第10話 ハイジャックのチケットは片道切符
――サムエルは無事だったが、彼を安全に帰国させるためには与えられた作戦に従っていては不可能だとヨハンは判断する。そこで彼が目をつけたのは、港で出港を待っている豪華客船、ジョージック号だった。彼はそれを正規の手続きを端折って徴発しようとするが、一般的にそれは「ハイジャック」と呼ばれる行為だった。
話は少し遡る。
「ひどいよ――僕だけ仲間はずれなんて」
夕食のケータリングが届くと、安宿の部屋にサムエルは閉じ込められた。
ミリアムとソフィア、それからシニアといった小隊の幹部と先任下士官である、一等軍曹のローガンとメイソンを別室に集めるなり、
「いま、港にジョージック号ってデカい客船が来てるだろ?」とヨハンは訊いた。
「新聞で見ました」
メイソンが頷いた。
「あれを徴発して――クロンボのガキとお供を連れて、領海を出る。やれるか? 大きい方のクロンボ。上手くいったら、スイカとフライドチキン以外のまともな食い物にありつけるぜ」
挑発的に言われたメイソンは白い歯を見せた。
「ぜひ大盛りでお願いしますよ、大尉」
「ローガン、お前さんはほうれん草の缶詰しか食ったことがない水兵どもに、本物の筋肉ってやつを見せつけてやれ」
「合点です、大尉」
「お待ち下さい」
ミリアムが割り込んだ――彼女は仲間たちからの注目を集めると、
「ジョージック号の徴発を行うとの、大尉のご意向ですが――どのような法的根拠を元に、決行されるのですか?」としごく真っ当なことを訊いた。
もっとも、ハーレークイン小隊の副官を務めしばらく経つ彼女も、次第にやり方に慣れつつあるため、回答にはなんとなく察しがついているようだった。
「法的根拠……?」
案の定、ヨハンはそんな言葉は初めて耳にしたような反応だ。
「辞書が欲しい?」
ソフィアが辛辣に訊くと、緊張感のうすい一等軍曹たちが失笑を漏らした。
「……」
彼らはシニアに一瞥されると威儀を正す。
「上級曹長、大尉にご説明を――簡潔に」
仕切り直すようにミリアムが促したが、語尾にはやや棘が残っていた。
「申し上げます――少尉殿が仰った通り、民間船舶を軍が徴用するためには、いくつかの法的手続きに則る必要があります。通常は、統合参謀本部が帝国政府に許可を求め、帝国政府の承認が降り次第、関係各省に通達が降り、実務担当者同士と実際に乗り込む部隊の指揮官や、当該船舶の甲板部士官との連携を密にするものです。つまり、今日の今日にジョージック号に出向いて徴発することは不可能です」
「どうするの? ヨハン」
ソフィアが訊いた。
「手続きは全部端折る――書類の代わりに銃を使ってな。従って、法的根拠も許可も求めない」
妖精の少女は小さな頭を傾けて、
「つまり?」とヨハンに明快な回答を促した。
「ハイジャックだ」
「ああ、もうっ――あなたという人は、またそんなことを……」
こうして、またしてもミリアムは苦労を抱え込むことになった。
「陛下、なにをしておいでか?」
マイアが後宮の奥の院を訪れると〝神姫〟ヴィクトリアは自室に大量の新聞を集めていた。
それは、帝国が発行している各社のもので、それぞれ三部ずつを宮内尚書に命じて揃えさせたものである。
ヴィクトリアは九六代に渡って連綿と古の血を継ぐ〝神姫〟のなかでも、かなり質素な倹約家で知られており、自ら何かを欲することは滅多にない。
その〝神姫〟がなぜ夕刊紙のタブロイド判まで含めて頼んだのか、彼女とヨハンの関係を知っている、数少ない帝国政府の重鎮はなんとなく察したものの〝なぜ三部なのか〟については、理解していないようだった。
ヴィクトリアはマイアに尋ねられるまで、黙々と新聞の記事と写真を切り抜いていた。
「小母様――ご覧になりまして? ついに、お兄様が新聞を飾りましたの」
「うむ」
マイアは困惑しつつも頷いた。
「いま、お兄様のお写真と記事を集めています――保存用と観賞用と実用で、三つほど制作しなければならないから、ヴィクトリアはとてもやりがいを感じています」
「さようであるか――ところで陛下、坊やがまたもやんちゃをしたようでございまする」
