第29話 汚れてもいい服装でお越しください。
少し肌寒い朝の都市を、トウゴとイチは歩いていた。
トウゴは、いつもよりラフな上下ジャージ姿。
イチは黒いTシャツに、ダメージ加工のあるオーバーオールを着ていた。
長い黒髪は後ろでひとつに結ばれていて、裸足(イチはいまだに、外でも靴を履くのを断固拒否している)を踏み出す度にぴょこぴょこ揺れて可愛い。
「いやー。こんな格好で今からレジ打ちのバイトなんて、何だか背徳感あるよね」
「……?」
イチは、いまいちピンときていないようだ。
「まあでも『汚れてもいい服装で』って、何度も念を押されたしなあ」
「……」
「怪しいよなあ」
「……」
イチは冷ややかなジト目の視線を、トウゴの顔に突き刺してくる。
「だ、だってニーナさんがせっかく紹介してくれたバイトだし、恩もあるからあんまり無下に断れないし……」
早口で言い訳しても、イチはこちらをを見つめたままだった。
自宅の『青苺荘』から徒歩とバスで約40分。
古い商店街の中に、目的の店が見えた。
『赤まみれ』
イユタリス語でそう書かれた店の看板には、何だか赤い汚れのようなものが点々と付着している。
「……」
「……」
嫌な予感しかしないトウゴは、すぐさま回れ右しようとしたが、
「え、イチさん。え」
物凄い力で、ぐいと引っ張られた。
身体や腕は細いのに、相変わらずの怪力だ。
「ど、どうしたの? 急にやる気出ちゃった?」
「もむん」
その両目は、心なしかウキウキしているように見える。
イチはトウゴを引きずるようにして歩を進め、『準備中』のプレートが掛かっている店のドアを普通に開けて、中へ入った。
すると、
「うっ? 何だこのニオイ」
むせ返るような錆臭い空気に、トウゴは鼻を押さえた。
「これって……もしかしなくても」
……血だ。
黒いカーペットだから分かりにくいが、どろりとした液体が床に広がっている。
その大元を辿っていくと、
「ひ、人が……!」
痩せた男性が、うつ伏せに倒れていた。
染みだらけの青いシャツに、黒ジーンズ、そして濃い赤色のエプロンは、その身体から流れ出る赤黒い液体でじっとりと濡れている。
死んでいるのだろうか?
いままでそれなりにヤバいバイトを経験してきたつもりだったが、こんな序盤でヤバい状況に遭遇したのは初めてかもしれない。
やっぱり、恩のあるヤンキー不動産屋さんになんか気を遣わずに、本能に従って帰るべきだったのだ。
「……」
びちゃ、びちゃ。
「げ」
イチが、普通に男性の死体へと近づいて行った。
裸足が濡れたカーペットを踏み、嫌な水音を立てる。
「……」
あのホクホクした顔は、ドS悪戯モードのイチだ。
「い、イチさんやめときなって! いくらなんでも普通のオジサンの死体にイタズラは――」
こんな不謹慎だらけの都市に少しずつなじんできたトウゴでも、一応最低限の倫理観は保っているのでイチを止めようとしたが、
「――あ」
手遅れだった。
イチは喜々として脚を上げて、毛量の多い男性死体の後頭部を、
「ぶへぇっ!?」
踏みつけた。
(……ん?)
聞こえた野太い悲鳴に、トウゴは首を傾げる。
「『ぶへぇっ』……?」
そして首を伸ばして、イチの裸足に踏まれているおじさんの頭を確認。
「うぅぅ、痛ぇ……」
小刻みに震えていた。
「……」
トウゴは、床にぶちまけられた赤い液体の傍に屈んで、指先を濡らしてみる。
赤黒く、錆っぽい臭いはするが……
無駄にそこそこの流血沙汰を経験しているトウゴにとっては、冷静になった今、その判断は簡単にできた。
「……血糊だコレ」
それから10分後。
「いやー! すまんかったな2人とも! しかしまさか俺の死んだフリが、あんなすぐに見破られるとはな!」
「はぁ」
カラカラと笑うおじさんは、血糊でぐっしょり濡れた髪を掻き上げた。
身体や顔は痩せていて、その陽気さとは相反して血色が悪い。
「しかしお嬢ちゃんの踏みつけはキいたぜ……俺がそっち系の趣味だったら危ないところだったな……」
「ちょっ! イチさんをヘンな目で見ないでくださいよ!?」
「悪い悪い! ……いてて、まだ鼻が……あ、これ本物の鼻血だわ」
何とも陽気な人だ。
「あの、それで……あなたがこの店の店長さんで良いんですか? おれたち、バイトしに来たんですけど」
「おう。俺がこの血糊屋『赤まみれ』の店長、ブラドだ。よろしくな」
そう言ってブラドは、血糊と鼻血で汚れまくった右手を差し出してきた。
「あ―……」
さすがのトウゴでも、この手は握りたくない。
「よろしく、な!」
強引に握られた。
「ヒェッ」
「何だ変な声出しやがって!」
「……」
無言のままのイチは、ほんのり上機嫌にトウゴを見下してくる。
(さ、散々だ……)
まだ朝っぱらだというのに、先行きが不安すぎる。




