第9話 良い知らせと悪い知らせがある
――帝国に歴史上初めて、魔族が公式に帝都を訪れる。先の大戦の講和会議を進めるために魔界からは全権代理人としてサムエルがやってくる。そして誰もやりたがらない魔族の護衛を任されたのは、やはりハーレークイン小隊だった。そして深夜、サムエルの宿泊している20階建てのホテルは、爆弾によって19階建てに〝リホーム〟されてしまう。
便宜上〝道化師たち〟と呼ばれるテロ集団が帝国を襲ったのは、公式には数年前の弑逆未遂事件だけだと知られている。
しかし、それ以外にも彼らの起こしたと思しい事件があったことを知る者は、当事者たちを除いてあまりいなかった。
後宮でヨハンは、ヴィクトリアから〝道化師たち〟による、サムエル王太子暗殺を阻止するよう、勅命を受けた。
国内でサムエルが暗殺された場合、間違いなく講和交渉は打ち切られ、停戦合意も破棄され、帝国と魔界連邦との間には修復不可能な溝ができるためだ。
「どっちかなあ」
制服を身に着けた部下とともに、駅のプラットホームに整列していたヨハンは、唐突につぶやいた。
今日の彼は珍しいことに濃紺の礼服姿だった。
胸には略綬と勲章の複製が付けられ、腰には帯剣の代わりに銃剣を差している。
礼服と同じ濃紺の外套は、防水性を考慮してギャバジンの生地で仕立てたものだった。
足元を固めているジョッパーブーツもいつものヌバック革ではなく、磨き込んだフルグレインレザーの黒を履いていた。
今日における帝国の物流を支えているのは、領土内を縦横に走る鉄道網をおいて、他にない。
都市間の市民の移動は当然のこと、鉄道を起点に電気やガスといった、インフラストラクチャの基幹経路としても利用されている。
鉄道の運営は公社という形で民営化の体裁が整えられている。
しかし、その株式は非公開で政府からも年間、数億ポンドもの公金が投入されていることから、市民団体や利権に携われなかった他の貴族たちからの批判は枚挙にいとまがない。
とはいえ、あまり藪をつつけば自分の庭にも引火することもあるため、こうした疑問や国内問題を本気で改革しようとする者はほとんどいないのが現状だった。
ヨハンと部下の周りは、彼と同じく礼服を身に着けた関係省庁の役人や、憲兵隊から派遣された警備兵、陸軍の軍楽隊の姿もある。
ヨハンが滅多に袖を通さない礼服を着ているその理由は、魔界連邦からの要人を迎えるためだ。
数日前、統合参謀本部に召喚された彼は、魔界連邦の現宗主国の王太子、サムエルを護衛するように命じられた。
命令を受領したヨハンは、いつものように兵舎の談話室に部下を集めて、任務に臨んで部隊の編成を行った。
小隊は大きく分けて、三つの班で編成されている。
第一班、アルファチームはヨハンが自ら率いる九人の直衛部隊で、武装は拳銃のみを携行し、サムエルの周りを固める。
第二班、ブラボーチームはミリアムが指揮を執る武装護衛部隊だ。
こちらは野戦服と防具を身に着け、幌馬車に分乗して不測の事態に備える。
彼らの武装は市街戦を想定して改良した自動小銃と、非殺傷のいくつかの手榴弾や擲弾筒を持ち込んでいる。
人数は十六人で、四人組ずつに分けて運用される。
第三班、シエラチームは二人の狙撃手が上空を旋回し続ける飛竜のキャビンに乗り込み、監視と必要に応じて狙撃の援護を行う。
また、同乗するシニアが全体の統制を執り、ソフィアが各班への通信を中継する。
シニアには関係各機関との渉外や交渉も担当してもらってもいる。
ヨハンが担っても良かったのだが、
〝トラブルの元が増える〟とソフィアが却下した。
「どっちかなあ」
もう一度ヨハンが疑問を漏らし、
「なにがです?」と隣の部下、ベイツが訊いた。
「この時間に三番線を走ってるのって、トーマスかエドワードのどっちかだよな? トーマスならいいけど、エドワードだったらちょっと嫌だなって」
「なんかの験担ぎですか? 大尉」
「ほら、エドワードって一七六話で脱線するじゃん――縁起悪くね?」
