第11話 海――小隊の夏休みと帝国の溜めたツケ
――サムエルの護衛と国外脱出を「何事もなく」完了させたハーレークイン小隊には、少し早い夏休みが与えられた。南洋のリゾートで、ヨハンたちは休暇を満喫する。今回は特別な許可を得たために、ソフィアから見たヨハンとの一日も送り届けたい。一方で、二人の休暇の楽しみ方が不健全だとミリアムは言い出し、彼らに「正しいツアー」をさせようとする。
ハーレークイン小隊には、少し早い夏季休暇が与えられた。
ジョージック号が保養地に停泊している間に彼らは下船し、南国の街の中に繰り出していく。
帝国の中でも、この保養地は最も戦場から遠い街であり、海軍にとっては重要な拠点でもある。
半島からイボのように突出した小さな島が、まるごと海軍の基地として使われていた。
そこはかつて交易の一大拠点として栄えていたらしい。
ホテルのロビーでハーレークイン小隊の面々は部屋の鍵を受け取って、以降は一週間後の再編成まで、いっさいの軍務から解放された。
《今さら、こんなことを言いたくはないんだが――貴官は頭がどうかしてるのか?》
ヨハンはホテルの端末水晶を借りて、第九九連隊基地に口頭で報告を行った。
あたり前のことだったが、彼は基地司令であり直属の上官であるボーマン大佐から叱責を受けている。
「しかし任務は無事にこなしましたから」
《無事っ!? いま無事と申したか? おかしいのは私の耳か? やはり貴官の頭か!》
「頭です――大佐殿」
《茶化すな! うつけもの! 勝手に統合参謀本部の警備計画を無視した結果、どれだけ多くの同僚や友軍、関係各機関に迷惑をかけたと思っている! メイ中佐が、話のわかる人だったからよかったものの、門閥貴族のお歴々であったなら、小隊はおろかこの基地の全員が更迭されているところだ》
ジョージック号がハーレークイン小隊によって武装占拠された件は、統合参謀本部が帝国政府を通じて、海運会社と話をつけたらしい。
また、被害総額を上回る寄付を受け取ったこともあり、海運会社は〝なかったことにしたい〟という、統合参謀本部の意向に納得したようだ。
これによって、公的にはハーレークイン小隊ならびにその指揮官であるヨハンは、幸運にも処分の沙汰を免れることができた。
ボーマン大佐から、それらのことを訓戒を交えて、数時間ほどかけて聞かされると、ヨハンはようやく解放された。
部屋に戻って、彼は花柄の悪趣味な半袖シャツと膝丈のズボンに着替えて、麦わら帽子を首からかけるとホテルのロビーに降りてきた。
「夏休みってどうすればいいの?」
ロビーにいたソフィアが訊いた。
「お前さん、まだいたのかよ――他の連中と一緒に街に出たんじゃなかったのか」
「待ってた」
「誰を?」
ソフィアは無言でヨハンを指差す。
それを受けた彼は茶化すように妖精の少女の真似をして、自分を指差す。
「……」
無言で自分を見つめてくるルビーの瞳から目を逸らして、ヨハンは言う。
「夏休みなんてのはな――ビーチのパラソルの下で、マイタイでも飲りながらヤシの木を見るふりをして、水着のプレイメイツを眺めてりゃ、あっという間に終わるもんだ」
「それだけ? 眺めて終わり?」
「メインディッシュは水着の中身の方だが、味見の前に鮮度を見たりいろいろあるんだよ」
「そう――それで、どこに行くの?」
行くあてがないのか、以後もソフィアはヨハンに同行する。
「ついてくんなよぉお」
「駄目――私はヨハンに隷属しているのだから、あなたは私を常に従えているべき」
「休暇は例外だろ!」
「そんな規約はない」
妖精族は自分の身の回りで起きた出来事を細大漏らさず、暗号化して記録していると言われている。
今回は、特別に本人から許可をもらえたため――彼女の記録に忠実に沿いたい。
十一時十二分。
私たちは乗合の牽引車で、ホテルから繁華街へ移動をはじめる。
同、二六分。
繁華街の入り口で牽引車を降りる。
心付けの相場が帝都の乗合馬車と違ったことで運転手と揉める。
