第三ピリオド-2 次のステップ
部活終了後、修は市ノ瀬スポーツクリニックに来ていた。
先輩である市ノ瀬凪の父親が経営している整形外科だ。
凪の紹介で初通院してから約一ヶ月が経った。
もし痛みがあったり異常を感じたらすぐに来るようにと言われていたが、幸いなことに特にそういったことはなかったので、今回が二回目の通院となる。
女性看護師に名前を呼ばれ診察室に入ると、凪の父親であり院長である市ノ瀬圭吾が白衣姿で座っていた。
「やぁ永瀬君。一月ぶりだね」
圭吾が柔らかな笑みをたたえながら気安く手を振ってきた。
「お久し振りです。今日もよろしくお願いします」
「ははっ、相変わらず礼儀正しいね君は。さぁ、座って」
深々とお辞儀をする修に、圭吾は手で丸椅子を指し示した。
修は「失礼します」と言って椅子に腰かける。
「一ヶ月間、問題はなかったかい?」
「はい、痛みも前々から感じている以上のものはありませんでしたし、他の違和感も特になかったです」
「ふむ、それは良いね。ノートはつけているかい?」
「あ、はい」
修はバッグからノートを取り出し圭吾に手渡した。
「ありがとう」
圭吾はノートを開き1ページ目から順番に目を通していく。
このノートは修のリハビリノートだ。毎日の走った距離や時間、筋トレの内容などを事細かに記載している。
「膝を見せてもらうよ」
「はい」
圭吾が修の左膝を観察し始めた。
見るだけではなく両手を使って様々な刺激を与える。
そしてふくらはぎや太ももの筋肉も触診し、今度は左右の膝を見比べた。
「うん、ノートに書いてある通りしっかりトレーニングできているようだね。一月前とは比べ物にならない」
「え、そうですか……?」
感心するように言う圭吾だったが、修は疑いの声をあげた。
なぜなら自分では筋力がついたという実感がほとんどないからだ。
修の下半身は一月前と変わらずに細い。
「もちろん一ヶ月で目に見えて大きな変化がある訳じゃないよ。でも、明らかに前とは違う。それは、君が次のステップに進める土台ができたという点においてだ」
「土台、ですか?」
「そうだ。一月前までの君は運動をまったくと言っていい程していなかっただろう? その時の君の足腰は、それはもう貧弱なものだった」
なかなか辛辣な言葉だが、修も自覚があったので苦笑いを浮かべるしかなかった。
「だけど今は違う。毎日のトレーニングの積み重ねで、緩やかにだけど着実に君の筋肉は、運動する筋肉に変わっていっているんだ」
「運動する筋肉……」
「ここまではとても順調だよ。焦らずによく頑張った。素晴らしいよ」
圭吾が優しい声で褒め称えるので、修は照れ臭くなって鼻をこすった。
モチベーションを上げるためにわざと大げさに言っているのだろうが、それでも嬉しいものは嬉しい。
「さぁ、ここからが本番だ。君は確か、できるだけ早く復帰したいんだったね」
「はい、そうです」
「じゃあ、けっこうキツめのメニューを組むことになる。もちろん体が一番大事だから無理をさせるつもりはない。だけど、その一歩手前まではやってもらう。それでいいかい?」
「はい。よろしくお願いします」
修の言葉を聴いて圭吾は満足そうに笑った。
「OK! じゃあこの後はトレーニング室に行ってもらう。理学療法士の杉浦君が君を担当することになってるから、頑張ってね」
「はい、ありがとうございます」
「あ、そうだ永瀬君。ちょっといいかい?」
立ち上がりかけた修は圭吾に声をかけられ腰を再び下ろした。
「凪のこと、瑛子から……凪の母から聴いたよ。君が凪のために色々動いてくれたんだってね」
病院の話と関係がないからだろうか、圭吾は声のトーンを低くして周りにあまり聞こえないように言った。
「いえ、そんな、僕は何もしてないですよ」
修は両手を前で振って否定した。
実際動いたことは動いたが、凪のためになったようなことは何一つできていないと修は感じていた。
「いや、瑛子も褒めていたよ。『あんな子がうちに欲しい』ってね。私も概ね同感だ」
「そんな……買いかぶり過ぎですよ」
恐らくお世辞だろうが、修は照れ臭くなって俯いた。
「はは、どうだろうね。永瀬君、凪とはうまくやってるのかい?」
「えっ!?」
「えっ、て……。凪とは同じ部活なんだろう? 凪は優しくしてくれてるかい?」
「あぁ、そういう意味ですか……」
最近凪に告白されたばかりだった修は、まるで圭吾がそのことについて訊いてきているのかのようで驚いた。
しかし実際はまったく違うようだったので、修は胸を撫で下ろす。
「凪先輩とは上手くやってますよ。凪先輩、真面目でバスケにも詳しいし、とても頼りにしてます」
「そうか、それは良かった……。凪が倒れた時、仕事やら学会やらでろくに凪を支えてやることもできなかった。君がいなければ、凪は今頃もうバスケを辞めてしまっていたかもしれない。本当にありがとう」