その益体もない雑談をきっかけにして、端末水晶を経由して小隊内の通信では、到着する列車を牽く機関車の色が青か緑かを賭けの対象にしはじめた。
《ハーレークイン全隊へ――ブラボーチームのセブンである。私語を中止せよ。もう一度告げる、私語を中止せよ。ブレイク、大尉はもう、余計なことを言わないでください。確認を請う、どうぞ》
案の定、ただちにミリアムが不要な通信を止めさせようと注意してきた。
通信に参加していなかったにも関わらず、なぜか彼女はヨハンが元凶だと即座に気づいたらしい。
肩をすくめて、
「シックス、了解」とヨハンは応答した。
間もなく、遠くの方から警笛が聞こえ、黒煙が立ち上ってくるのが駅のプラットホームからも見ることが出来た。
目を細めたヨハンは、上着のエポレットに取り付けてあるハンドセットに手をかけて、通信を送る。
「シエラへ――シックスだ。全隊にピクチャーを送れ」
少し待つと、ソフィアを通じて応答が返ってくる。
《全隊へ――こちらシエラチームのナイン。目標を確認した。東に時速三五マイルで進行中。周辺状況に変化なし。態勢一‐六、交戦規定三‐二を維持せよ。ブレイク、ブラボーチームの一号車は地点マイクへ移動して待機、到着したら報告せよ。確認したら送れ》
先日、装備の更新の折に、ヨハンはボーマン基地司令に上申して部下たちにも各班長を務めている者には、端末水晶を支給することになった。
このため、通信を統制するソフィアの負担が増えたのだが、彼女は、
〝面白くなってきた〟とむしろ、やる気をみなぎらせているようだ。
部下たちが通信でやり取りしている間に、ヨハンは統合参謀本部から派遣された、今回の式典を警備する総責任者である、メイ中佐に報告する。
「中佐殿、間もなく殿下のご到着です」
「了解した――大尉、下がれ」
ヨハンは敬礼して立ち位置に戻った。
メイ中佐とは先日の軍議で初めて会ったのだが、平民の出身で苦労しながらも出世を重ねて、士官学校を四〇歳を過ぎてから卒業した人だと聞いた。
専門は兵站部門だというから、地味な実績を積み上げて今回の任務を最後に、退役するという話だった。
性格の上ではまったく噛み合わないだろうが、その綿密な計画を立てる姿勢や、胃薬を常時服用しなければならないほど、強い責任感の持ち主に対しては、ヨハンも敬意と好感を持ちはじめていた。
父親というのを彼は知らないが、メイ中佐のような人物がそうだったら、あるいは自分ももっとちゃんとできる兵士になれたのだろうか。
間もなく、警笛を鳴らしながら機関車がプラットホームに滑り込んできた。
乗客はわずかのはずだが、この日も客車は八両ほど牽引している。
当初は、必要最低限の車両にするという計画だったが、
〝標的の位置を暗殺者に知らせるようなものだ〟という声が上がり、変更されたものだった。
「うわ、エドワードかよ」
ヨハンは列車が停車すると、再びハンドセットに向かって告げる。
「シエラへ――シックスだ。怪しいヤツを見かけたら、先制を許可する。確認したら送れ」
《シエラ・ワン、了解》
《ツー、コピー》
飛竜で上空を旋回している狙撃手たちから応答が返ってきた。
「ハーレークイン全隊に告ぐ――シックスより通達。交戦規定三‐一、三‐五へ移行。オープンファイアの判断は、これより各指揮官に一任する。シックス、アウト」
楽隊が音楽を鳴らし、他の参列者たちが拍手を贈るとサムエルが顔を覗かせた。
浅黒い肌に濃い茶の瞳、金の刺繍の施された、丈の長い真紅の外套を羽織ったサムエルが黒檀のステッキを片手に降り立った。
帝国の二千年に及ぶ歴史の中で、初めて魔族が帝都の土を踏んだ瞬間である。
彫りの深い顔立ちに柔和な微笑を浮かべ、積年の敵対国の帝都だというのに、彼にはまったく緊張した様子が見られない。
人間でいうなら十五、六歳ほどの幼さの残る顔のせいか、どこか世間知らずそうな印象を与えそうだった。
驚くべきことにサムエルは数人の官僚だけを伴って来た。
