殿――これは一体、何事ですかっ!? なぜ野蛮で粗野な軍人どもが、屋敷の警備をしているのです! さきほども無礼なニグロを成敗したところですが……」
入室してきたのは、ヨハンよりも頭一つ以上の上背がある偉丈夫の若者だった。
金の刺繍が施された上下に、革のベルトには、クレイモアのような大剣用の鞘だけを腰に差した貴族と思しい青年だった。
剣が見当たらないのは拘束された際に没収されたのだろう。
「前をあけろ! 下郎!」
ヨハンはシメオン氏に釈明を求めようとしたが、その間に偉丈夫の青年は肩をぶつけながら強引に応接間に踏み込んでくる。
「ルートヴィヒ君――少し控えてもらえるかね。先客がお見えでね。それから、私の娘も。君の前にいる人は我々と同じく貴族だよ。礼節を欠いてはいけない」
「失礼をお詫びします、伯爵閣下――ん、ではこの貧相な小兵が、フロイライン・シメオンの上官とやらか」
貴族家の青年、ルートヴィヒは文字通り見下しながら言った。
「……」
ヨハンは無言で顎をあげて、ルートヴィヒを見た――その利き手は相変わらず腰に添えられている。
「大尉――ご辛抱してください!」
ミリアムが声を落として言った。
二人の緊迫感に無頓着なルートヴィヒは首を傾げる。
「ん? 貴殿とは、どこかで会った気がするな」
ヨハンの顔にルートヴィヒは見覚えがあるようだった。
「いいえ――初対面です。先ほどの部下のご無礼を、代わって謝罪します」
「よきにはからえ――有色人種の混じった雑多な平民ごときの軍にしては、なかなか気骨のある者たちであったぞ。しかし我らのような選ばれし気高さは、彼奴らごときには永遠に身につかんが」
「ええまったく」
ヨハンが口の端に歯を覗かせて白々しく会釈した。
それを見ていたミリアムは、背中に氷で出来た銃剣を押し付けられたような気がした。
おそらく、次に誰かが不用意な言葉を発した瞬間に、この場で血が流れただろう。
大戦の最中の前線でマイアを嘲弄した、ヨハンのかつての上官は今も退院できていない。
「どうやら、長居をしすぎてしまったようだね――僕たちは下がらせてもらうよ」
サムエルがソファから立つと、それに合わせてミリアムも立ち上がる。
「シックスよりブラボーへ――〝レイブン〟は移動する」
《ブラボー、了解》
「では、伯爵――晩餐会で」
サムエルが礼儀正しく述べると、ヨハンが先導する形で応接間を出ていこうとする。
任務を全うすることだけを、自らの存在意義としているような、ヨハンの習性を魔界の王太子は見抜いているかのような絶妙な間合いの把握だった。
ところが、
「ミリアム、ちょっと待ちなさい」とシメオン氏がミリアムを呼び止めた。
彼は重ねてヨハンにも訊く。
「大尉、よろしいですかな? 娘と少し世間話などをしても」
彼女は軍務を理由に断ろうとしたものの、ヨハンが許可を与えたために、ミリアムは応接間に残された。
「三‐五を許可する――窓を使え」
部屋を出るときにヨハンは符丁で告げた。
「……了解」
ミリアムはヨハンの意図を理解して、敬礼するとサムエルを案内する上官を見送った。
しばらくして、ハーレークイン小隊の士官たちに割り当てられた客間にミリアムが入ってきた。
隣は続き間で、サムエルの控室として割り当てられている。
「で――おとっつぁんと、あのバカボンはなんだって? というか、誰だよあいつ?」
「……まさか大尉――本当にお忘れでしたか?」
ミリアムは意外そうな顔をした。
「俺にあんな知り合いはいねえぞ」
「いいえ――そうではありません。最初の任務の際に緩衝地帯で彼を救出したではありませんかっ!?」
「……あ――ああ! あいつか!」
ヨハンはようやく思い出した。
どうやら本当に忘れていたようだ――彼の将校としての資質と能力に、改めて疑問を持ちたくなりそうだ。
ハーレークイン小隊が発足した最初の任務で、彼らは白金級の冒険者と称賛される、冒険者組合協会の英雄を救出した。