マイアは先ほど統合参謀本部からの急報を受け取った。
豪華客船、ジョージック号が、何者かに武装占拠されたという一報と、客船からの救難信号で〝武装集団が自らをハーレークイン小隊だと名乗った〟という情報も未確認ながらあがっている――と彼女は急報の内容をヴィクトリアに告げた。
ホテルの爆破の件といい、昨夜からは帝都を騒がせる変事が相次いでいるが、その爆心地にはいつもヨハンがいるようだ。
「よって妾はしばらく、統合参謀本部に詰めるとしよう――おそらく、坊やが泣きついてくるじゃろうて」
「小母様のよきように」
客船、ジョージック号は全長九〇〇フィート、総トン数は四六〇〇〇トンを数え、二基のレシプロエンジンと巨大な蒸気タービンが生み出す総出力は、五万馬力という帝国海軍の巡洋艦を大きく凌ぐ出力を誇り、巡航速度は二〇ノットにも達する。
帝国はもちろん、世界でも有数の豪華客船で旅客定員は一五〇〇人以上、運行にあたる乗組員は総勢五〇〇人を数える、巨大な海に浮かぶひとつの街だった。
船の大きさに対して、旅客定員が少ないのは、この船が富裕層や中産階級を快適に保養地や、南洋の島々を巡るために、客室などを広く造ったためだと言われている。
サムエルの電撃訪問の警備のため、出港が延期されており、乗客はまだ乗り込んでおらず、乗組員の大半も下船していたらしい。
そのため現在は船の保守と出港の準備のために、僅かな人間しか船にはいないはずだ。
「船長以下、甲板部士官は九人、乗員は十五人――こいつらは殺すなよ。それ以外は、交戦規定に則って容赦するな。心配しなくても、バカでかい保険会社に海運会社は大金を払ってる。一発でも撃ってきたら、眉間に教訓を垂れてやれ。港湾を警備しているのは海軍の連中だから、適当に対処しろ」
ヨハンは部下を安宿の食堂に集めると、これから何を行うか簡潔に伝えていく。
「シニアと少尉が仕切る突入班、アルファとブラボーが船尾から乗り込む――艦橋を制圧次第、俺たちデルタと〝エンジェル〟が乗船、すぐに出港。質問は? ないな。それじゃ状況開始だ、お嬢さんたち」
ヨハンは今回のジョージック号乗っ取りを、サムエルの護衛を命じられたときから、密かに準備をしていたらしい。
寡兵で大軍と渡り合う戦術のひとつに〝ゲリラ〟というものがある。
不規則に行動し、神出鬼没な活動をもって時間を稼いだり、敵を混乱させるための戦術だが――ヨハンはこれを、サムエルの護衛にあたって活用していた。
堅固な帝都のホテルから、密かに安宿へ彼を移送したのも、その観点からだった。
また、統合参謀本部の立てた警備情報は、サムエルを狙う暗殺グループに漏れているとヨハンは確信しているようだった。
もっとも軍議の席上では、ヨハンの根拠のない主張と、日頃の言動のせいでメイ中佐はもとより、諸将の賛同はまったく得られなかった。
案の定、統合参謀本部は予定通り列車での壮麗な壮行を行うと通達してきたものの、ヨハンは、
〝それを逆手にとって、敵さんに対する陽動に利用すればいい〟と言った。
警備計画を立てる軍議の場で、メイ中佐に発言を禁じられるまで無駄口と罵詈雑言をまくし立てたときから、全てが今回の独断専行を行うための布石だったらしい。
古典的な兵法の選集に〝敵を欺くにはまず味方から〟というものがあるが、まさしくヨハンのためにあるような言葉だった。
「状況報告を頼む」
サムエルを連れたヨハンが、艦橋の下の階にある士官用の食堂でシニアとミリアムに訊いた。
「さきほど、上級曹長が申しました通り――こちらには被害はありません。ただし、乗員の中に犠牲者が出ました。交戦規定に則って対処した結果です」
ミリアムは民間人の被害が出たことに、見るからに憮然としており半ばヨハンを責めるような棘のある口調で言った。
騎士の家に生まれ育った、彼女の生真面目で誠実な人柄を考えれば無理もない。
隣のシニアが補足する。
「武装警備員です――大尉、彼らがブラボー分隊を待ち伏せして釘付けにしていたため、アルファが横槍を入れて殲滅しました」
それを聞いた指揮官は全てを理解したように、
「ああ、傭兵か」と頷いた。
ヨハンは周囲を見回して、部屋の隅に並べてある数人の死体と、その横にある壁の大きな穴を見た。
