K駅
もう十五年になる。
大学生だった私は、当時同窓だった優子と付き合っていた。同棲を始めたばかりの頃で、その日私たちは、日光まで紅葉を見に行っていた。
夜八時過ぎ、私たちは地元のK駅に帰ってきた。改札を通り、北口の階段を降りていた。階段は途中にちょっとした踊り場があり、そこまで来たとき、優子は、トイレに行くと言って階段を引き返した。私は下で待ってるよと言って、階段を降りた。ベージュのスカートに白いブラウス、赤いカーデガンを羽織り、小さな白いバックを肩からかけていた。――それが、私が最後に見た優子の姿だった。
戻ってこない優子を心配して、私も駅を探した。その日の夜中に警察に通報し、それから十日あまり、付近の徹底的な捜索が警察や消防団によって行われたが、見つからなかった。
K駅は上りと下り、二つのホームをのみ有するベッドタウンの小さな駅である。改札は一カ所で、駅への出入り口は北口と南口の二つ、階段もそれぞれ一本しかない。改札口の前には切符売り場があり、その隣には小さな立ち食いそば屋と菓子屋があり、立ち食いそば屋の横に便所がある。当時も、夜の八時のK駅は全く人通りが無いわけでもなく、また、混雑するほどの人もなかった。
八時十四分、改札口と切符売り場を映す監視カメラが、私と別れた後の優子を映している。優子は北口側から歩いてきて、切符売り場の所で、小銭を落とした中年男の小銭を拾うのを手伝い、画面の端に姿を消した。中年男は切符を買って、改札に入っていった。
南口に設置されたカメラは、優子らしき人物は映していなかった。
その後、警察による聞き込みや顔写真を記載したビラが配布されたが、有力な手がかりとなる情報は入らなかった。
失踪から三ヶ月後と七ヶ月後、私の元に不審な無言電話があった。どちらも夜中にかかってきたもので、警察に調べてもらうと、最初のは千葉県のN市、後の方は宮城県I市の、いずれも公衆電話からかけられたものだとわかった。それが、優子の失踪と関係のあるものなのかはわからない。その公衆電話は、すでにどちらも撤去されてしまっている。
優子の家族はその後も必死に優子の行方を捜したが、三年前の十一月、失踪宣告がなされた。未だに優子の行方は分かっていない。
ちょうど十五年前の今日だった。
私は十五年前と変わらないK駅の、北口の階段を登っている。一体ここで何があったのだろうか。十五年前と変わらない菓子屋、切符売り場、看板だけが変わった立ち食いそば屋。そしてその奥の便所。十五年前と同じく、人はまばらである。
南口の階段を降り、そしてまた切符売り場に戻ってくる。北口から南口までを何往復かし、その後私は、切符売り場の前で立ち尽くした。菓子屋がシャッターを下ろし、蕎麦屋ものれんを片付け始める。
ふと、赤いカーデガンを着た女性が視界の隅に入った。私は思わず、その女性を目で追った。大学生くらいの、若い女性だった。
優子は、もし生きているとすれば、もう三十七、若くはない。大学生だった私が、四十路前になった。
最後に私は男子便所を調べ、駅員に事情を話し、駅員の立ち会いの下、女子便所を調べさせてもらった。
何も無かった。
もう、何十、何百回と調べられてきたはずの場所である。何も無いのは、もうわかっていた。
「ありがとうございました」
私は駅員に礼を言い、隣町の新居へ帰ることにした。帰りのタクシーの後部座席で、私は目を閉じた。
女子トイレの一番奥の個室に、手のひら大の黒染みがあった。それが何と言うことは無いのだが、どうにもそれが、印象に残っていた。