「なんていうか世間って狭いな――それで、なんで今ごろになって、そいつがうちに絡んでくるんだ?」
事情を聞くと、さきほどのルートヴィヒという青年を、ミリアムの婚約者候補筆頭としてシメオン氏に紹介されたらしい。
また、今夜の晩餐会では特別ゲストの一人として列席する彼のパートナーを務めるように頼まれたとも。
また、ミリアムはヨハンに話していなかったものの、上官が不当な容疑で憲兵本部に拘束されたときに、彼女は貴族院議員の肩書をもつ父親に助勢を請い願った。
その際の条件として出されたのが、これまでなにかと理由をつけて先延ばしし、保留にし続けていた婚約者候補たちとの顔合わせをこなしていくことだった。
任務とはいえ、シメオン氏は娘が屋敷に戻ってくる機会を待っていたようだ。
「あー、やっぱそういう話か――参ったなどうも」
「そうです! 父上はいつもそうやって、強引に話を進めるのです――それで、これまでは屋敷に来るのは避けていたのですが。まさか、任務中にこんな重大な話を持ってくるとは思いもしませんでした」
彼女は話していくうちに上気した顔の温度を下げるために、ヨハンの前にあったコップを取り上げて、レモネードを一気に飲んだ。
「あの、それ俺が口つけた――まあいいや」
興奮した女騎士はさらに言葉を続ける。
「それにドレスの用意など、今からではとても間に合いません――古いものならありますが、仕立直しも難しいでしょう」
「それもそうだが――うん、見せちまったほうが早いや……」
ヨハンは椅子から立って、灰皿に細巻きを捨てるとベッドの上に置いてある革のトランクに近づいた。
その背中に向かってミリアムはきわめい珍しいが、さらに愚痴をこぼす。
「そもそも、わたくしはまだ一七歳です――百年前ならばいざしらず、今の時代にこの歳で結婚など、早すぎると思いませんかっ? それに帝国陸軍は既婚女性の在籍を許していませんから、退役を余儀なくされてしまいます。それでは、わたくしは今まで何のために苦労と努力を重ねてきたか……大尉、聞いておいでですかっ!?」
ヨハンが革のトランクを開け背中を向けたまま立っていることに、ようやくミリアムが気づいた。
「いや実はドレスが――もうあるんだよな、ここに」
「はい?」
ヨハンが振り返りながら、緑のベロアと黒のサテンで織られたイブニングドレスを広げてみせる。
革のスーツケースには丈の長い厚手の手袋、扇子や宝飾品をはじめとして、コルセットまで用意してある。
そこには晩餐会に赴く深窓の令嬢に必要なものが一式揃っていた。
「一体どういうことですかっ!?」
ミリアムは詰め寄りながら上官を詰問した。
晩餐会でのサムエルのパートナーをどうするか、この点でハーレークイン小隊の幹部たちは頭を悩ませていた。
帝国の他家の貴族の令嬢または婦人を代役に立てるのは、議論の余地もなく立候補者が現れないとわかっていたので、最初から提案もされなかった。
次の案は女優を雇うことだったが、これも保安上の理由で棄却せざるを得なかった。
その際に、ヨハンは冗談めかしてミリアムに頼んだがにべもなく断られていたのだった。
サムエルのパートナー役を継続して探しつつ、どうしても候補者が決まらない場合はマイアに頼むと言ってその日の軍議は終わったはずだった。
「エフライム中将はどうされたのですか!? 小官はてっきり、あのお方にお願いするものと思っていましたが」
「いやそれが、ババアのやつ――急に後宮にあがる用ができたとかほざいて、今日は欠席になっちまったんだ」
「……」
ミリアムが唇を尖らせると、ヨハンは本気で困ってるような顔をした。
彼は弁解をはじめる。
「こんなことになるとは思ってなかったんだよ――まったく、これじゃ俺もあのおとっつぁんと一緒じゃねえか。お前さんが女だってことを、利用しようとしてるんだもんな」
企みが露呈したときにヨハンは自分の意図をあっさりと白状する。
相手を選んで行っているあたり、これが彼一流の親しい人への甘え方なのだろう。