これらの様子と部下の報告で、彼は何が起きたのかおおよそ把握できたようだ。
艦橋を制圧するために、ミリアムが指揮するブラボーとシニアが率いるアルファは、交互に前進と援護をしながら、船内を進んでいた。
ミリアムたちが食堂に踏み込んだところ、ジョージック号の運営会社が警備を委託している傭兵派遣会社から出向していた警護員と、彼らに従う数人の乗組員が待ち構えていた。
後続のシニアたちは、迂回して壁を爆破――奇襲を仕掛けてミリアムたちの窮地を救った。
「よくやった――みんなにもそう言っておいてくれ。ブラボーチームとお前さんは先に休んでろ」
ヨハンはミリアムに言った。
「……はい」
「死体は早めに片付けよう――霊安室かなにかあるだろ? なかったら、適当な冷蔵庫に突っ込むか、海から投棄するしかないが。とりあえず、状況終了ってことで解散。シニア、ブリッジに案内を頼む」
「はっ」
ヨハンは食堂にミリアムを残して、シニアとともに狭い通路の階段を上がっていく。
「……君が主犯か」
船長を務めるヒル氏はこの時六二歳で、帝国海軍の士官学校を出て、五五歳で掃海艦の艦長を最後に少将に昇進して退役した人物だった。
以後、海運会社に籍を移し、ジョージック号の艦長に五年前に就任した。
ヨハンの年齢の倍近くを海で生きてきた男は、首謀者の若さに驚きを隠せないようだった。
「これから、あんたらの拘束を解くが――指示に従ってもらうのが条件だ」
「よかろう」
ヨハンが頷くと、目出し帽を被った部下たちがヒル艦長をはじめとした、甲板部士官や乗組員を縛っている樹脂の結束バンドを切っていく。
「君たちは何者だ? 目的はなんだね?」
ヒル船長はヨハンに訊いた。
「帝国陸軍第九九連隊直属の第一小隊、俺は指揮官のスミス大尉だ――この船を占拠した目的は、ある場所にある人物を護送するためだ」
ヒル船長は上着のポケットからパイプを取り出した。
「まさか正規軍とは――君たちは同胞の船をハイジャックしたのだぞ、わかっているのか? これがどれだけ重罪か。一体、誰がこんな暴挙の許可を出したのだね?」
「責任者はあくまで俺だよ、船長――うちの隊はちょっと変わってて、いったん任務を受領すると、独断専行で動かざるを得ないんだ。説明すると長くなるんだが」
ヨハンは背後に控えているシニアを振り返った。
「上級曹長、ブリッジに〝エンジェル〟をお連れしろ」
しばらくして部下に護衛されたサムエルが艦橋に現れた。
「やあ、どうも」
「……あなたが彼らを?」
サムエルに向かってヒル船長は訊いた。
魔界の王太子は、
「いやいや――僕はお荷物だよ」と言った。
「ヒル船長――こちらはサムエル殿下。魔界連邦現宗主国の、王太子殿下であらせられます」
シニアにそう紹介されるとヒル船長は瞠目した。
彼は艦長席のわきに置いてある、昨夜の夕刊を一瞥した。
おそらく、そこの一面にはサムエルの電撃訪問の記事が載っているのだろう。
また、社会面までページをめくれば、彼の直衛としてヨハンの写真も見つけられるはずだ。
「要求は殿下御自ら行う――どうぞ」
ヨハンに促されて、サムエルは前に進み出た。
「乗船を許可願えるかな? 僕と僕の連れが二人、それと彼らは合わせて三十人だ――そして、ただちに外洋に向けて出港してもらいたい。目的は僕の国外脱出だ」
しばらくして、ヒル船長は伝声管を通じて、機関室にエンジンを始動するように命令を発した。
そして数時間後、ハーレークイン小隊に武装占拠されたジョージック号は、汽笛を鳴らして出港した。
港湾局の哨戒艇や帝国海軍の沿岸警備艇は、その快速にことごとく追いつけず、飛竜の戦闘行動半径を突破して以降、彼らの足取りは途絶えてしまう。
その直前になって、ヨハンはジョージック号の通信担当士官、スチュアートに言う。
「上の飛竜に打電を頼む――〝エンジェルはハーレークインとともにあり〟って」
「……はい」
スチュアートが信号を送ると、ヨハンは肩の上に立つソフィアを見た。
「確認した――でも、彼は同時に救難信号と、私たちの人数、この船の状況を知らせていた」
