第26話 空腹のイチ
そしてそれは、数秒で終了した。
「……」
イチの身体から、黒い靄が立ち込める。
【忌不様】が強い力を使うときは、決まってこの現象が起きる。
『 オ、まェ マ エ はぁ ?』
ノートルはあからさまに動揺し、たじろいだ。
そして一瞬、人質として抱える男の頭部に挿入している腕の力が緩む。
「っ!」
レビィは、その隙を逃さなかった。
レインコート袖の奥から細い触手が飛び出し、鞭のように風を切る。
トウゴ達をテレビの中に引き込んだ、あの能力だ。
触手は器用に男の大柄な身体へと巻き付き、ノートルの腕から彼を奪い取った。
シュルシュルと巻き取られる触手と入れ違いに、イチが一蹴りでノートルの元まで跳躍する。
その右腕は黒く、筋肉質で、艶やかな針のような体毛に覆われた獣のそれに変化していた。
突き出した拳は、ノートルの顔面へ、
『 べ が カッ ! ?』
クチバシを粉砕し目玉を飛び出させながら、その羽毛に覆われた身体を部屋の外へ吹き飛ばした。その残像を追うように、血液らしき濁った液体がキラキラと尾を引く。
「……」
イチは物足りなさそうな顔で、再び跳躍。玄関の外へと躍り出る。
『 ヒ イ ィ 逃 ゲ――』
ノートルは大惨事な顔面を両手で覆いながら、逃走しようとしていた。
しかし、ぽん、と。
『――ゲ』
既にすぐ背後に居たイチの右手が、その震える肩を優しく叩いた。
恐る恐る振り向いたノートルは、あまりの絶望に脱力する。
それは、『右手』というにはあまりにも常識外れな状態だった。
大口を開けた、狐のような巨大な顔面。
その牙は鋭く、口端からはヨダレが滴る。
肘から先が異常に肥大化し、そこから生えた獣の頭部が、腹を空かしたように唸った。
『ァ』
一瞬、ノートルが何か懇願するような仕草をした。
しかし、そこから先を見ることは無かった。
ばくん、と。
イチの右腕に生えた獣の大口が、ノートルの上半身を嚙み切ったからだ。
「……」
間髪入れず、残った下半身も銜え、ゴリゴリと咀嚼して飲み込んだ。
「……ふむ」
そうして食事を終えたイチの右腕は静かに縮小していき、元のすべすべな少女の腕に戻った。
イチは何か考え込むように頭を傾け、何事も無かったかのようにスタスタと戻って来る。
「ふぅ。イチさんはやっぱり頼りになるなぁ。助かったよ」
「ウム」
「ぁ、あ、ひぃ」
イチの壮絶な食事を初めて見たであろうレビィは、腰を抜かして尻餅をついていた。
しかしその腕には、気絶した大柄な男性を大事そうに抱えている。
イチはその姿を不思議そうに眺めつつ、トウゴの袖を引っ張った。
「トーゴ」
「え、なに、どうしたの?」
そう言えばイチはさっき、何か考え込んでいた。
まさか、まだ別の脅威が残っているのか。
イチは深刻な顔で、自分のスレンダーなお腹を押さえて、
「……ヤキトリ、クイタイ」
ぐぐぅ~、と音を鳴らした。