よほど甘やかされて育ったに違いない。
この辺りも彼が貴族らしからぬところだった。
無理矢理にでも話題を変えるためか彼は言う。
「あ、そうだ――これ見てくれよ、これ」
衣装の収めてある革のスーツケースから、紫色のビロード生地で包まれた小箱を取り出した。
「あのダイヤで作ってみたんだ――お前さんに使ってもらおうと。けっこうな値うちものだぜ」
箱をあけると、ヨハンが自分の机でペーパーウェイト代わりに使っている、拳大のダイヤモンドを中心に据えたネックレスが入っていた。
鎖や装飾はプラチナで造られている――過度な彫金は予算と時間の都合で省かれているものの、それがかえってダイヤモンドの存在感を引き立てていた。
「あのガラス玉じゃないですか!? こんな大きさの金剛石の結晶なんて、手に入るわけないでしょう。偽物だと、ひと目で気づかれます!」
「大丈夫だって――あのババアが爪で引っ掻いても、傷つかなかったんだから、本物だろこれ」
「え?」
竜族の爪や鱗は、モース硬度にして九と十の間に分類される――その硬さはダイヤモンドには及ばないものの、ルビーやサファイヤを凌駕する。
もしもこの結晶が硝子の模造品なら、竜族の爪を立てれば傷がついたはずだ。
「まあ仮に偽物だとしても――こいつはかの王太子殿下からの貰い物だ。身につけていけば喜ばれるはずだ、多分、きっと」
「……」
予想外の贈り物に、ミリアムは驚かされたものの、もしもこれを受け取るならばサムエルのパートナーとして晩餐会にドレスを纏って出席しなければならない。
しかし、それを断ればルートヴィヒのパートーナーになるか、それを上手く回避したとしても、晩餐会の会場でルートヴィヒを婚約者の候補だと発表されるのは目に見えている。
「もうひと押しが要るみたいだな」
ヨハンは彼女の逡巡を見透かしたように言った。
彼は立ち上がり、ミリアムに歩み寄って耳元に口を近づけて小声で言う。
副官の乙女は父親や家令以外に、このようにして耳に息がかかることを許したことはなかった。
「ドレスを着てくれたら――お前さんの縁談をぶち壊してやるよ」
「……」
この期に及んで、ミリアムは〝どうやって〟とは訊かなかった。
しばらくして彼女は別の質問をした。
「……大尉はご覧になりたいですか? 小官がサムエル殿下のパートナーを務めるところを」
「あいつのことなんか、どうでもいい――俺が見たいのはお前さんの晴れ姿だ。私服はいつだか保養地で拝ませてもらったけど、もう少し派手な格好をしてもきっと似合うだろうし」
「……そういう仰り様は、少し卑怯ですからね――大尉。そもそもあなたは上官らしく、命令を下せばいいじゃないですか」
「だってさあ……」
ヨハンは肩をすくめた。
ミリアムは一度だけため息をついてから言う。
「隣室でサムエル殿下とお待ち下さい」
「いや、俺は着替えの手伝いをだな――背中のファスナーを上げてやるって。本当は下ろすほうが得意だけど」
「いいから、待っててください」
ミリアムはそう言ってヨハンの背中を押しながら、上官を追い出す。
扉が閉まると、ノブから錠前の下りる音までした。
「おいっ!? どんだけ信用ないんだ!」
「ご自分の胸に手を当てて、ふだんの不埒な言動の数々を思い出しなさいませ!」
「ふざけんな! 目の前にスケベな身体をした女騎士がいるのに、なにが悲しくて自分の胸を触らなきゃ、ならねえんだっ!?」
「だからこそです!」
「いや実に君たちは仲睦まじいね――プラトニックは僕も大好物だ」
隣室でラズベリーのジャムを大量に溶かした紅茶を、行儀よく飲んで寛いでいたサムエルが言った。
「こんど差出口を叩いたら――その口に塩を詰めて縫い合わせるぞ」
「ゾンビの儀式は魔族に効かないからね――魔族の最大の弱点は、純粋で無垢な心で祈ることだよ。愛を込めてね」
「そんなことできる人間がいるわけねーだろ――昔も今もこれからも」