「スチュアート! 余計なことはするな!」
ヒル船長がしわがれた声を張って、ヨハンたちに向き直った。
「部下の不始末をお詫びします、大尉――しかし、彼は船の運行には欠かせない人材です。この場はどうか収めてもらえますか?」
ヒル船長は、ヨハンたちから求められたこと以外の行動をした場合、当事者や自分たちに危害をくわえられることを危惧していたのだろう。
「ん? ああ、いいって――船長。俺たちはこの船を動かしてもらいたいだけだし、あんたらの方から言った方が、軍も情報を信頼しやすいだろう。うちの部隊から通信してもよかったんだが、なぜか信用されないことが多くてな」
彼は白々しく言って、ポケットから細巻きを取り出して火をつけた。
ヒル船長は落ち着きを取り戻して言う。
「大尉にいま一度確認をします――南洋から大河を遡上し、魔界連邦側の領海に、とのことでしたが二つ問題があります」
「問題?」
ヨハンが訊くと、ヒル船長は席から降りて、海図の前に案内した。
「補給が必要です――今回の航海計画では、南洋の保養地を経由して、そこであらためて物資や燃料を補給し、外洋の島々を巡る予定でした。物資は、我々だけとなれば充分でしょうが、航続距離を考えますと、このままでは大河の途上で重油が尽きてしまいます。ましてや、往復など不可能です」
「おそらく、小官もそうなるかと――いえ、船舶については門外漢ですが。洋上ならばまだしも、大河での立ち往生は憂慮すべき事態です」
この場の人間で、ヒル船長ともっとも年齢が近いシニアが言った。
「往復航行が可能な範囲はどこまでかな?」
やりとりを見守っていた、サムエルが訊いた。
「おそらくは、この保養地の南西――約五〇〇海里が限度かと。到着までは二週間を要します」
「なら、そこに迎えに来てもらうよ――友人にね」
「は? お前さんにそんなのいるのかよ?」
「失敬な――あの英雄サムソンだって、僕のよき友だよ」
「そいつペリシテ人絶対殺すマンじゃねえか――そんな物騒なやつに迎えに来られて、たまるかよ」
「おさげを解いてあげれば、大人しくなるよ――覚えておきたまえ」
「いっそ丸刈りにしちまえ」
「そんな可哀想なことをしては駄目だ」
周囲からの呆気にとられる視線を気にせず、ヨハンとサムエルは雑談に興じているが、
「お二人とも、そこまでに」とシニアに窘められた。
サムエルはヒル船長に向き直って訊く。
「……それで、もうひとつの問題とは? おそらく補償の件かな?」
「は――殿下のご明察の通りです」
ヒル船長は頷いた。
そして、彼は元々この船に乗り込む予定だった乗客のうち、すでに代金を支払っている人たちに返金すること、またジョージック号を運用するために必要な費用と経費、さらには犠牲になった一部の乗組員の遺族に対する補償について、具体的な金額を交えて話していく。
「……以上で、総額は概算で四三五万ポンドになるかと」
「……? シリングだといくらだ?」
ヨハンは肩の上に立つ妖精の少女に小声で訊いた。
「約八七〇〇万」
「八七〇〇万っ!?」
ヨハンは声をあげて驚いたが、無理もない。
一般的な軍の兵や下士官の給金は、年額にしておよそ二千から三千シリングで、これは民間に勤めている正規雇用の額面上の平均給与を少し下回るくらいだ。
ヨハンの階級である、帝国陸軍大尉の基本給与が四千シリングに届かない程度だと考えると、天文学的な請求だった。
大金持ちの貴族の大豪邸と夏用と冬用の別邸を全て売り払って、同じ金額の借金をしても届かない額だった。
「……」
ヨハンは人生でもっとも早く頭の血の巡りを刺激して、どうやって踏み倒すべきか悪知恵を働かせていたが、
「妥当な要求と金額」とソフィアが言った。
「馬鹿――払えるわけないだろ」
「軍が賠償すればいい――これは軍事作戦なのだから」
妖精の少女は他人事のように言った。
「ちょっと待ちたまえ――よく考えたら、おかしくないかね」
唐突に、サムエルが割り込んできた。
「ハイジャックをした犯人に、どうして被害者が大金を要求しているんだい? 普通は逆だよね。こう、要人を盾にして身代金をせびるとか」
そう言う魔界の王太子を見ていたヨハンの目が細くなっていく。
