第18話 クマの儀式
「く、クマさんっ!」
クマの【忌不様】は、棍棒で巨大蜘蛛の脚を押しのけると、地面に膝をついた。
息が荒く、肩を上下させている。
「だ、大丈夫ですかっ!?」
「はぁ……ぁあ……大丈夫なわけ、あるかっ」
そして棍棒を杖代わりにして、よろよろとと立ち上がった。
『ナ ぁ ぜ だぁあ あ あ!?』
蜘蛛の【忌不様】は、憤慨したようにバタバタと脚を動かす。
「……トーゴ」
イチが2体の【忌不様】を交互に見て、首を傾げた。
「りょーほー、ヘン」
「ん? 変ってどういうこと?」
トウゴが訊き返すが、イチが答える前に再度、鎌のような脚の薙ぎ払いが来て、獣の腕と棍棒がそれを受け止めた。
ギギギ、と蜘蛛の脚を押しとどめながら、イチはクマの仮面をじっと見つめる。
「オイ……同類……頼むよ。気づいたなら、言わないでくれ」
「……」
「な、何だよ」
何故かクマは、無言のイチに気圧されていた。
気づいた、とはどういうことなのだろう。
「マツリさん。大丈夫ですか?」
なるべくイチ達の戦いの邪魔をしないように、壁の際まで下がる。
マツリはクマと蜘蛛を見て、どこか上の空だった。
「……あの時も、そうでした」
そして何か思い出したように、呟く。
「私があの蜘蛛に襲われたのも、この場所で……その時は、ここには最初、クマさんは居なくて」
蜘蛛の【忌不様】の攻撃が激しくなってくる。
イチの獣の腕は鋼鉄のような硬度の体毛のおかげで傷一つついていないが、クマは露出した腹部や腕に負傷が目立つようになってきた。
「それで……そう、だ。何で私、今まで忘れていたんだろう? クマさんは……クマさんが、生まれたのは」
蜘蛛の脚が、クマの顔面を掠めた。
パキッ、と。乾いた音がして、クマの仮面が弾け飛ぶ。
「――――ぁ」
クマは必死に手を伸ばすが、届かない。
カラン、と。仮面が地面に落ちて、クマの素顔が露になった。
黒真珠のような目玉が、4つ。
人間の女性の顔に並ぶそれは、まるで、
「く、蜘蛛の【忌不様】と、同じ……?」
トウゴが2体を見比べて言うと、クマは顔を腕で覆った。
「み、見るんじゃねえ! こんな……うがっ!?」
そして、その隙を見逃さない蜘蛛の【忌不様】が、脚でクマの背中を斬った。
背中の肉を削がれたクマはこちら側へよろめき、倒れる。
(ど、どういうことだ? 蜘蛛とクマが同じ顔で、でも敵対してて……)
まだ上手く状況が把握できないトウゴは、動くことができない。
しかし、
「クマさんっ!」
隣に居たマツリが、飛び出した。
そしてクマの元に駆け寄り、腕を掴んで重そうにこちらへと引きずり始める。
「――はっ」
それを見てようやくトウゴも踏み出し、クマの避難を手伝った。
「イチさんごめん! 少しの間、持ちこたえてくれっ!」
「……うん」
「お、おい……なに、助けてんだよ……見て、分からねえのかよ、オレ、は」
「みみ見て、分かります。クマさんは今、大怪我してますっ!」
「そうじゃ、ねえよ! この目だよ! あの蜘蛛と、一緒だろうが!」
「そう……ですね」
クマを壁際まで連れてくるとマツリが屈んで、その4つの黒目を見つめた。
「あの時も、そうでした。私が襲われそうになったとき、クマさんは……あの蜘蛛の【忌不様】の中から、出てきましたね。その瞬間、蜘蛛の【忌不様】は急に眠り始めて」
「……思い出しちまったのかよ。だから、ここに……来させたくなかったんだ」
マツリは、クマの額をそっと撫でた。
「クマさんは、蜘蛛さんだったんですね?」
「……」
クマは力が抜けたように、吐息した。
「知ってるかマツリ。クモとクマってな、どっか余所の世界の言葉じゃ、似たような発音になるらしいぜ。ちょっと音が違うだけで、気持ち悪ぃ虫から、格好良い動物になるんだ。結局どっちも、人間からは嫌われるんだけどな」
そして、よろよろと立ち上がった。
背中傷からは、まだドクドクと血が流れている。
「あれは、本当のオレだ」
棍棒の先で、イチと戦う蜘蛛の【忌不様】を指して、卑屈な声色で言った。
「そんでこのオレは、あのオレが成りたかった『何か』だ……儀式が不完全で、顔はこんなになっちまったけどな」
「元々1体だった【忌不様】が、2体に分離したってことか……」
「そんなとこだ。おかげで、同時に動こうとするとこの通り。マトモに力も出ねえ。アイツもやたら暴れまわってるが、内心じゃ、かなりキツイはずだ」