ヨハンが細巻きを取り出すと、サムエルが指を鳴らしてその先端に火を灯した。
彼は煙を味わいながら声を落として続ける。
「人の恋路を邪魔する野暮は趣味じゃねえが――最高に有能で最強にスケベな身体をした部下の女騎士を、あんなバカボンに取られるのは癪だ。そのためなら、悪魔と取引したって構わないぜ」
ヨハンの不穏な物言いにサムエルは目を輝かせた。
「では悪巧みをしよう」
魔界の王太子は喜々として客間の椅子から立ちあがった。
「あの野郎が絡んできたときのために手品を仕込むぞ――手伝え。こうなったのはお前ら魔界が俺らとの戦争を止めちまったせいなんだから」
「戦争がなくなったことに文句を言われたのは初めてだけど――他ならぬ君のため、喜んで手を貸そう。対価はそうだね、僕の目の前であの若者を殺してくれたまえ。彼のような尊大で己の心に鏡を持たない若者の魂は、魔界では市場価値が高いんだ」
「乗った」
ヨハンはそれから地下で休憩をとっていたソフィアを呼び出した。
シメオン伯爵邸に飼われている猫たちとの饗宴を邪魔された妖精の少女は不機嫌だった。
ヨハンは事情を話して協力を頼んだ。
軍務はもとよりサムエルの警護――任務にこれはまったく関係ないことだが、ミリアムが結婚して小隊から抜けることには彼女も反対だったようだ。
「……で、霧を出してだな」
「うん――ああ、対象者がその場にいるなら、そのまま投影できるよ。あとは音声が端末水晶に残されているかどうかだね。あとで暗号鍵の複製と権限を、僕にも付与してくれたまえ」
「……技術的には可能――でも、本当にいいの? こんなことをして」
ヨハンとサムエルの企みを聞かされたソフィアが訊いた。
「いいか悪いかで言ったら、そりゃ悪いことだが――俺がそんなことを気にすると思うか?」
「思わない」
ソフィアは即答した。
「ならやれ」
「ん――わかった」
「晩餐会がこんなに楽しみなのは――毒を盛ろうとしてきた姪に気付かれないように、グラスを交換したとき以来だよ」
シメオン伯爵邸での晩餐会は警備上の理由で、当初の予定を変更してマスコミは締め出されて始まった。
屋敷の周辺は重武装に身を固めた陸軍兵士が要所を鎮護している。
また、出席者たちは知らないが屋敷の周囲には狙撃兵が配置され、出席者の顔と名簿を一人ずつ確認して、予定外の者がいないかを調べていた。
さらにこれは主催者であるシメオン氏ですら知らないが、大広間の天窓には屋根に潜んだ兵士たちがおり、不測の事態にはいつでも降下できるようにも備えていた。
大広間の出入り口になっている、大きな両開きの扉の横にヨハンは陣取った。
肩の上には例によってソフィアが立ち、部隊間で交わされる通信の内容を口頭で耳打ちしている。
妖精の少女を連れた帝国陸軍の礼服をまとった青年将校は、悪い意味で目立っていたものの、彼らはそんなことを全く気にしていない。
扉が開かれて、
「サムエル王太子殿下、並びにシメオン伯爵令嬢、ミリアム様の御入来です」と家令のシュワルツが告げた。
「……っ」
ヨハンは思わず息を呑んでいた。
彼だけではなく、他の出席者たちが一斉に最後のゲストの到着と、その容姿に見とれ、直前まで交わしていた互いの会話の内容を忘却してしまうほどだった。
「綺麗」
相変わらずその声には抑揚が乏しいものの、ソフィアも感嘆しているようだ。
「なんだ、羨ましいのか? お前さんもたまには女の子なんだな」
「今のハラスメントの代償はこんどの休暇に払ってもらう――絶対に」
二人が話している横を、サムエルの腕に掴まるミリアムが通り過ぎた。
その見た目は普段と打って変わっていた。
前髪から耳の周りにかけては巻毛を多く作り、豪奢なプラチナブロンドの髪の毛を持ち上げて、三つ編みを輪にするようにまとめていた。
その頭頂部には今年から若い女性の間で流行しているアクセサリーとして、小さなハット型の帽子を斜めにピンで留めている。