「コイツを人質に魔界から金をとろうぜ――王子の身代金なら、一億くらいふんだくれるだろ」
「桁が三つ違うよ――僕は自分を安売りしたことなんかないからね。けど、筋を通したいなら、船長の要求は君たち帝国側が補償すべきだ」
「正論」
ソフィアが結論を突きつけた。
補償の問題は依然として解決策がないものの、なにはともあれ今後の方針が決まり、作戦の日程と状況の変更を小隊に伝えることになった。
「兵たちには小官が伝えに行きます――大尉、少尉殿の方をお願いできますかな? それから、お疲れのご様子でしたから、なにか差し入れをお持ちしたらよろしいかと」
「あ、ああ」
「僕は部屋で休ませてもらうよ――そろそろ、まともなベッドで寝たいからね。食事はさっきの食堂でいいのかな。では、失礼。部下たちに状況を教えてくるよ」
「私はお風呂に入りたい」
サムエルとソフィアが、口々に言って、艦橋を出ていく。
「いや、待て――お前ら、勝手に動くな。はぁ……」
ヨハンは嘆息して、食堂に寄り道をしてから、ミリアムに割り当てた客室を訪ねることにした。
一等客室は、貴賓用の特別客室といった例外を除いて、ジョージック号の中でも最も豪華な造りだった。
シニアの采配で、士官であるヨハンとミリアムにはこれらが居室として割り当てられた。
とはいえ、部屋こそ豪華だったものの、サービスに従事する乗員がいないこの船にあっては、あまり意味のないものだ。
強いていうなら、キングサイズのベッドと枕やマットレスの柔らかさ、それらを包む清潔なシーツがあることが救いで、ここ数日の激務で蓄積した疲労もあり、ミリアムは一瞬にして眠りに落ちた。
「……」
少し目を閉じて休んだつもりだったが、うっかり熟睡してしまったようだ。
彼女が目をこすりながら身体を起こして、昨日から着たままの野戦服に顔をしかめながら袖を通すと、扉が控えめに叩かれた。
「入るがいい」
「失礼しまーす」
そう言って、ヨハンが銀盆に蓋をしたものを乗せたワゴンを押して、訪ねてきた。
「大尉っ!? 失礼をお許しください」
「ん? ああ、いいってことよ――それより、腹減っただろ? 豪華な朝飯を持ってきてやったぜ」
彼はそう言って、銀盆の蓋を開けてみた。
「……豪華って――携帯口糧じゃないですか」
真っ白な陶器の皿と銀器に囲まれた〝朝食〟は陸軍で支給されている、軍用携帯口糧を盛り付けただけの代物だった。
帝国陸軍で支給される糧食には大きく分けて三つの種類がある。
前線の後方や、駐屯地で生鮮食品等を現地で調理する通常の食事――これに関しては士官である将校たちと、兵士の間では明確な格差があるし、調理師の腕による差が最も顕れるものだった。
もう一つは、作戦中の部隊が簡易調理によって自力で摂取できるように加工されたもの――十年間に及んだ大戦の渦中で、従来の重い缶詰から、近年ではアルミを蒸着させた真空保存のレトルト食品に置換えが進んでいる。
献立は全部で二一種あり、理論上は一週間の間は毎食違うものを喫食できるように配慮がなされている。
しかし、兵士たちの評判はといえばあまり芳しくはない。
彼らの注文は、献立を考えた人間の苦労など思慮外で、とにかく単純であり〝豆より肉を食わせろ〟だったり〝塩をもっと多くしろ〟といった、健康に悪そうな注文ばかりつけてくる。
最後は非常食で、これは無加工でそのまま食べられるように作られた、甘い焼き菓子のようなものだった。
これは味だけの評判は悪くないが、保存と効率のために極限まで水分を飛ばして焼き硬めているため、一説には釘を打つ工具の代わりにされたり、積み上げて車両の整備に利用されたりといった具合に活用されている。
間違ってそれを噛んだ新兵は、全員が軍医の治療を受けることになる。
ヨハンが調理してきたのは、湯を沸かすだけで食べられるレトルト品に、細かく砕いた非常食のビスケットに牛乳を注いだものだった。
「だって、料理なんかしたことねえもん――家にいた頃はババアが作ってるのを見てたけど」
「っ!?」
ミリアムは驚きを隠せなかった。
侯爵であるマイアが、ヨハンのために手料理を振る舞っていたというのだから、無理もない。