通常、王族の外遊ともなれば侍従から護衛といった、最低でも数十人の団体で動くはずなのだが。
「目立ちたがり屋め」
ヨハンは小声で悪態をついて、部下とともに、足早に近づいて彼の周りを固めた。
「また会えて嬉しいよ――スミス大尉」
サムエルの右側に立つと、彼は耳元で囁いてきた。
〝仕事の邪魔をしたらぶっ殺すぞ〟
ヨハンは本人だけに伝わるよう、唇だけを動かして告げた。
魔族の少年は読唇術の心得があるのか、あるいは思考の表層を感知できるのか、正確に把握したようだ。
帝国政府を代表して、式典には外務尚書が出席していた。
彼と握手を交わしてから、順番に記念撮影のために移動を始める。
その後はサムエルとヨハンたちが先発で移動をはじめる。
「殿下、こちらへ――新聞社がお写真をお願いしたいとのことです。煩わせて申し訳ございませんが、ご協力を賜れれば幸いです」
ヨハンは流暢に、丁寧な口調で言った。
「写真機の前では指を二本立てないでくれたまえ」
どういうわけか、サムエルの中では外務尚書との記念撮影に、ヨハンも一緒に映り込むのが確定しているらしい。
「シックスは目標と移動する」
《シックスへ――シエラも確認した。異常なし。ナイン、アウト》
駅舎の中に入るなり、
「せっかくこうして会えた、この良縁を大事にしたい――みなさんで、記念にもう一枚どうでしょうか?」とサムエルは提案してきた。
新聞社は魔界の王太子のリップサービスに喜び、外務尚書もそれに便乗した。
「これで君も一緒に写れるね」
サムエルの狙った通り、ヨハンも写真に撮られた。
その移動中も、新聞社からの特派員たちから、サムエルには矢継早に質問がぶつけられ、魔界の王太子はその全てに答えていく。
「殿下、護衛をお連れなさらなかったのは、なぜでしょう?」
記者の一人が訊くと、サムエルはヨハンを盾にして言う。
「ああ! それは彼のせいだよ――僕の護衛を務めていた中隊が、過日の戦闘で壊滅というか皆殺しにされてね。人員の補充が間に合っていないんだ。そのときの敵が今はこうして僕を守ってくれているのだから、人生、何が起きるかわからないね」
サムエルは日付を誤魔化しつつ、ありのまま起こったことを話した。
おそらく、悪気はないのだろうと思われる。
しかし、このことでヨハンは一気に機嫌を悪くした。
「スミス大尉! 今の王子殿下のお言葉の真偽について、お答え願います!」
「軍事機密に関わる――個別の作戦活動に関する質問に答える権限を持っていない。それよりお宅の新聞、いつになったらあのクソ漫画の作者をクビにするんだよ?」
「それが王族を警護する近衛の態度ですかっ!?」
「帝国陸軍の品位を疑われてしまいますよ!」
「ローガン――鉄のカーテンをおろせ」
ヨハンは質問を無視して、部下に命じた。
ローガン一等軍曹は、ハーレークイン小隊の中でも屈指の体格と膂力の持ち主だった。
その彼には、巨大な鉄板を削り出した即席の防弾盾を持たせてあった。
「おっと手が」
ローガンが白々しく言って、食い下がる記者のつま先に鉄板を落とした。
一枚のにつき重量が二〇ポンドをくだらないそれを〝鉄のカーテン〟は二枚使用して、溶接で接着されている。
総重量は八〇ポンドで、正面は至近距離の小銃弾はおろか、重機関銃の直撃にも複数回は耐えられるように造られていた。
そんな鉄塊が革靴のつまさきに落ちてきたら、へたをすれば骨折をしてしまう。
とはいえ、不躾な質問を重ねてくる記者はこれで何人か減らせた。
「今のうちです、殿下」
ヨハンは部下とともにサムエルを囲んで、半ば強引に移動を再開した。
護衛は概ね順調だった。
当初の予測では、彼を狙うとしたら警備や人目の多い昼間ではなく、夜間、それも深夜に決行されると読んでいた。
駅での記念撮影後は、戦没者慰霊の共同墓地での献花と黙祷を行い、サムエルは完璧な礼儀作法と所作で、王族としての義務を果たした。
この式典でサムエルを狙うとしたら、超長距離による狙撃だとヨハンは推測した。