帽子はドレスと同じ緑のベロアと黒のサテンで仕立てられており、ドレスの方は丈から各部の寸法まで完璧に合っていた。
もちろん、これらを仕立てるときにミリアムは採寸に一度も立ち会っていない。
これに関してヨハンはもう一度ミリアムから詰問されることになるが、この場では互いにそれどころではなかった。
そして衆目の視線は、老若男女ともに彼女の胸元を飾る巨大なダイヤモンドとその周りに集まっていく。
ミリアムの盛装に比べると、サムエルの装いは比較的地味だ。
昼間の調印式では白の伝統衣装にターバンという出で立ちで、足元はサンダルだったが、今宵は古風なフロックコートの三つ揃いにストレートチップを履いている。
シャツは白のウイングカラーで、蝶タイをきちんと結んでいた。
煌々とした大広間に出ると、その上下の布が光をまったく反射しない生地で仕立てられていることに、目の肥えた淑女ならびに紳士たちは気づいただろう。
羊毛とカシミールゴートの混紡を魔界でしか精製できない染料で染めてから織られるものだった。
王太子ほどの人物が身につけるからには、単に珍しい生地の服を着ているわけではない。
声高には主張しないものの〝自分の出自を隠すつもりはない〟という本人の意思を服装だけで代弁しているのだ。
また、その影のような装いは、舞踏会の場でどのようなドレスで着飾った婦人と踊っても、相手の華やかさを損なうことがない。
それをまた裏返せば〝申し込まれれば誰とでも別け隔てなく踊るつもりだ〟という気持ちを無言のうちに伝えているのだ。
そのサムエルがヨハンたちの前を通るときに一瞥して微笑し、
「彼は僕の見込み通りだ」と言った。
「大尉がでございますか?」
「そのダイヤの結晶――彼には好きに使ってもらいたくて渡したけど、これ以上ないタイミングで有効活用してくれたようだね。君の美しさを引き立てるためには、並みの宝飾品では釣り合わないと、彼は思ったのさ」
「そんなまさか――殿下、お戯れはほどほどになさってくださいまし」
ミリアムは手慣れた様子で扇子を使って口元から頬にかけて、顔の半分を隠した。
サムエルの世辞への失笑を隠そうとしたのか、あるいは自分に見とれているヨハンの視線に気づいて、紅潮した頬を誤魔化すためか。
真相は本人に訊かなければわからない。
しかし、訊く必要がはたしてあるのだろうか。
間もなく、ショールカラーの上着に花を挿した、ホストを務めるシメオン氏が歩み寄ってきて、型通りの社交辞令をサムエルに述べて席に案内する。
大広間では伝統的に中央がダンス用の空間として利用される。
そこではパートナー同士、あるいは相手を入れ替えての舞踏を楽しむ人が音楽に合わせて踊っている。
早速、サムエルにダンスの相手を申し込む女声が現れた。
ソフィアが耳打ちしてくる。
「ドレイク男爵夫人――招待客、問題ない」
「野郎が仕掛けてくるなら、このタイミングだろうな」
ヨハンが頷くと、それを確認したミリアムはドレイク夫人に会釈してさがった。
「あまりこちらを見ないでくださいね――大尉」
ミリアムはホールの中央からはずれると、さり気なくヨハンに近づいて言った。
「Gにサイズアップしたな――豊胸コルセットを選んだ甲斐があったってもんだ。でも上を二八まで締め上げるのは、やりすぎだぜ。お前さんは広背筋が凄いんだから」
「露骨なセクハラはマナー違反」
「なら他になにを楽しめばいいんだよ? そこで実ってる桃以外に」
「だから見ないでくださいと頼んでるんです!」
ミリアムは扇子で口元を覆いながら囁くように言った。
「失礼――フロイライン・シメオン。一曲お相手を願おう」
燕尾服を身に着けたルートヴィヒが現れて言った。
「ほーら釣れたぞ」
ヨハンが小声でつぶやくとソフィアに耳を引っ張られた。
「ヘル・ゼブルン――小官は現在、殿下の警護計画の善後策に関して大尉とお話しを……」
彼女は任務を口実にルートヴィヒから距離をとろうとした。
「そんなことならば、兵どもに任せておけばよろしい――そうだな! 大尉!」