ミリアムの母親も貴族の出自だが、母親が厨房に入ったところは一度も見たことがなかったし、貴族社会ではそれが当たり前だ。
「しかし、どうして」
「まあ、聞けって――柄じゃないけど、これからお説教をするんだから」
ヨハンは副官の歯切れの悪い疑問を聞き流しながら、ピッチャーからオレンジジュースをグラスに注ぐ。
「なあ――〝忘れろ〟とは言わないけどさ、お前さんはちょっと心得違いってやつを、してやしないか?」
この貴族らしさのかけらもない上官は、前置きを省いて本題から切り込んできた。
彼が何の話をしているか、ミリアムはすぐに理解した。
「そうは思いません、大尉――小官が未熟だったが故に、民間人に被害を出してしまいました。その責任を痛感することの、なにが〝心得違い〟なのですか」
「帝国軍規第九六条だっけ? 指揮官は部下の行動に責任を持つってアレ――な? お前さんやシニアがやったことに対して、責めを受けるべきなのは俺だけなんだよ」
実に珍しいことだが、このときのヨハンの物言いは正論だった。
それを聞いたミリアムは目を伏せて言う。
「軍規の上では仰る通りですね」
「だろ? だからあ、俺のせいにしろって言ってんじゃん――それに、もし撃たなきゃ部下の誰かが弾を喰らってたかもしれないんだぜ。それでいいのか? お前さんの騎士道精神は部下の命よりも大事なのか? もしも誰かがお前さんを狙ってるのを俺が見たら、必ずそいつをぶっ殺す。相手がガキだろうが女だろうが年寄りだろうが、容赦しねえ。胸に二発、眉間に一発ずつ撃ち込むぜ」
ミリアムはもう一度〝朝食〟と、上官を見比べるようにした。
部下の顔つきが、軍人以外の別のなにかになっていることに、まったく気づいていない朴念仁の上官は、その間に、今後の予定に少々の変更が加えられることや、ヒル船長から聞かされた途轍もない補償金の話をした。
ミリアムは額面を聞いて、危うく飲み物を吹き出しそうになった。
「一体、どうやって払うんですかっ!? そんな大金」
「うーん……」
「そもそも、ハイジャックだというのに、どうして船長に身分を明かしてしまったんですかっ!?」
「あ! やっべ!」
「まったくもう」
ミリアムは会見の場に同席しなかったため、ヒル船長の手元に新聞があったことを知らなかった。
彼女が指摘したように、仮に身分を名乗らなくとも、写真や記事を見ればヨハンをはじめとしたハーレークイン小隊の身元はすぐに明らかとなっただろう。
「ところで、お前さんの実家というか、お屋敷は資産価値って高いんだっけ?」
「ちょっと、大尉! そんなの父上がお許しになるわけありませんから! というか、うちの屋敷と別邸を全部処分しても、全然足りません!」
ヨハンは腹案でもあるのか能天気に言う。
「まあ、なんとかなるだろ? いざとなったら、マジであのクロンボを誘拐しようぜ。本人いわく、一〇〇〇億くらいの身代金はとれるらしいから」
はたして彼がどこまで本気でそう思っているかわからないが、ミリアムは首を振った。
彼女は嘆息してから、上官に諫言する。
「それこそ、戦争の火種になってしまいます! なんのために、私たちが命がけで殿下をお守りしてきたのかお忘れですかっ!? 今までは、殿下の御身を第一にするため従ってきましたが、今日という今日は聞いていただきます」
「えー、だって」
「いつもの〝だって〟は駄目です――逃しませんよ。そこにお直りください」
「……はい」
しばらく、寝起きから血圧の高そうなミリアムの説教は続いた。
「……それからもう一点」
「まだあるのかよ!」
「料理の腕前も、射撃と同じくらいに上達してください――せめて、落ち込んでいる婦女子を元気づけられるくらいには」
それから二週間、航海は順調に進んだ。
その間、暇を見つけてはミリアムはヨハンに包丁の持ち方の基礎から教えていた。
彼女は貴族の令嬢ではあったものの、自給自足を旨とする帝国でも最も戒律の厳しい全寮制の修道院で教育を受けていたため、料理の腕前は玄人裸足といえるほどの持ち主だった。
彼女の意外な特技は、屈強な下士官たちの胃袋と心を鷲掴みにした。