そのため、重機関銃の弾丸を使う、大口径の狙撃銃を用いた有効射程の限界距離である、二クリックの範囲が危険区域だと事前の軍議で進言した。
しかし、人手不足と帝都の混乱を避けたい憲兵本部から、全ての建物の封鎖と市民の強制退去は却下された。
やむを得ず、ミリアムの指揮するブラボーチームを三手に分けて、最も狙撃に適した建物の最上階と屋上を急襲させた。
しかし、その懸念は外れ、慰霊の式典は滞りなく進んだ。
肩透かしを食ったような気分だったが、それよりもサムエルの行動の方がはるかに彼を疲れさせた。
「殿下、こちらです」
ヨハンが次の場所に彼を案内しようとするたび、
「うん」とサムエルは素直に頷いた。
しかし、魔族の王子は遠巻きに見守っている見物客に向かって、無造作に歩きだす。
「っ!?」
ヨハンは慌てて、小走りで彼の背を追いかけた。
「ごきげんよう――諸君。僕はサムエル、魔界から来た魔族だ。帝国と魔界がもう戦争をしなくて済むように、話し合いを進めるのが僕たちの望みだ」
浅黒い肌の美少年は群衆に向かって親しげに語りかけながら、事前に憲兵隊が張り巡らせた仕切りの綱を跨いでいく。
「……」
サムエルが近づくと、群衆たちは恐慌こそ来さなかったものの、彼が近づけば、同じ距離を遠ざかってしまう。
ほとんどの人が魔族を初めて目にして、恐れと好奇の間で気持ちが揺れているのだろうとわかる。
サムエルは立ち止まって、集まっている人々に向かって言う。
「君たちの中には、僕を憎んでいる人もいるだろう――あるいは懐中に短剣を忍ばせているかもしれない。それもいい。憎むことも僕を殺そうとすることも、君たちの自由だから。ただ、僕としてはもう少し友好的でいたいと思う。そのことを知ってもらう、これが初めの一歩だ。詳しくは、明日のタブロイド紙を読んでみたまえ。一部三ペンスで売ってるから。ああ、ただしマンガはこの護衛の彼いわく〝クソつまらない〟らしいよ」
「殿下、どうぞこちらに」
眉間とこめかみに皺を深くしながら、ヨハンは言った。
行く先々でこの調子だったため、政府官邸での昼食会は予定を一時間ほど遅らせて始まった。
昼食会の次は、そのまま官邸の会議室で、サムエルが連れてきた官僚たちと、帝国の外務省の役人の顔合わせを兼ねた、実務者協議の初回が行われた。
サムエルも魔界側の総責任者としてその場に同席する。
初回は現状と互いの要求事項の確認に終始するため、問題なく進行していく。
〝官邸で仕掛けてくるようなアホじゃないことを願おう〟と、ヨハンは言っていたが、ここでも大した問題は起きなかった。
続く、戦災孤児育英のための養護施設の視察も、一部の過激な市民団体が抗議のために乱入してくる一幕があったくらいで、銃声も爆弾も鳴りを潜めていた。
「あー、きつかった」
「外交とは忍耐の連続だ――それに今回の進行は僕の経験では、かなり上手く行っている方だと思うよ」
馬車の中で、上を向いたヨハンは濡らしたハンカチを両目に当てて休んでいた。
早朝からずっと、周囲に気を配ったり、ビルの屋上に狙撃手がいないか見たりで、彼は目を酷使していた。
夕方、ヨハンとサムエルは黒塗りの大型馬車から降りた。
この日の滞在先は、帝国の中でも最も新しいホテルだった。
建物としてもかなり巨大で、二十階建というだけでも世界に類をみないほどの高層建造物だろう。
屋上には飛竜の発着場まで設えられている。
ホテルの中は地階から五階までは吹き抜けの商業施設で、六階に宿の受付がある。
そこまでは帝国の数ある建物の中でも珍しい、エスカレータという階段状のリフトが設置されている。
低層と高層で、乗るエレベータも分けられ、最上階のスイートを使う要人のためには二十階にしか止まらないものもあり、乗り込むためにはルームキーの提示が必要だった。
その特別エレベータの前をヨハンたちは素通りした。
「通り過ぎちゃったけど」
「厨房の先にある貨物用を使う」
「ああ、なるほど――今日はご苦労だったね、スミス大尉」
「まだ終わってねえ」
