第四ピリオド-1 失意
市ノ瀬凪はまどろみの中夢を見ていた。いや、夢というよりはこれは過去の記憶だ。
中学時代の総体準決勝、キャプテンとしてチームを率いていた凪は、優勝候補筆頭の学校と当たった。
結果は惨敗。同じ三年の双子の姉妹に良いようにやられた。
手も足も出ないままタイムアップのブザーを聞いた凪だったが、不思議と胸に広がる感情は悔しさではなく、相手の二人への称賛と羨望だった。
同世代にここまで上手い人がいたのか。
ここまで上手くなるために尋常じゃない努力をしてきたんだろうな。
凪は試合後の挨拶を終え、少しだけ二人と、特に同じポジション――PGだった姉の方と話をしたいと思い、声をかけようとした。
絶対的な力の差を突きつけてきた彼女のプレイヤーとしての思考を少しでも知りたかったからだ。
しかしそれは叶わなかった。挨拶が終わった瞬間二人は険しい顔で会話を始めた。漏れ聞こえてきた声は「こんなんじゃダメだ」とか、「あの場面もっとやれることがあった」とか、この先を、更に上を見据えた言葉ばかりだった。
そこで凪は思ってしまった。
――あぁ、この二人とは次元が違う。
――私にはここが限界なんだ。私がこれより上に行くことはできないんだな。
確かにそう思った筈だ。勉強のこともあるのだから、バスケはここで終わりだと決心した。
そう思っていたのに、まだバスケに執着しているのは何故?
本当は受験勉強なんてしたくないのよ。バスケをしている間はそのことを忘れられるものね。
あなたは、バスケをしている自分にしか存在意義を見出だせないのでしょう?
過去の自分が意地悪な笑みを浮かべて嘲笑う。
――違う……! 私は…………!
目を開いた凪の視界に最初に飛び込んで来たのは見知らぬ天井だった。
(ここは……? 私、眠ってたの……?)
直前の記憶が思い出せない。
とりあえず状況を確認しようと思い、腕を使って体を起こそうとするが、力が思うように入らず上手く起き上がれない。
「市ノ瀬先輩!」
声がした方を見ると、部唯一の後輩男子が丸椅子に座っており、こちらを見て安堵の表情を浮かべていた。
「永瀬……」
「良かった。目が覚めて。あっ、起き上がらないでください。そのまま安静にして」
肩を優しく押さえられ、促されるまま少しだけ起こした上半身を再び倒した。
「私、どうしちゃったの?」
「部活中に倒れたんですよ。覚えてないんですか?」
「……まったく思い出せないわ」
凪は修から告げられた事実にショックを受けながら、改めて周りを見回した。
複数人患者を収容できる広めで簡素な病室だ。他には誰もいないようだった。
そして左腕には点滴のチューブが繋がれている。
段々と状況が飲み込めてきた。倒れた自分を永瀬や恐らく先生たちが病院に運んでくれたのだろう。
凪は自分の目が潤んできたことに気付いて慌てて目を閉じた。
悔しさや不甲斐なさ、申し訳なさなど、様々な感情が込み上げてくる。
テスト期間中、睡眠時間を削って猛勉強をした。それだけでなく、体育館でのバスケの自主練習や早朝の走り込み等も行っていた。
そんなことをしていたのも、自分は部活と勉強どちらも全力でこなせるのだということを両親に証明したかったからだ。
しかし実際はたったの一週間でこんな結果になってしまった。
「大丈夫ですか?」
「だっ、大丈夫よ……」
修が心配そうに声をかけてくれたが返事の声が少し上ずってしまった。修は自分が泣いていることに気付いてしまっただろうか。
「……とりあえず、今は安静にしててください。さっきナースコール押したんで、すぐ看護師さんが来てくれますよ」
修の言う通り間もなくして看護師が急ぎ足でやってきた。
看護師が体調に関する質問をいくつも投げ掛けてくるので、凪はそれらに一つずつ答えていく。
まだ少し頭がふらつく感覚があるが、痛みや気持ち悪さなどはない。
「じゃあ医師に報告してきますから、まだ横になっててくださいね」
そう言って看護師は病室を出ていった。