運転手が手を出してきたので、拳銃で脅して追い払う。
同、時二九分。
ヨハンは目についた屋台の氷菓子を食べはじめる。
冷たくて美味しかった。
イチゴのシロップで食べて、舌が赤くなったことをからかわれた。
でも〝キティちゃんみたいな色〟とはどういう意味だろう。
きっと辞書に載っていない下品な慣用表現だと思うから、調べる気にもならない。
彼は私が残した分を食べてから、ラム酒味というのを見つけて、おかわりを頼んだ。
そしてお腹を壊した。
同、四三分。
トイレから出てくる。
同、四四分。
喫茶店に入るが、カプチーノがないことに憤慨して店を出る。
腹いせに看板を蹴飛ばしていた。
いつもの彼よりかなり大人しい対応だ。
十二時〇三分。
郷土料理の店で昼食を食べる。
妖精族用の献立がないが、帝都の外に私たちが出ることは稀なので仕方ない。
ヨハンに定食のサラダと果物を分けてもらう。
同、五五分。
店の向かいにあるカジノへ。
十三時三六分。
彼は私の選んだスロットマシンで、ジャックポットを出す。
五〇〇ポンドのチップを得る。
彼の年収の倍近い大金だ。
十三時五九分。
ホールデムの台で、ヨハンは大勝負に負ける。
五と七のスペードでストレートフラッシュを狙ったらしい。
一対一の勝負。
おそらくフルハウスを揃えている相手に、最後の一枚に期待して挑むのは無謀だと助言したのに、なぜか彼は強気に出た。
五と七のスペードが手元にあるときはオール・インで勝負に出るものらしい。
それが〝カジノ・ロワイヤル〟だそうだ。
意味がわからない。
きっとヴェスパーを呑みすぎたせいだと思う。
私も味見したが、ほろ苦い後味がいまいちだった。
十四時〇六分。
大金を失ったヨハンはカジノの向かいの通りを歩く観光客らしき女性に目をつける。
傷ついた硝子細工の心を、行きずりの美女に磨いてもらうのだという。
彼はもっと広い視野を持つべきだ。
行き交う自動車に警笛を鳴らされながら、強引に道を渡って彼女に近づこうとする。
その女性は帽子を目深に被った、サマードレスに着替えた少尉だった。
同、〇七分。
ヨハンは少尉に声をかけず、逃げるように来た道を引き返そうとする。
しかし、唐突に振り返って少尉を尾行しようと言い出す。
また彼の露悪趣味の始まりだ。
同、十五分。
街外れの断崖に近い、貴族御用達の温泉施設に少尉が入っていく。
ヨハンは何かを閃いたのか、急いでホテルに引き返す。
同、五二分。ヨハンは登攀用装具と、偵察用の装備を用意して戻ってくる。
道を下って崖下の浜辺に出ると、地図を確認してから断崖を登りはじめる。
十五時〇四分。
登頂に成功。
日頃の厳しい訓練の成果だと自賛していた。
そこで偵察用機材を設置して監視につこうとする。
というより、女湯を覗こうとしていた。
馬鹿馬鹿しい。
裸が見たいのなら少尉にそう頼めばいいのに。
同、〇九分。
巡回中の警備員に見つかって、崖から落ちる。
確保をとっていたため、大怪我には至らない。
だが、一歩間違えれば死んでいただろう。
愚かにもほどがある。
同、一二分。
浜辺に駆け下りてきた温泉施設の警備員を、潜水装備を活用して、海に潜って追跡を振り切る。
無駄に用意がいいのはいつものことだ。
同五九分。
ホテルのロビーに戻ってくる。
先に帰っていた少尉と鉢合わせる。
ヨハンの憔悴しきった様子に、少尉は心配して何があったのか訊いてくる。
なぜかはぐらかすので、彼に代わって少尉に経緯を話す。
少尉は怒って、ホテルの外までヨハンを追いかけ回した。
人間の女性は、裸を見られることに抵抗があるらしい。
奇妙なところがあるものの、彼らと一緒にいると退屈とは無縁でいられる。
だから私はこれからもヨハンのそばにいようと思う。
ハーレークイン小隊が、夏休みを満喫している頃、統合参謀本部では定例の軍議が開かれていた。