「はあ、まあ――どうぞどうぞ」
「……え?」
上官は意外にも大人しく引き下がった。
ルートヴィヒは半ば強引にミリアムの手を取って、広間の中央にいざなっていく。
それを見守りながら、
「準備は?」とヨハンは訊いた。
「できてる――警備上の報告、ブラボーからは異常なし。シエラチームからもピクチャーに異常なしの報告が入った。アルファも待機を継続中」
妖精の少女は頷いた。
予定にはないことだったが、急に大広間の照明が暗くなりはじめた。
「私じゃない」
「わかってる」
すると、晩餐会の主催をしていたシメオン氏が、小匙でワイングラスを鳴らして招待客の注意を惹いた。
「みなさん、ご注目を願います」
弦楽器の協奏曲が緩やかに止まるとともに、シメオン氏は口上を述べる。
「お集まりの皆様に、当家より喜ばしいお知らせがございます――このたび我が娘のミリアムとこちらのヘル・ゼブルン氏の婚約を発表させていただきたく……」
シメオン氏の口上はだんだんとに尻すぼみになっていった。
その理由は突如として大広間に立ち込めてきた、煙のような白い靄のせいだ。
サムエルが空気中の水分を集めて凝結させて作った、即席の霧の銀幕だった。
招待客たちが呆気にとられている間に、その上映は開始のブザーを鳴らすことなくすぐに始まった。
光の反射を投影すると、銀幕には立体的な姿で白金のフルプレートメイルを身に着けて〝守護者〟と呼ばれる異形の自律人形と戦いを繰り広げるルートヴィッヒの姿が再現された。
「やれ」
「ん――音声をアップリンク」
ソフィアが端末水晶を介して、サムエルに音声記録を暗号化して送信すると、彼はそれを復調して、空気の振動を操って臨場感のある音響を再現してみせた。
《つまり、これが白金級冒険者の正体、ということですな》
この場にいないシニアの声が再現されて大広間に響いた。
銀幕の中のルートヴィヒは〝守護者〟を相手に一歩も引かない戦いをしているようだったが、よく見ると攻撃はことごとく命中していない。
大ぶりの一撃を見舞い空振りをするたびに、
《エターナル・バトルアックス!》と叫ぶ姿を何度も繰り返されることで、よけいに滑稽に見えた。
そこにミリアムの声が重なる。
《ゼブルン侯爵家は門閥貴族の重鎮です。何代にも渡って、傑出した軍人や官僚を輩出してきた名門でもあります》
ところが勇敢に戦っていたルートヴィヒは、空振りの隙を突かれて〝守護者〟に倒されてしまう。
これでは、ミリアムの声で紹介されているルートヴィヒはまるで虚仮にされているようではないか。
そしてヨハンの声に続く。
《助けて、息子が死んじゃうの。なんでもするから息子を助けて》
霧の銀幕は唐突に死体の山を映し出した。
手足を切断されたもの、腹部の裂傷から腸とその中身を地面にぶちまけているもの、そして事切れる瞬間まで、苦痛に悶えつづけたとしか思えない、必死の形相が投影されていく。
大広間の端では、何が映し出されているか遅れて気がついたご婦人が、短い悲鳴を上げて卒倒する気配がした。
《彼らは冒険者組合教会が、ゼブルン氏の護衛のために雇った傭兵団。資金の流れを追ったところ、実質的には彼の私兵みたいなもの》
銀幕の場面は転換し、ルートヴィヒは担架に揺られながら、みっともない下着姿で喚き立てている。
《なんだ貴様らっ!? 無礼者!》
そこに逆光になりながら人影が現れた。
その人物になにかの注射を打たれたルートヴィヒは、意識を失って――というより眠りについたように大いびきをかきはじめた。
《誰か濡れタオル作ってくれ――この野郎の息の根を止めてやる》
そこでサムエルが指を鳴らすと、一瞬で霧の銀幕が晴れた。
「……」
『……」
静まり返った大広間で、
「ちょっと編集が恣意的すぎたかね?」とサムエルが言った。
「この痴れ者め! よくも恥を!」
ルートヴィヒがサムエルに掴みかかろうとした。