看護師とのやりとりを一部始終聴いていた修は、凪が軽症であるとわかって更なる安堵の表情になる。
「だいぶ回復したみたいですね。良かったです」
「……ごめんなさい。迷惑かけたみたいね」
「そんなこと気にしないでください。俺も、マネージャーとして部員の体調を把握できてませんでしたから……。そうだ、川畑先生が今下にいるんです。市ノ瀬先輩のお母さんが来てくれるらしくて、それを待ってるんですけど」
母がここに来る。当然だ。部活中に倒れて病院へ運ばれたとなれば、親に連絡がいくのが普通だろう。
しかし瑛子がここに来て、どんな言葉をかけられるかということを考えると、自然と凪の顔は曇ってしまう。
凪は自分と母親が話しているところを修に見られるわけにはいかないと感じた。
「永瀬、付き添ってくれてありがとう。もう大丈夫だから、あんたは学校に戻って」
「いや、せめてお母さんが来るまではいますよ。多分もうすぐ来るだろうし」
それが嫌だから帰ってほしいの、と反射的に言いかけた時だった。
病室に二つの人影が入ってきた。一人は川畑、そしてその後ろに続くのは凪の母、瑛子だ。
「凪!!」
瑛子が凪の顔を見た瞬間名前を叫ぶ。
凪はどんな罵りを受けるのかと身構えて視線を逸らした。
しかし瑛子の行動は凪の予想とはまったく違っていた。
「凪……無事で良かった……!」
瑛子は凪の体を両手で強く抱き締めた。
あまりに予想外の出来事に凪は困惑してしまう。母に抱き締められるなんていつぶりだろうか。
抱き締め返した方がいいのかどうかわからず、凪は「ごめんなさい」と呟いた。
「全然大したことなかったから。もう大丈夫だから」
「大したことない?」
瑛子はゆっくりと凪から体を離した。
「部活中に気を失って倒れることが、大したことないわけないでしょう」
そう話す瑛子の顔はとても厳しく、冷徹さすら感じさせるものだった。
「そのあたり、先生はどう思っていらっしゃるのかしら?」
「はい。一歩間違えれば命の危険すらあったと思っております。この度は私の監督不行き届きで凪さんがこのようなことになってしまい、誠に申し訳ございません」
瑛子の問いに川畑が深々と頭を下げて謝罪の弁を述べた。
教師が自分の親に頭を下げているのを見るのがいたたまれず、凪は咄嗟に目を逸らす。
するといつの間にか椅子から立ち上がっていた修と目が合ってしまった。
修は戸惑っているような顔で凪を見ていた。
「それは先程聞きましたのでもう結構です。凪は無事だったのですから、私としてもこの件を大事にするつもりはございません」
その言葉に凪は安堵した。瑛子のことだから、責任の所在や今後の対策等といった苦情を川畑や学校に捲し立てるのではないかという不安があったのだが、どうやらそれはなさそうだ。
「ただ、このようなことがあった以上、娘をバスケットボール部に預けておくわけにはいきません。娘は退部させていただきます」
「えっ!?」
驚きの声を上げたのは凪……ではなく修だった。
凪は最初からこうなることがわかっていたので別段驚きはしなかった。病院に運ばれたことがわかってから覚悟していたことだった。
「あなたが永瀬君? 娘を運ぶのを手伝ってくれたそうね。ありがとう」
「い、いえ、そんなことは良いんです。それより、市ノ瀬先輩を退部させるって……」
「そうよ。凪もそれで構わないわね」
凪は俯いたまま何も言わずに黙り込む。
「市ノ瀬先輩! どうして何も言わないんですか!?」
「落ち着きなさい永瀬君」
修が凪に向かってすがるように叫んだのに続いて、川畑が仲裁するように穏やかな声をかけた。しかし川畑も少し動揺しているのか、いつもより余裕を感じられない。
「永瀬君、君はもう帰りなさい。市ノ瀬さんとは先生がお話しておくから」
「で、でも!」
修がなおも食い下がろうとする。
しかし修がここにいても話がややこしくなるだけだ。それに、修にはここからの話は聞いて欲しくない。
「永瀬。お願いだから帰って」
「市ノ瀬先輩……」
修がか細い声で名前を呼んだ。
どんな顔でいたのかを確認することはできなかった。