「そ、そうか……なら、このまま粘れば、勝てるぞ!」
クマが起きている限り、クマと蜘蛛の両方がダメージを受け続けるような状態になる。
そのまま粘れば、この場では何の制限もないイチが蜘蛛を倒せるのも、時間の問題ということだ。
そう考えていた矢先、クマが苦しそうに地面に膝をついた。
「――――って、大丈夫ですか!?」
「お、おぉ……」
「クマさんっ! この傷じゃもう……」
マツリが心配そうに、その肩に手を添えて、背中の傷を確認する。
「っ、テメエは何なんだよ……ビビリのクセに、こんな顔のバケモン……助けてんじゃねえよ」
「助けますっ! 私はクマさんを、その、あの――」
ギィン! と衝突音がして、腕を弾かれたイチが、蜘蛛の脚を避けるため後方へ跳躍した。
「もむん」
「イチさん!」
「……クモ、なんか、ゲンキになった」
「そ、そうか。クマさんが弱ってるから逆に……まずいぞ」
「……やっぱり、いっしょ?」
イチが、クマと蜘蛛を交互に指差す。
「う、うん。ごにょごにょ……って訳で」
事情を説明するため耳打ちすると、イチはくすぐったそうに目を細めてぶるっと震えたあと、納得したようにクマを眺めた。
「……じゃあ、ぶんり、すれば?」
そして何でもないことのように、そう言った。
「え」
「何言ってんだ同類。そんな、こと、簡単にできるワケ――」
「儀式」
蜘蛛の脚を右腕で弾きながら、イチが言う。
「……あれの儀式は、クマ。でもクマの儀式は、まだ」
「そ、そうか……一応、クマさんも新しい【忌不様】として生まれたわけだから、クマさん自身の叶えたい『欲望』と『儀式』があるべきなんだ!」
「お、オレ単体でも、儀式が?」
クマは縋るように、イチを見上げた。
「……」
こくり。と頷かれると、一瞬表情が緩んだが、
「――いや。ありえねえ。そういうことなら……ずっと頭ん中にあったコレが欲望で、儀式はきっとアレなんだろう……でも、だったら……無理だ」
しなりと項垂れた。
「な、どうしたんですかクマさんっ! 人間なら、私が居ますし、儀式の成立条件があれば、言ってくれれば――」
「む、無理だ! そんな、こと」
「……」
イチが爪先で、クマを軽く小突く。
「じかん、ない」
「う……」
「クマさんっ! 遠慮しないでくださいっ! 私、死ぬのとかは嫌ですけど、できることなら何でもしますからっ! だって、く、クマさんは、わわわ私の、その――」
マツリが、あわあわと声を上ずらせながら、
「――お友達、って、思ってますしっ!」
クマの大きな手を、握った。
「――なんで、だよ」
クマが、声を震わせる。
「こんな、バケモンなんだぞ」
「か、かか関係ありませんっ! クマさんは、クマさんですっ!」
「オレはデケエし、狂暴だし……」
「でも、本当は優しいですっ!」
「だいたい、本当のオレは、お前を襲おうとして……」
4つの黒目から、静かに涙が零れた。
「でもクマさんは、助けてくれました! 本当の自分から分離までして! だからクマさんはお友達なんですっ! ここから解放されたクマさんと、一緒にご飯食べたり、遊んだりしたいっ! それから、それからええと」
ほとんど愛の告白のような友達宣言をしたマツリは、せきを切ったように早口で補足説明を始めたが、クマの様子の変化に口を閉じた。
ゆらり、と。
クマが立ち上がる。
その全身からは、イチが本気の時と同等の黒い靄が発生していた。
霧は、クマの顔や背中を覆い、ジジジと小さな稲妻を走らせる。
「何なんだよ……何でそんな、お人好しなんだよぅ……」
ぽたぽたと、霧に覆われた顔から透明な雫が落ちる。
じわじわと、背中の傷が塞がっていく。
そして、さぁっと。
「――――」
クマの顔面を覆っていた霧が、消えた。
「……」
「……」
「……」
トウゴとイチとマツリは愕然として、その顔を覗き込んだ。
セミロングの茶髪が、さらりと揺れる。
少し大きめ口は、八重歯が目立つ。筋の通った高い鼻は、以前のままだ。
そして、その双眸は吊り目気味で、女性にしては迫力のあるものだったが、
「こ、これって……!」
2つの、人間の瞳。
そこに蜘蛛の【忌不様】の面影は、ない。
完全な人間の女性として受肉を果たしたクマが、新しい瞳を見開いた。