彼はフロックコートの裾を翻しながら身軽にそれを躱し、飛び出してきたヨハンとすれ違った。
「あとは任せるよ――うまく殺りたまえ」
ミリアムもドレスの裾を掴んでその脚を大胆に晒しながら、ヨハンの隣に並んでルートヴィヒの前に立ちふさがった。
「ヘル・ゼブルン――わたくしは、あなたとの婚約を認めておりません。父上が何を仰ったか存じませんが、わたくしは帝国と軍に忠誠を尽くす軍人です。そして今の任務は大尉とともにサムエル王太子殿下の御身の安全を守ることだとご理解ください」
ミリアムは凛然とした声を張った。
そこに拳銃を手にしたヨハンが便乗してくる。
「そういうこった――お馬鹿じゃなけりゃ、恥の上塗りをしないうちに、回れ右しといた方が無難だぜ。ルートビア坊や」
彼なりの親切な助言はまったく逆効果だった。
かえって激高したルートヴィヒは殴りかかって来る。
「ばーか」
ヨハンは大ぶりの鉤突きを躱して懐に飛び込むと、銃口でルートヴィヒの胸を二度突いてから、顎の下に銃口を突きつけた。
「バンバン、バン――ほら王手だぞ。投了しとけって」
息を呑むルートヴィヒ。
「っ……!?」
力を入れずに小突いた程度だったが、ルートヴィヒは驚いているようだった。
彼の頭に血がめぐる前に、ヨハンは何が起きたのかを解説する。
「まだ、わかんねえのか――お前さんはたった今、死んだんだぞ? 税金をしこたま使って訓練してる兵隊に、素人が敵うわけねえだろうが」
そう言いながら、彼は拳銃を握ったまま体重をかけた肘をルートヴィヒに打ち込んで、足をかけてその場に転ばせた。
転んだ相手を後ろ手に組み伏せながら、身動きが出来ないように容赦なく膝を背中に落とす。
「ぐっ!」
うめき声を漏らしたルートヴィヒの後頭部に口を寄せてヨハンは言う。
「それともう一つ重要なことがある――俺はルートビアがカフェモカの次に嫌いだ。たったいま、嫌いになった。わかったか?」
ヨハンはそう言って、ルートヴィヒを解放するとサムエルを守るミリアムに合流しようとした。
「大尉!」
ミリアムの警告を受けて、ヨハンは咄嗟に振り向きざまに拳銃を構えた。
上着の胸ポケットに差していた手袋を、ルートヴィヒが投げつけてきたのが見えた。
銃声がして弾丸が手袋を射抜き、その場に撃ち落とした。
「決闘だ! このように公然と下級士官ごときに侮辱されて、黙っているわけにはいかん! 正々堂々、剣によって勝負を挑んでくるがいい」
「いやいやいや――自分から手袋を投げといて〝挑んでくるがいい〟って……? どういうこった? 足りないのは頭か語彙か? それとも酒か? 寝言が言いたいなら客間のベッドを借りてこいよ」
ヨハンの困惑をよそに、ルートヴィヒは一方的に決闘の条件を押し付けてくる。
「貴官がもしも勝利すれば、この場は収めてやってもいい――しかし、我が身が勝利した場合はこたびの騒乱と狼藉の原因を作った責任を取って、軍籍を返上せよ。また、フロイライン・シメオン嬢には、自分の本当の力を証明し、正々堂々と婚約を正式に認めていただくものとする」
「それ――受けるメリット俺にないじゃん!」
ヨハンは呆れていた。
ルートヴィヒは絵に描いたような門閥貴族の子息だった――自分以外の人間は彼に有益な存在できなければ、我慢できないらしい。
さきほど、銃口で小突いたときに彼が困惑したのは、その攻撃に威力がないことに対してだとヨハンは思っていた。
しかし、実際には反撃を受けたことそのものに対して、彼は困惑していたのだとわかった。
聞き流していたが、この間にルートヴィヒはいつの間に調べていたのか、ヨハンの出自が怪しいこと、そもそもスミス子爵家の嫡子ではなく養子であり、紛い物の貴族だと招待客たちに向かって暴露していた。
紛い物の貴族であるヨハンによって、由緒正しい自分のような本物の貴族の名誉が傷つけられることを許容すれば、須らく帝国が守る秩序が失われてしまうという趣旨の雄弁を彼は熱い口調で振るっていた。