また、ソフィアはソフィアで肉類を口にできない自分のために、わざわざ別の献立を用意するミリアムに、明らかな好意を寄せるようになっていく。
そしてヨハンはといえば小隊の長だというのに、彼はこの航海の間、ひたすら芋の皮むきや魚の鱗取りといった雑用にこき使われ続けたのだった。
「一昨日の芋のガレットが美味しかった」
「あーあれな――死ぬほど短冊切りをやった甲斐があったわ」
船尾甲板のデッキで、プールを眺めながらヨハンは細巻きを吹かしていた。
彼らの視線の先で、野戦服を身に着けた部下たちはシニアに水泳の訓練でしごかれている。
航海の間、ヨハンたちはジョージック号の設備を拝借して、身体が鈍らないように、班ごとに分かれて訓練を兼ねた哨戒、休憩に就いている。
「おっといかん、時間だ」
「時間? なんの?」
「この時間に、いつも少尉がシャワーを使うんだ――万が一の万が一の敵襲に備えて、お嬢ちゃんの監視につかなきゃならん」
「そう……」
ソフィアがルビーの瞳を冷たくしている横で、慌ただしく指揮官はわざとらしい武装で歩哨の体裁を整えて共同バスルームに駆け込んでいく。
そして例によって、ミリアムに叩き出された。
「人間は学習能力が低い」
妖精の少女の辛辣な感想は誰も聞いていなかった。
ジョージック号が指定の座標に近づき、
「この辺でいいと思うよ」とサムエルが言った。
ヒル船長が停船を命じると、ジョージック号はしばらくして洋上で止まり、錨をその場で下ろすことになった。
デッキでヨハンたちが整列して待っていると、遠くで白波が立った。
最初はクジラか何かかと思えたのだが〝時期ではない〟とソフィアが指摘したところで、それは姿を見せた。
巨大な海竜だった。
帝国において、彼にはいくつかの名前がつけられているが、いずれも天地創造の神話の時代の物語やそれを記録した文献でしか見ることはない。
聞くところによれば、魔界においても人間のいる場所に降臨することは稀で、魔族を除いては実在すら疑われているほどらしい。
「やあ、レヴィ――ご苦労だったね」
巨大な海竜――レヴィアタンにサムエルは親しげに言った。
「まさか本物にお目にかかるとは」
珍しくシニアが驚愕していた。
帝国軍に四十年近くも籍をおく彼ですら、異郷の神を目の当たりにするのは初めてのことだった。
レヴィアタンのような古い神は、言葉が通じないという説があったが、彼らは人間とは別の方法で意思疎通を図るのだと、サムエルは言った。
彼の助言で、ソフィアが専用の暗号鍵を組み上げたおかげか、レヴィアタンの発する低周波信号の言語が、端末水晶を介して聞こえてくる。
《殿下、ご機嫌麗しゅうござる――して、その者たちは? 従卒でございますかな? 我が眼には、帝国の将兵の兵装と見受けられますが。はて》
「彼らは僕の護衛を命じられた、帝国の軍人だよ――命を救ってもらった恩人なんだ」
《それはそれは――流石は殿下。異国の将兵すら御身の盾にしてしまわれるとは、末恐ろしや》
「本土に戻りたいんだけど、送ってもらっていいかね?」
《勿論――恐悦でございまする》
「というわけで、世話になったね――スミス大尉」
サムエルは振り返ると、握手を求めてきた。
「なんだよ、気持ち悪い――任務だから仕方なくやっただけだっつうの」
「大尉っ!」
「ちゃんとして」
「へいへい、わかったよ」
ミリアムに促され、ソフィアに耳を引っ張られると、ヨハンはサムエルの手を握った。
二人が手を離すと、サムエルに同行していた官僚たちが彼の肩に掴まっていく。
「ん? なんだこれ」
ヨハンの手には、握手を交わしたときに、数百カラットを超えそうな巨大なダイヤモンドが握らされていた。
見事なブリリアントカットで、人造品のように透明度も高く、仮に転売すればこのジョージック号が丸ごと買えそうな値がつくだろう。
「……」
ヨハンは無言でそれをポケットにしまった。
「では――また会おう、諸君」
そう言うと、サムエルの背後に六対、十二枚の翼が顕れた。
透けて見えたことから、実体ではなく、何かのエネルギーを定着させているらしいが、ソフィアに三時間ほどかけて説明されても人間にはまったく理解できなかった。