出席しているのは陸海空、並びに憲兵隊といった各軍の長官である元帥たちとその幕僚、全軍の指揮を執る統帥本部総長と次官、また軍事作戦を立案、管理する統合参謀本部議長と次官、それから彼らを補佐し、助言を与える幕僚と参謀たちだ。
また、帝国政府からも国防省や情報省といった機関から、背広を着た高官や彼らを補佐する官僚たちが席を埋めている。
まずは、懸案だったサムエルの電撃訪問が何事もなく日程を消化し、彼が帰国の途についたことが報告された。
それに伴い、帝都のホテル爆破事件が、状況から見て〝道化師たち〟による犯行が濃厚だという分析結果もあがってくる。
〝道化師たち〟については、数年前から調査委員会が設けられ、正体や規模、そしてその目的について情報収集が進められているものの、遅々として成果はあがっていなかった。
制服組と背広組と言われる、組織間においての連携がとれていないのではないかという声があがった。
その原因と責任の所在がどこにあるのか、軍議の場は紛糾したものの、ある参謀が、
「そういえば、もう片方のピエロの処遇はいかがしましょう」と強引に話題を切り替えた。
言うまでもなくハーレークイン小隊のことだ。
「当該部隊について、内部の者からの報告書があがっています」
「ああ、フォン・シメオン少尉が執筆したという」
「はい」
ミリアムの報告書は、これまでのハーレークイン小隊が作戦にどう従事してきたか、細部に渡って克明に記されていた。
彼女はハーレークイン小隊の規律の緩みや規則違反が多いことを論い、その原因が上官の不品行な言動にあるという、事実を記していた。
「まったくもって彼女に同意します――陸さんは、どうも身内に甘い」
海軍の幕僚の一人が言った。
他に居並ぶ高級将校たちも、同じ意見のようで、頷いたり互いに顔を見合わせている。
しかし、報告書の続きを読んでいくと、ミリアムはハーレークイン小隊やその指揮官とは〝劇薬だが必要悪〟だと結論づけていた。
彼女が見たところ、この部隊は平時においては軍の〝腫れ物〟に間違いないものの、戦時下や困難を極める作戦においては、必ず帝国に戦果をもたらすとも書かれていた。
「どうにも、二度目の作戦以降――フォン・シメオン少尉は、スミス大尉に丸め込まれてしまっているようですね」
「やはり、あのときに処断すればよかったのでは」
憲兵側の幕僚が言った。
彼の言う〝あのとき〟とは、おそらくスラム街でヨハンが強盗を射殺した一件だろう。
たまたま、助けたのが魔界連邦の関係者だったため、政治的な理由で放免となったものの、それがなければ彼は憲兵隊の拘置所に今も収監されていただろう。
「それは私怨では? ゼブルン卿」
現在の憲兵総監の甥に、ルートヴィヒという名の〝白金級の冒険者〟の青年がいる。
彼はハーレークイン小隊の最初の任務で救出されたのだが、その際に無礼で不当な扱いを受けたと伯父である帝都憲兵総監に相談したという噂があった。
「そのようなことはない――我々は、あくまで法に則って行動したにすぎん」
帝都憲兵総監、ゼブルン元帥はただちに否認した。
この場は彼を弾劾する場ではないため、それ以上は追求されることはなかった。
問題はあくまで、ハーレークイン小隊をこのまま継続して運用してよいのかという点だ。
小隊長を何らかの理由で解任し、後任としてより有能な青年将校を据えるか、または小隊をまるごと解散し、現在訓練中の空挺部隊を中核とした部隊を新たに編成するか、他にも案はいくつか出てくるものの、決定打に欠けていた。
「しかし、彼らの独断専行がなかった場合、サムエル殿下は例のホテルで〝道化師たち〟の手にかかったかもしれません」
「まったく、厄介な連中だ」
陸軍参謀の一人が吐き捨てるように言った。
「しかし解せないのは――政府というより、内閣からの強い要請で彼ら、というよりスミス大尉に新設の部隊を任せたことですね。彼には、それほど強い政治的な後ろ盾はないはずですが」
「いや――あの御方がおわす」
「……エフライム中将か! そうか、あの御方がスミス大尉の後見を務められていらっしゃったか」