修はぎょっとした。
圭吾が座ったまま修に向かって深く頭を下げたからだ。
自分よりいくつも年が上の男性に頭を下げられたのは初めてで、修はとても焦った。
「や、やめてください! 顔を上げてください医師!」
圭吾はゆっくりと頭を上げた。
その表情からも心からの感謝の思いが伝わってくる、
「これが伝えたかった。すまないね、呼び止めて。杉浦君はスパルタだから、気合いを入れて行きなよ」
後半はそれまでの雰囲気が一変し、あっけらかんと言い放った。
奥さんと違って表情豊かな人だなと思いつつ、修は頭をペコリとさげて診察室を後にした。
その後看護師に連れられて理学療法士の杉浦という人の所に向かった。
以前見させてもらったリハビリ室に行くのかと思っていたが、向かった先はそのさらに奥、トレーニング室という場所だった。
扉をくぐるとそこに広がったのはトレーニングマシンの数々だ。
リハビリ室にあった器具は、お年寄りや子供でも苦労なく動かせるようなものだったが、ここにあるのは恐らくトレーニングジムにあるようなものと遜色がない。
いや、もしかしたらそれ以上かもしれない。
「おっ、来たな!」
修がほぅっと息を吐きながら器具を見渡していると、奥の方から威勢のいい声が聞こえてきた。
そちらを見ると、やたら恰幅のいい、サイドを刈り上げた短髪の男性がにこにこした表情でのしのしと歩いてきた。
「杉浦せんせい、こちら永瀬さんです」
「OK! あとは任せてください!」
看護師は杉浦に資料を渡すとトレーニング室から出ていった。
「こんにちは! 君のトレーニングを担当する杉浦です! よろしく!」
「こちらこそよろしくお願いします。永瀬といいます」
杉浦が右手を差し出してきたので修はそれに応じた。
すると杉浦は修の右手を掴んで上下に激しく振ったので、修は体ごと揺さぶられる形になってしまった。
「まずは簡単にこの設備の説明をしよう。そのベンチに座ってくれ」
修が杉浦が指し示したベンチに腰かけると、杉浦も隣に座る。
「まずはこのトレーニング室だけど、どうだい、かなり立派なマシンがたくさんあるだろう?」
「そうですね、驚きました……。なんというか、病院にはあまり似つかわしくないというか……」
「はっはっは! そうだろう! ここまで本格的なマシンを用意している病院はそうそうないぞ! ほとんどは隣のリハビリ室にある器具で事足りるからな!」
杉浦は豪快に笑いながらまるで自分のことように誇らしげに言った。
「じゃあなんでこんなものがここにあるのかって話だが。それは、君のような人間のためだというのが答えだ」
「僕みたいな……?」
「ここでは負傷したアスリートの現場復帰のためのトレーニングを行っている。中学生から社会人に、数はそれなりだがプロのアスリートを現場復帰させた実績もあるぞ」
「それはすごいですね……!」
修は意外な実績に感嘆の声をあげた。
決して馬鹿にしていたわけではないが、まさかこの病院がそれほどのものとは思っていなかった。
「僕も普段はおじいちゃんおばあちゃんのリハビリを見ているんだが、市ノ瀬院長の特命が入るとこっちを担当することになっている。実を言うと最近こっちの仕事はあまりなくてね。正直退屈してたんだ。……おっと、これは他の人には内緒な? とにかく君が来てくれて嬉しいよ」
杉浦は優しそうだし茶目っ気もあってとても良い人そうだ。
これからトレーニングの指導を任せる相手としては申し分ないと修は安心した。
「早速取りかかろうと思う。永瀬君、君はここにあるようなマシンでトレーニングをした経験はあるかい?」
「いえ、初めてです」
「そうか、じゃあまず一通り説明をしようか」
修は杉浦に付いてマシンを回り、それぞれの説明を受けた。
肩、胸、腕、腹、太腿など、細かい部位に対応したマシンが取り揃えられており、修はこの部屋で鍛えられない筋肉はないんじゃないかと思えた。
それに扱い方もかなり簡単だ。
修は初めてのトレーニングマシンに気持ちが昂ってくるのを感じた。
「ここまでで何か質問はあるかい?」
「いえ、大丈夫です」
「OK! じゃあ早速取りかかろうか。ちなみに、市ノ瀬院長からは多少いじめても構わないと言われているが、君の方はその覚悟はあるかい?」
そう話す杉浦の目が、先程までとは少し違い何やら危険な光を放っていたため、修は一瞬気圧されそうになった。
しかし最初の診察の時点でスケジュールを組んでいたため、ここで行われるある程度のことは既にわかっていた。
先程も圭吾から無理をする一歩手前まではやってもらうと脅されたばかりだ。
修の気持ちはもうできている。
「……はい、お願いします!」
「良いだろう! 始めるぞ修!!」
杉浦が満面の笑みで笑うと顔中に皺が浮き立った。
その顔は一瞬鬼のようにも見えて、修は背筋がゾッとするのを感じた。