そこに、帝国では〝神姫〟に次ぐ権威を恣にしている大貴族の声が割り込んでくる。
「円舞なぞより、よほど興味深い趣向で盛り上がっておるのう――ところで夕餉はまだかえ?」
彼女のせいで事態はさらにややこしいことになっていく――不意に大広間に現れたのはマイアだ。
彼女は招待を受けていたものの〝所用がある〟と称して出席を断ったという話だったのだが。
硝子の靴に白いドレスを身に着けてマイアは現れた。
「フォン・エフライム閣下――いかにあなたさまが擁護しようとも、彼奴が偽貴族である事実は揺るぎますまい」
ルートヴィヒは竜族の長であるマイアに対しても物怖じせずに言った。
マイアの方は扇子で微笑を隠しながら、
「よいよい――そなたの弁舌、いちいち尤もじゃ」と頷いた。
「法的手続きに則って、あなたはスミス子爵家の家督を継いでいる――本物と何が違うの?」
成り行きを見守っていたソフィアが小声でヨハンに訊いた。
「さあ――さっぱりわからん」
ヨハンも首を傾げていた。
二人の疑問をよそに、マイアはこの件を誰も文句がつけられない形で落着させようとする。
「……よかろう――さあらばこの決闘は妾が取り仕切ってしんぜよう。準備もあろうから、日取りは一週間後の正午とす。ちょうど秋分じゃな。その刻限に互いに東西に立ち位置をとれば、公平な条件で戦えよう。決闘場には、ちと狭いが我が屋敷の庭を提供してつかわそう」
「おいババア! いきなりしゃしゃって、勝手に決めんな!」
ヨハンが抗議の声をあげたが、マイアは素早く扇子を閉じながら、彼の鼻先にそれを突きつけた。
「妾が取り仕切るからには、真剣勝負じゃ――貴族の端くれたるもの、よもや怖気づきはすまいな? スミス大尉よ」
「……」
ヨハンは瞬いた――たったいま、マイアは真剣勝負を提案してきた。
これは決闘における決着の際に、どちらかが相手を死に至らしめても罪に問われないということだ。
「互いの力量を勘案して銃器の使用は可――ただし! これに関しては、立会人や観客の安全も考慮して一定の制限を設ける。防具に関してはこれに自由裁量を認める。よろしいか」
マイアの定めた規定は、明らかにルートヴィヒに有利だった。
彼は特注の白金仕様のフルプレートメイルを用意することができるのだ。
現代の技術で造られる要人用の甲冑ならば、よほどの大口径の銃と特殊な弾丸を用いなければ貫通できない。
ルートヴィヒの方もそのことを知っているのか、すでに自分の勝利を確信して疑わない様子だ。
「異議なし! さすがはエフライム閣下――たとえかつてご御身が後見を務められた者でも、貴族の誇りに傷をつければ、お裁きに容赦はないということですな! 不肖の身なれど、まことに感服の至りでございます」
「うむ――そなたは愛いのう。まさしく、気高き一族の範であるな。なれば来る秋分には口舌の刃に優るとも劣らぬ冴えを、妾に披露してたもれ。して、スミス大尉。そなたの返答やいかに?」
ヨハンは露骨に大きく嘆息して、
「わかった――決闘を受けよう。真剣勝負だな」と答えてから、ルートヴィヒの投げた手袋を拾った。
こうして、なぜかヨハンとルートヴィヒは衆人環視のもとで決闘の約束を交わしてしまったのだ。
しかし、マイアの提示した真剣勝負――これによって何が起きるのかを理解していた人は、この場には片手で数えられるほどしかいないようだった。
その夜、ヨハンはマイアに出席を一度は断っておきながら、なぜ遅参したのかを訊いた。
「わからぬか――まったく精進が足りんのう。ほれ見るがよい」
竜族の長は他の招待客たちとともにサロンで歓談している、サムエルとミリアムを開いたままの扇子で指した。
「妾とて、シメオンのお嬢ちゃんが晴れ着を纏うのを見とうてな――そなたらのおかげで、よい座興に立ち会えたのも、なかなかに愉しかったぞよ」
「これだもんなあ――ババアの退屈しのぎで命をかける、こっちの身にもなれってんだ」
ヨハンは細巻きの煙を天井に向かって吹いた。