「お気まぐれに人間の庶子を拾ってみたら――思いの外、情が湧いたのでしょうか」
ここまで成り行きを見守っていた空軍の元帥――飛竜の長老が言う。
「諸侯、それまでに――然らざれば、おひいさまへの誹謗とみなす」
「あ……」
「そんなつもりでは――非礼をお詫び申し上げる」
「謝意を受け容れよう」
帝国軍の歴史の中で、空を司る空軍は例外的に竜族が支配している。
なにしろ、人間の力や現代の技術で発明できる機械では、空を飛べたとしても飛竜のように自由自在な飛行はできなかったのだから、無理もない。
その飛竜だが、マイアに言わせると一族の中でも非力らしい。
今の時代の人間で、マイアのような地の竜が実体を顕したところを見たことがある者はいないが、竜族の長を務める彼女は、全ての竜族はもちろんとして、魔族からも畏敬を集めるほど強大で手のつけられない存在だった。
もしも古の〝神姫〟と交わした盟約がなければ、マイアは間違いなく神の一柱として、地上の半分を睥睨していただろう。
彼女が最後にその力を振るった痕跡を、北部の山脈に行くと見ることができる。
雲を突き抜けて、はるか天上の世界に連なる山脈の中で、一箇所の連峰が丸ごと平地になっている地形がある。
元々そこには、世界の最高峰が連なっていたのだが、千年前の大戦中に、巨大だが粗悪な兵器を、人間界から離れた場所で安全に〝処理〟するために、マイアが対処した結果なのだという。
その威力を高性能爆薬に換算した数値は百メガトンと推定され、その衝撃波は世界を三周したと伝説には残されている。
有史以来、これほどの大きな爆発は六十年ほど前にあった、大陸の北端に巨大隕石が飛来したときの〝神の杖〟を除けば、一度もないだろう。
〝神の杖〟は自然現象であるため、例外としても――それほどの大きな力をたった一人の意志で意のままに操れることが、なによりも問題だった。
マイアがもしもその気になれば、帝都は一撃で灰に帰ってしまうのだ。
そしてヨハンを誹謗すれば、マイアの不興をいたずらに買うことになってしまう。彼を処断するためには、法や軍規に照らして、揺るぎのない正当性が必要だった。
〝危険な任務を与えた結果、戦死報告が届く〟彼らは口にこそ出さないものの、ヨハンが将来的にそうなってくれることを期待しているようだ。
ハーレークイン小隊の処遇について、統合参謀本部に集った元帥と幕僚たちが決めかねているところに急報が届いた。
伝令によれば、緩衝地帯であり大河の中洲にある都市国家郡に属する、とある城塞都市の過激な民主共和主義者たちが突如として武装蜂起、バスチュ防衛要塞を陥落させて独立を宣言したとのことだった。
彼らは自らを〝リーベルラント解放戦線〟と名乗ったという。
対策が練られ、軍議はさらに紛糾しながら善後策を探る。
都市国家郡はすでに帝国に対して恭順の意を示しており、政治的には、帝国の属国とみなしても問題はないはずだが、大河とその沿岸が緩衝地帯に含まれているのが問題点だった。
魔界との間ではまだ具体的な講和条約が妥結しておらず、停戦合意が暫定的に維持されている。
これに基くと、帝国は武装蜂起した都市国家軍の一都市をただちに制圧したくても軍を派兵することは不可能となる。
戦争の正当化をせねば、帝国軍は大規模な軍事行動を封じられたまま、この変事に対応しなければいけなくなる。
両手を縛って目隠しをしたまま、家に不法侵入してきた強盗を捕まえるよりも困難で愚かな行為だと言える。
高度に政治的な判断を要する事態であり、軍としてはいつでも派兵に対処できるように準備を整えておくことしか、できることはないだろう。
「秘密裏に偵察部隊を送り込んでは、いかがでしょう――空挺降下を得手とする部隊に。幸いにして、我が陸軍にはそうした活動を専門にしている、遊撃小隊がおりますので」
陸軍参謀の提案が採択されるまでそれほど時間はかからなかった。
数日後。