ヨハンの言う通り、レストランの奥には各階に物資や従業員を運ぶエレベータがある。
先行してホテルの周囲を確保していたミリアムに彼らは出迎えられた。
「報告いたします――二十階を確保。各部屋は予定通り宿泊客の退去済です」
ミリアムは敬礼して報告した。
「了解した――少尉、メイソンと代わって少し休め。おつかれさん」
「は――お心遣いに感謝します、大尉」
二人の話が終わると、サムエルが一歩前に出て、胸に手を当ててミリアムに挨拶をする。
「やあ、元気そうだね」
サムエルの態度は旧知の友人にでも言うように親しげだった。
「あ――いえ、恐縮です。殿下」
「もうマスコミの前じゃないんだから、畏まらなくて大丈夫だよ――ええと、シメオン少尉だったね。戦闘服もいいけど、いずれは舞踏会で君の晴れ着も見てみたいな」
「マジかよ――今畜生」
「大尉っ! 弁えてください!」
「んん?」
サムエルが首を傾げて、ヨハンの顔を仰いだ。
「誠に不本意ではありますが――小官も殿下のご見識に同意したく存じます」
ヨハンが威儀を正してそう言うと、ミリアムが時間を止められたように瞠目し、サムエルは笑い出した。
「……お戯れはそこまでに願います」
ミリアムは踵を返した。
ヨハンたちはあえて十九階で降りた。
別のエレベータで先行していた、アルファチームの部下と再合流し、こんどは非常階段で二十階にあがる。
一見、無駄ともとれる不規則な行動をするのは、待ち伏せや罠を警戒しているためだ。
宿泊先の十九階でいったん降りるように助言したのはシニアだった。
〝貨物エレベータで二十階にあがることは稀です――小官なら時計と連動する仕掛けで、標的が到着したら箱ごと爆破します〟
無人のフロアは当然ながら静かそのものだった。
ヨハンは部下に先導させて、サムエルの使用する部屋をあらためて制圧してから入室した。
「君も少し休むといい――僕もちょっと疲れたよ。ああ、でも一人で夕食は寂しいから、一緒にどうだい?」
ヨハンは懐から紙入れを取り出した。
中からけばけばしい、スパンコールの施された名刺のような紙を指で挟んで、オリエント様式で造られた紫檀のテーブルに置く。
「これは?」
「誰かと一緒にいたいんなら、そこに連絡しろよ――頭と股の緩い女が寄ってくるぜ。ただし、金だけはたっぷり用意しとけ。じゃないと振られるぜ」
彼は意地悪そうな口調で言ったが、サムエルにはまったく通じない。
「へええ――なるほど、帝国にも娼館はあるんだ。一度、行ってみたいと思っていたんだけど、皆に絶対に駄目だって言われててね」
ヨハンはシニアを呼んで、上空で待機している飛竜を屋上につけるように命じた。
彼らはそれに乗って、ホテルからほど近い、川沿いの安宿に移る。
真夜中、地震のような衝撃とともに、仮眠用にとった川沿いの安宿のベッドにいたヨハンは目を覚ました。
「あーらら――こりゃ、大変だ」
窓から見ると、帝都の誇る二十階建てのホテルは、サムエルが宿泊しているはずの二十階から屋上にかけて、丸ごと爆薬で吹き飛ばされたのだとわかった。
「おい! マスカキやめてパンツをあげろ!」
ヨハンは拳銃を片手に、幼年学校の指導教官軍曹の口調を真似しながら、隣のベッドを蹴飛ばした。
「もう朝かい? 悪いけど、僕は君と違って低血圧だから、寝起きは弱いんだ――それに低血糖だし。お茶にラズベリーのジャムをたくさん入れたのを運ばせてくれたまえ」
隣で寝ていたサムエルが、目をこすりながら上半身を起こした。
「御託を抜かしてないで、窓を見ろって! お前さんが泊まってると思ってた連中が、ホテルを強引にリホームしやがったんだぞ」
ヨハンは寝間着の襟首を掴んで、彼を無理やり窓際まで引きずっていく。
外を見て、魔界の王太子は憮然とした様子で言う。
「巻き込まれた人がいないといいけど――僕のせいで人が死ぬのは嫌だよ」
「それが魔界のギャグかよ――ついこの間、俺たちを避雷針にしようとしてた奴が、よく言うぜ」
サムエルは、まるで意地悪をされた子供のように、唇を尖らせて反論してくる。