「捧げ銃! 敬礼!」
「……直れ! 控え銃!」
ミリアムとシニアの号令にハーレークイン小隊は従い、整列した彼らはサムエルが天高く昇っていくのを見送った。
間もなくして、無事に乗り移ったのか、
《ジョージック号とその乗員、そしてハーレークイン小隊に告ぐ――そなたたちの航海の無事を祈る》とレヴィアタンから信号が送られてきた。
残る問題を片付けるため、ヨハンは船の通信機を拝借してマイアに連絡をとる。
「あー、俺俺、俺だけど」
相手が出るなり彼はまくしたてる。
「ちょっと立て込んでて、金が少し要るんだ――ん? 九〇〇〇万。いやいや、シリングだって。今からいう口座に、現金で振り込んでくれないか? あ、ついでに任務は片づいたって、統合参謀本部とノーマッドに知らせといてくれよ」
後見人を務めていたマイアから小遣いをせびり、任務を完了したことを報告して、休暇と〝お褒めの言葉〟をもらって、帝都までクルージングを楽しむ――ヨハンの皮算用ではそういう計画だったらしい。
ところが、通信用のハンドセットからは、マイアの怒号が返ってくる。
《うつけを申すでない! いくら、妾がそなたを甘やかすといえども、ものには限度があると知れ! 九〇〇〇万シリングが、いったいどれほどの大金か、そなたはわかって申しておるのだろうなっ!?》
「いやーそこはさ、頼むよ――投資だと思って。大丈夫、出世払いで次の世紀末までには返すから」
ヨハンがそう懇願する様子を、艦橋に集まった部下たち――ミリアムとソフィアは白けた顔で見ていた。
「甲斐性なし」
「いくらエフライム閣下であろうとも、そんな大金をやすやすと動かせるものではないだろう」
腹心の乙女たちはそれぞれ小声で言った。
《九〇〇〇万もの大金を払えば、来る夏の茶会に合わせようとした靴と、坊やに披露するための水着が買えぬであろうが――それとも、坊やはおばばに茶会に裸足で出ろと無体を申すか。裸になるのは、まあ、吝かではないが》
「気色悪いことほざくんじゃねえ! それとまた靴かよ! 懲りろ! どんなに高ぇ靴を買おうが、二千年間そのまんまの背が高くなることはねえって、学べよ――とにかく、頼んだからな!」
《これ、待たぬか――坊や……》
ヨハンは一方的に言って端末水晶の通信を閉じた。
「よーし、はいこれで一件落着」
ヨハンは満足げに頷いていたが、やりとりを見守っていた二人は、揃って首を傾げている。
「どこが?」
「え? 大尉、いまのでよろしいのですか――その」
「平気だろ? 靴なら他にいくらでも、あのババアは持ってるから――それに、ババアの水着なんて見たがる物好きなんか、この世に一人もいねえもん」
数日後、ジョージック号に統合参謀本部からハーレークイン小隊の任務完了を承認したことと、一週間の特別休暇を認める通信が届いた。
また、海運会社には匿名で五〇〇万ポンドの寄付が、弁護士と銀行家を通じて届けられたことが、鉱石ラジオのニュースを賑わせた。
「世話になったな、船長――下船許可をくれ」
「二度とお会いできないことを、祈りましょう――下船を許可します」
ヨハンたちはジョージック号にある無人の店舗から、勝手に持ち出した平服に着替えていた。
ジョージック号が保養地に停泊して補給を受ける機会に、ハーレークイン小隊は船から降りていく。
「さあて、夏休みだぞ――お嬢さんたち。殺しと犯罪と性病はなるべく避けろよ」
「下品」
「一度で結構ですから、もう少しまともな訓示をして下さいっ」
ソフィアとミリアムに窘められながら、ハーレークイン小隊は保養地にあるホテルの部屋をとり、一週間後に乗り込む列車の手配を済ませた。
用意が整えば、あとは小隊を解散させるだけだった。
「あー、ちょっと待った――あれやろうぜ、せっかく海に来たんだし」
指揮官は小隊の一部を連れて浜辺まで行き、防波堤に整列させ、
「せーの」と合図した。
直後、ハーレークイン小隊の有志たちはその場で跳び上がって言う。
「ヒャッハー! 海だぁああ!」
防波堤の下に残っていたシニアとミリアム、ソフィアは、指揮官と下士官たちがはしゃいでいる姿を一瞥して、粛々と割り当てられたホテルに移動した。