自分たちにこれから、よりいっそう過酷な任務が命じられることになるとは知らずに、ハーレークイン小隊は夏休みを満喫していた。
休暇中、ヨハンは好き勝手にソフィアを連れ回していたのだが、事情を聞いたミリアムが〝それではいけない〟と言い出した。
「なんでだよ?」
「そもそも、これまで大尉はどこに行かれましたかっ!?」
「そりゃあ、もちろん楽しいとこに……」
答えに窮したヨハンに代わって、ソフィアが答える。
「お昼はカジノや競馬場と闘牛の見物――夜は風俗店とキャバレーとストリップ小屋と酒場を何軒か。〝アダムの失楽園〟っていう、同性愛者用のサロンが面白かった」
どこの店も、妖精族の少女を連れて行くような店ではない。
「不健全です! というか、後半にいたっては完全にセクハラではありませんか!」
「ええっ!? そんな、まるで世間知らずのおボコをエロい店に連れてって、困惑するリアクションを見たがってたなんて、そんなこと全然思ってなかったぞ」
わざとらしい口調で弁明すると、ソフィアが瞠目して言う。
「だからヨハンはずっと変な顔してたの? やっと理解した」
「とにかく! 特務准尉には、これから健全な旅行をしてもらいます! 小官が、ちゃんとした観光案内をしてご覧にいれましょう。大尉には、上官としてそれをきちんと監督していただきますから、そのおつもりで」
「マジで学級委員長じゃん……」
それから、ミリアムは手際よく貸し出し車をチャーターして、三人は保養地を巡ることになった。
「どんな羞恥プレイだよ! ピンクの空冷〝カブト虫〟って! しかもカブリオレのっ!? 保養地ならビーチバギーにしろよ――もしくは水陸両用のアレとか。こんなボロクソバーゲンに乗るのは〝ラブアンドピース〟とか宣って、たった四人しかいないバンドを乳首の真っ黒な女が引き裂くような、間抜け共を敬うキチガイだけだぜ! もしくは大麻と阿片でラリってるか」
ミリアムが用意した貸し出し車が気に入らないヨハンが喚いていた。
車体の後部でエンジンが空冷特有の乾いた音を立てて暖気をしていると、運転席にいるミリアムに促され、ソフィアに耳を引っ張られ、彼は渋々ながら貸し出し車に乗り込んだ。
「今でこそ、この保養地は貴族や中産階級の人々が余暇を過ごす観光地として知られていますが――元々は大聖堂を中心にそれを擁する寺院と信徒たちによる開拓地でした。また、中世期以降は海運の要所として、近代に入ってロコナード海軍基地が建設されて以降は、海軍の最重要拠点という側面も持ち合わせるようになり……」
貸し出し車は保養地というより、南部では定番の屋根を覆う幌を開閉できる造りとなっていた。
ステアリングを操りながら、ミリアムはツアーの添乗員のように保養地の成り立ちについて講釈を続けている。
ソフィアは興味深そうに聞いていたが、助手席のヨハンは、
「ギブアップ!」と言って、走っている車から飛び降りようとする。
そのたびにミリアムに捕まり〝もうすぐ着く〟と彼女に宥められることを、飽きもせずに三たび繰り返したところで、大聖堂に到着した。
「本日はこちらにお勤めの司祭様から、保養地の詳しい歴史について伺えるよう、話を通しておきました」
ミリアムは副官として非常に有能で、先陣を切る古式ゆかしい騎士の側面と、英才教育の賜である現代的な参謀としての能力を併せ持っている。
弱冠一七歳でこれほどの手腕を振るう彼女なら、いずれは将軍やそれ以上の地位に就いてもおかしくはない。
ヨハンは司祭からの自己紹介もそこそこに、隙をみて逃げ出そうとした。
ソフィアには先回りをされ、引き返せば殺気をたたえたミリアムが待ち構えている。
「あれほしい」
妖精の少女が指差す方を見ると、自由研究で訪れている子どもたちが大聖堂の石版をカーボン紙を使って、拓本にしている。
「あんなもん、売店で経典の縮刷版を買えば済むだろ」
「ほしい」
ソフィアがこんなふうに物をねだることは初めてだった。
「では、大尉にお任せします――小官たちは、その間に司祭様に聖堂の中をご案内をいただいてきますので」