「だって、あれは戦場でのことじゃないか――それに、君たちだって僕の近衛を皆殺しにしただろう?」
「そういやそうだ」
ヨハンがあっさり認めたとき、勢いよくドアが開かれた。
「大尉! ご無事ですかっ!?」
武装したミリアムが部屋に飛び込んできた。
「僕の心配が先じゃないのかい? まあ、気持ちはわかるけどね」
「し、失礼をいたしました――殿下、ご容赦を願います」
「すっかり目が覚めちまったよ――二度寝には中途半端な時間だな」
ヨハンはそう言うと、シャツをその場で脱ぎだした。
「大尉っ!?」
ミリアムが驚いて、背中を向けた。
「殿下がお茶をご所望だ――用意を頼んだぞ少尉」
そう言って、ヨハンはタオルを片手にバスルームに入っていく。
赤面しているミリアムは、その背中を一瞥する。
彼の背中には、皮膚が引きつったような痛々しい傷跡が残されていた。
「……」
他人や本人からすれば、それはただの傷跡だったが、ミリアムにはそれがどれほど煌めく勲章よりも雄弁に彼の英雄的行為を物語っているように見えた。
しばらくすると水音とともに、歌声が漏れ出した。
「誰かがずっと前に言ってたね♪ 嵐の前の静けさだって♪ わかってる♪ そんなときだってあるさ♪」
非人道兵器の〝焼夷弾を連想させる歌詞〟だ、という風説が流布した結果、いまだに帝国のラジオ放送では流せない、放送禁止歌をヨハンは口ずさんでいた。
「なんて不謹慎な人」
たった今、ホテルが爆破された現場を間近で目撃した――彼の性格を考えれば偶然、この歌を選んだとは思えなかった。
それに、これは戦争中に作られた曲であり、反戦歌でもある。
間違っても、当事国の王太子に聞こえていい曲ではないはずだ。
ミリアムはおそるおそるサムエルを一瞥してみる、
「この曲は僕も知ってるよ――いいバンドだよね」と彼は言った。
「その、殿下……」
「サムエル――いや、サムでいいよ。君も、もう僕の友人だ」
浅黒い肌の美少年は、人懐っこそうな笑顔を向けてミリアムに向き合った。
薄暗い部屋に二人でいると、幼さのある顔立ちながらサムエルの艷やかな肌に妙な色気のようなものをミリアムは感じてしまう。
「あの――光栄であります、殿下。小官はお茶のご用意をして参りますので、いましばらく、こちらでお待ちをお願い申し上げます」
「うん」
茶の用意が整った頃に、ヨハンがタオルで頭を拭きながらバスルームから出てきた。
「お前さんたちもどうだ? 目覚ましには熱い湯が一番だぜ――一〇七度以上で二分四十秒だけ浴びてみろよ、宿酔いだろうが一発でよくなるから」
「大尉――殿下の御前です。せめてシャツくらい着てくださいっ」
ミリアムの諫言を右の耳から左の耳に聞き流しながら、ヨハンは冷蔵庫を開けて、中からレモネードの小瓶を取り出す。
「……大尉、さきほど上級曹長から定時連絡が入りました――〝方舟〟の手配は予定通りとのことです」
隠語を交えて、ミリアムは指揮官に報告した。
「よっしゃ――ん? どうした?」
彼女はなにかを迷っているような面持ちだった。
近頃のミリアムはヨハンに対して感情を素直に見せ始めている。
「その――本当に、よろしいのですか? もしも失敗すれば、こんどこそ刑事訴追は免れませんよ」
「刑事訴追? こんどこそ?」
サムエルが眉をひそめたが、ヨハンたちにその説明をする気はないようだ。
「まあ、なんとかなるって」
「部下たちの将来もかかってるのです! もう少し、深刻にお考えをなさってくれないと、困ります」
翌朝の帝都の駅には、サムエルが来訪したときと同じ、緑色の機関車がプラットホームのそばで八両の客車を牽引して、暖機運転をしていた。
間もなく、ハーレークイン小隊に護衛されて、サムエルと彼に随行した魔界連邦の官僚たちが列車に乗り込む予定だった。
未明から憲兵隊や陸軍の部隊が集結し、各部隊の指揮官は駅長室を間借りした臨時の指揮所に詰めている、メイ中佐のもとに出頭して、点呼を始めとした状況報告を順番に行っていく。