こうして、ヨハンは〝坊主の説教よりマシ〟という理由で、大聖堂の中にある石版の拓本を写し取る作業を任されることになった。
石版の大きさは、縦に十六フィート、横に九フィートはある。
「ちなみに、当院は全部で九九枚の聖典の写本が所蔵しております」
「は……?」
こうして、ヨハンは丸一日近くを拓本とりに費やす羽目になった。
「おいガキども――小遣いやるから、あっちの拓本もとってこい! 一人あたま一シリング出すぞ! 一番早いやつには十シリング出してやる! 行け!」
彼は迷わず、修学旅行に来ていた寄宿学校の生徒を買収することにした。
それをミリアムに見つかり、引率の教師に彼女が詫びる間も、ヨハンは汗を流して拓本をとっていた。
「そろそろ帰る?」
戻ってきたソフィアが、彼の額から滴る汗を拭きながら訊いた。
「お前さんが欲しいって言ったんだろ」
「ん――言った。でも、今日で全部を写す必要はない」
「また次の休みに来るなんて、ごめんだ――いまやっちまおうぜ」
「なら手伝う」
ソフィアはそう言って、人間用の道具の上に立って紙の上を滑らすようにして石版を写しはじめた。
それを一瞥して、
「お、今日は黒のレースじゃん――保養地の開放的な気分に毒されたか?」とヨハンは言った。
「最低です! 大尉」
ミリアムも上官を手伝おうとして屈んだが、しかしヨハンの前で無防備な姿勢をとることを危惧したのか、慌てて立ち上がった。
「あの――恐縮ですが、間もなく閉館時間でして。それから、どうか聖堂ではご静粛に願います」
「おや――両手に花とは羨ましい限りですな」
「綺麗どころに見えて、片方は毒、もう片方は棘がキツいがな」
ホテルのロビーに三人が戻ってくると、象牙色の綿地のサマースーツを身に着けて、淡い青の開襟シャツを身に着けたシニアがバーカウンターにいた。
隣の椅子には、品のいいツバの短い帽子が置いてある。
「俺にも小便をくれよ――お前さんたちもなにか飲んどけ」
シニアが頷いて指を鳴らすとバーマンを呼んだ。
「小瓶の冷たいところを二本と、レモネードのモヒート、氷はフローズンで――それから杏のシロップ漬けがありますよね? 発泡ワインで割ったものを妖精用のグラスにお願いします」
シニアは外から戻ってきたばかりの上官たちのために、彼らの好みに忠実な飲み物を注文した。
「お前さんのが一番贅沢だぜ」
ヨハンはカウンターに背中でもたれかかりながら、妖精族用のグラスを両手で抱えるソフィアに耳打ちした。
「どうして?」
「発泡ワインってのは、封を切っちゃったらもう終わりなんだよ――つまり、それで一杯カクテルを頼むってのは、ボトルを丸ごと注文するのと変わらねえんだ」
「お金かかる? 私、お財布は持ち歩いてない」
「ホテルからのサービスですよ――特務准尉、ご心配なく。さあ、少尉もご遠慮なさらずにどうぞ」
「頂くが――これはアルコールは?」
「入っておりません――では、休暇の終わりと新たな任務の受領にスランジバール。ご唱和は無用です」
シニアはそう言って、ヨハンに頼んだビールの小瓶と同じものを掲げてみせた。
喉を潤すと、
「夕食をご一緒にいかがですか」とシニアが提案した。
指定されたのは、ホテルの中にあるレストランで、ドレスコードを守る必要があった。
「いいやこれで」
ヨハンはサムエルを護衛するときに着ていた礼服に袖を通した。
同じ考えだったのか、同じフロアに部屋をとっているミリアムと廊下で出会ったが、彼女も礼服ではないものの帝国陸軍の制服を身に着けていた。
いつの間にか基地から送ってもらったのかと聞けば、どのような任務に就いても対応できるように、制服も持ち込んでいたらしい。
「あのサマードレスもか?」
「あれは、その――ジョージック号で調達しました」
「どこのお嬢様かと思ったぜ」
「はいはい――特務准尉に聞きました。最初は、小官を観光客かと思って、声をかけようとしていたと」
「よく言うだろ――美人には二種類あるって。近くで見ても別嬪なのと、五十ヤード離れたところから眺めてた方がいいのとって」
「どういう意味ですかっ!?」
ミリアムが詰問してくると、ヨハンは降参するように両手をあげて下がった。
「だって律儀に武装してんじゃん――今だって腰に短銃身のぶらさげてるし。どんな隠し方したって、俺はお前さんの上から下までみんな知ってんだから、一目瞭然ってこった」
「いいかげん、懲りてください――そんなことより、タイをちゃんと締めてくださいませ」
そう指摘されたヨハンは、エレベータの磨き込まれた真鍮の支柱を鏡の代わりにして言う。
「結んだぞ?」
しかし、ミリアムは首を振った。
「結び目の形が違います――礼服のときは、ウィンザーノットでディンプルを深くするのが、正しい将校の着こなしです――ああ、もう。動かないでくださいませ」
ミリアムはヨハンのタイをほどいて、手早く結び直した。
「次からはご自分で仕度をなさってくださいね」
「へいへい」
エレベータから二人が降りると、シニアたちが待っていた。
ソフィアはいつもの服装だったが民族衣装ということで、支配人に話を通したらしい。
「パンツ丸出しも民族衣装に入るのかよ――それとも色が清楚なら認められんのか?」
「白だから大丈夫ってこと?」
「やっぱ白だったか――レースか?」
「ん」
「特務少尉っ! 大尉の誘導に引っかからない」
「席のご用意は出来ているそうですから、中に入りましょう」
シニアもまた着替えていたが、今度は明るい紺のモヘアで、靴は保養地によく合う、白い紐の茶のデッキシューズを履いていた。
クリーム色のシャツに無地のタイを結び、襟には金属の支柱を通してあった――タイの結び目を立体的にみせるピンホールカラーと呼ばれるものだ。
「他の連中はどうしてる?」
ヨハンはテーブルの上座に案内されると、シニアに訊いた。
「は――多少の揉め事はあったようですが、問題はないとメイソン、ローガン両名から報告を受けています」
衝立に仕切られたテーブル席に小隊の幹部たちが集って、食事会が始まった。
献立は保養地らしく、古典的なフルコースのアレンジで、最初はアミューズから始まった。
食前酒はヨハンとシニアが発泡ワイン、ソフィアはシニアの勧めでベリーニ、ミリアムは炭酸水を頼んだ。
ソムリエがワインリストを持ってきた。
ホストを務めるシニアが、
「主菜は仔牛とのことですが、ソースの強さもありますし――モンラッシュの白ではいかがでしょう」とソムリエに提案した。
「大変に結構な選択かと」
ソムリエにしては珍しく、あまり薀蓄を垂れないワインの専門家は瞬いて、シニアに同意した。
そのまま前菜、スープ、魚料理、口直し、肉料理と続き、順調に食事が進んでいく。
保養地ではあるが、大聖堂のある寺院の関係者も利用する店ということもあり、菜食主義者用の献立にも対応しているとのことだった。
そのため、肉類を口にしないソフィアには、肉の代わりにグルテンミートを使ったものが用意された。
「この夏休みで意外なものをひとつ見つけた」
ソフィアが言った。
「なんだそれ」
「ヨハンの食べ方が綺麗だったこと」
妖精の少女が指摘したとおり、ヨハンは魚の骨を丁寧に避けてフォークとナイフを器用に使っていたし、この手のことに厳しいはずのミリアムから見ても、作法にきちんと則っていた。
普段の粗野で野蛮な言動とは裏腹に、こういった部分だけを見れば、彼はれっきとした貴族だった。
デザートを選ぶ段階になって、ヨハンは菓子よりもカプチーノを望み、シニアはコーヒーとウイスキーのカクテルを、ミリアムとソフィアはそれぞれに好みの菓子と紅茶を頼んでいた。
「そりゃあ、もう――ババアには嫌ってほど仕込まれたからな。食い散らかすと、物凄い怒るんだぜ。〝妾が丹精こめた手料理を粗末にしてはならぬ〟とかなんとか」
ミリアムはマイアに叱られるヨハンの絵面が目に浮かんで失笑を漏らした。
こうして、夏休みの最後の夜を彼らは平穏に過ごした。