深夜のホテル爆発からメイ中佐はまったく眠れず、途中で仮眠をとることもできず、疲労の極地にいた。
昨夜から、メイ中佐は良い知らせと悪い知らせを交互に聞かされて、そのたびに胃薬をラムネ菓子のように口に放り込みながら過ごしていた。
報告によると、爆破されたホテルは十九階の天井より上、つまり二十階と屋上が完全に破壊されたとのことだ。
吹き飛ばされたガラスの破片は十ブロック先まで届いていたことが確認されているが、奇跡的に直接または間接的な原因で死傷した人間はいないという。
ハーレークイン小隊からの定時報告では、爆発の前に彼らはサムエルをホテルから飛竜で退避させることに成功したそうだ。
なぜ爆発を都合よく事前に察知できたのか、またそれが可能だったのなら、爆破そのものを未然に防ぐことはできなかったのか――メイ中佐はハーレークイン小隊の指揮官に尋ねたいことがいくつかあった。
ハーレークイン小隊からは、副官のシメオン少尉が隊長の代理として出頭することになっていたのだが、予定の時刻になっても彼女は現れなかった。
彼女に限って、遅刻をするとは考えにくい。
時計を確認したメイ中佐は、通信担当士官に命じて、ハーレークイン小隊の端末水晶を呼び出す。
しかし、ハーレークイン小隊とはいっこうに通信が繋がらなかった。
調べたところ、通信が妨害されている形跡はなく、意図的にチャンネルを区分けされ、暗号化した別のチャンネルで彼らが交信しているところまでは判明した。
しかし、肝心の暗号鍵の解読が人間には不可能ということで、現在は寺院にある通信管制塔の妖精族に協力を要請しているところだ。
「中佐殿! 急報でございます!」
司令部に伝令が飛び込んできた。
メイ中佐が促すと彼は早口で報告する。
「先ほど、帝都港湾局より緊急通報がありました――正体不明の武装勢力によって、停泊中のブリタニック級客船、ジョージック号が急襲された模様であります。その後、ジョージック号は出港、港湾局の制止と沿岸警備艇の追跡を振り切って、外洋に進行中とのことです」
メイ中佐は頭を抱えた。
どうしてこう、厄介事というのは重なるのだろうか――間もなく、列車の出発時刻は五分後に迫る。
メイ中佐は部下たちに命じて、いつ王太子一行が到着してもいいように、準備を整えさせることにした。
しかし、いつまで待ってもサムエルはもちろんとして、ハーレークイン小隊の要員が帝都駅に到着することはなかった。
メイ中佐たちが、帝都の駅でサムエルを待っている頃、ヨハンたちは正体不明の武装勢力が占拠したという、ジョージック号の船上にいた。
そもそもジョージック号を急襲した正体不明の武装勢力とは、ハーレークイン小隊そのものだった。
野戦服を身に着けたシニアが、ヨハンを迎えると彼は敬礼して言う。
「大尉――完全占拠いたしました。損耗、欠員もありません。艦橋に軟禁している船長が、責任者への面会を求めておいでです」
「ヒュー、いいねえ――宮殿を独り占めした気分だ」
シニアの報告を受けていたヨハンは、アール・デコ調の見事な内装や調度品に見とれていた。
「こちらです」
「石鹸の匂いがする――どうして?」
ソフィアはヨハンの肩に立つと訊いてきた。
「ああ――朝から営業している、風営法違反の紳士の社交場でさっぱりしてきたからな」
「下品」
ソフィアはルビーの瞳を凍りつかせて肩から離れた。
「嘘つきは泥棒の始まりだよ」
「殿下――ご無事でなにより」
「ありがとう――そう言ってくれたのは、君だけだ」
ヨハンたちはシニアに案内されながら、巨大な客船の中を進んで艦橋に向かう。
「ところで――一体、どういうことだい?」
歩きながら、サムエルが訊いた。
「ノアの爺さんが、夜なべして作った舟を、横からかっぱらってやったのさ」
「……もしかして、盗んだのかい? この船を」
サムエルは大きな瞳を輝かせて言った。
「こんな悪いことをしたのは、生まれてはじめてだよ!」
「よく言うぜ――魔族のくせに」
「本当だってば!」