第二ピリオド-8 市ノ瀬凪の憂鬱
「凪さん!」
大声で自分を呼ぶ声に現実に引き戻され、凪は咄嗟に声がした方に両手を出した。
バシッという音とともにボールが左手に当たり、瞬間激痛が走る。
「痛っ!」
凪は顔を歪めて左手を引っ込め右手で包んだ。
恐る恐る左手を見てみると人差し指が真っ赤に腫れ上がっていた。
じんじんと鈍い痛みが手の平全体に広がる。
「すみません! 大丈夫っすか!?」
凪にパスを出した星羅が申し訳なさそうに近づいてきた。
「謝るのは私の方よ……。練習中なのに、ぼーっとしてたわ。ごめんなさい」
プレー中にボールから意識を外すなど、バスケットプレイヤーとしてあってはならないことだ。
凪は奥歯を噛み締めながら、不甲斐ない自分を心の中で責めた。
「とりあえず冷やした方がいい。星羅、コールドスプレーを」
「はい!」
灯湖の指示で星羅がすぐさま救急箱へと走る。
「ほんとにごめんなさい」
自分のせいで後輩に責任を感じさせてしまったこと、練習を止めてしまったことなど、諸々に対して凪は力なく謝罪の言葉を述べた。
「大丈夫なの?」
「ええ。大したことないみたい」
晶が心配そうに声をかけるが、それは無用なことだと言葉で制す。
「持ってきました!」
「ありがとう」
星羅からコールドスプレーを受け取り患部に吹き当てる。
超低温のガスが炎症の鈍い痛みを和らげるが、代わりに刺すような刺激がやってきた。
「氷嚢を用意した方がいいだろう。星羅、すまないが頼めるかい?」
「もちろんっす!」
「大丈夫よ。自分でできるから皆は練習を再開して」
恐らく灯湖は星羅が責任を感じすぎないよう意図的に彼女に指示を出しているのだろうが、自分でも言ったように大したことない怪我だ。
それに自分の不注意で起こったことに後輩をこき使うことなどできない。
「じゃあちょっと外すわね」
凪は心配そうに声をかけてくる部員たちをかわして、救急箱から氷嚢を取り出しフロアを出た。
本当に軽い怪我なのに、どうして皆そんなに気遣うような視線を自分に向けるのか。凪はそのことにすら苛立ちを感じてしまった。
栄城の体育館には飲み物を冷やしたり、こういった時に患部をすぐ冷やせるよう少し大きめの製氷機が用意されている。
氷嚢に水と氷を詰めて人差し指に押し当てる。最初は冷たさに顔をしかめたが、慣れてくるとだんだん痛みが和らいでいくのを感じた。
凪は深いため息を吐いた。
(何やってんだろ私……)
最近勉強に時間をとられている上に、ストレスからかベッドに入ってもなかなか寝付けない日々が続いていた。
だがそうしてまで無理矢理参加している部活で、集中が途切れて怪我をするなど我ながら情けないと思った。
(お母さんにはバレないようにしなきゃ)
バレたらまた小言を言われるのは目に見えていた。
幸い患部は利き手ではない左手だ。隠すのはそれほど難しくないだろう。
母親のことを考えると凪の胸には何とも言えないモヤモヤした感情が沸き上がってくる。
凪は勉強も部活も両立出来ているという自負があった。
しかし母親はことあるごとに勉強は進んでいるのか、部活している暇なんてあるのかなどとくだらない小言を言ってくる。
その事が凪にとって過剰なストレスとなっていた。
「!」
気が付くと凪は右手で氷嚢を高く振りかぶっていた。
危なかった。もう少しで無意識の内に硬い氷の入った氷嚢を床に叩きつけるところだった。
荒くなっていた息を整えながらゆっくり腕を下ろす。
(駄目よ……落ち着きなさい……)
腫れ上がった人差し指に意識を集中させ、深く呼吸を繰り返す。
そして凪は自分に言い聞かせるように呟いた。
「私はお母さんの思い通りにはならないわ」
部活が終わり、凪は自宅前まで帰って来ていた。
玄関を開ける直前で、指にテーピングを巻いていたことを思い出す。
こんなものを付けていれば一目で怪我をしているとバレてしまう。
慌ててテーピングを剥がし、スカートのポケットに乱暴に突っ込んだ。
改めて扉に手をかけ、ゆっくり開いて中に入ると凪は驚きで声を上げそうになった。
「おかえり凪」
玄関ホールに瑛子が立っていた。偶然その場にいたのではなく、明らかに凪の帰りを待ち構えていたようだ。
「た、ただいま……」
咄嗟に左手を自分の背中に隠してしまった。
逆に目立ってしまうだろうから敢えて隠さずに行こうと思っていたのに、目の前の母親から発せられる威圧感に圧されて体が勝手に動いてしまった。
しかし幸いにも瑛子は凪の左手には目もくれず、じっと顔を見つめていた。というより睨んでいた。
「どうしたのこんな所で……」
「凪、あなた私に嘘をついていたでしょう」
「嘘? なんのこと?」
瑛子は明らかに怒っていた。だが凪には心当たりがない。
「とぼけるのはやめなさい。部活のことよ。部活をいつまで続けるかの約束をした時、あなた言ったわよね。冬の大会が三年にとって最後の大会だから、それまではやらせて欲しいって」
「ええ、そう言ったわ」
瑛子の目がより一層険しいものに変わる。今にも怒鳴ってきそうな迫力である。
「お友達に聞いたわ。三年はこの前あった総体で引退するのが普通らしいじゃない」
(そういうことか……)
凪はまずいと感じた。確かにその通りだ。
一般的な高校なら総体が最後の大会となり、それが終われば引退、世代交代となる。
凪は瑛子が言いたいことを理解した。総体が終わったのだからもう引退のはずだ、部活を辞めろということだろう。
凪は必死に言い訳を考えた。
「ば、バスケは冬の大会が一番大きな大会なのよ。他の学校だって、三年が出場してるわ」
「それは強豪校や頭の悪い三流高校の話でしょう? あなたには当てはまらないわ」
瑛子が冷たく言い放つ。
「でも、嘘は言ってない! お母さんだってそれで納得してたじゃない! それに成績だって落としてない!」
「黙りなさい!! あなたのためを思って言っているのがわからないの!?」
凪の言い訳に瑛子の怒りが頂点に達した。
感情のまま怒鳴り散らす瑛子に凪はたじろぎ俯いてしまう。
「これ以上部活を続けるのは無意味なのよ! 玉つき遊びが将来のなんの役に立つって言うの!? あなた、お父さんのような立派なお医者様になりたくないの!?」
「!!」
それまで瑛子に怯んでいた凪だったが、あまりにも心無い言葉に反射的に怒りが込み上げてきた。
「ふざけないで……」
「……なんですって?」
凪は目を見開き瑛子に鋭い視線を向ける。
「無意味!? 玉つき遊びですって!? 私の大好きなものによくもそんなことを! 侮辱するのもいい加減にして!」
「あ、あなた……親に向かって何て口の聞き方を……!」
瑛子は親の威厳を保つために反論しようとするが、凪の苛烈さにうろたえている。
「少なくとも勉強勉強としか言えないあんたと話しているより、玉つき遊びの方がよっぽど有意義な時間だわ!」
「……!!」
瑛子は凪の言葉に強い衝撃を受けたように口と目を見開いて黙った。
その隙を逃すまいと凪は靴を脱ぎ捨て、瑛子の脇を通り抜けた。
「待ちなさい凪! まだ話は終わってないわ!」
瑛子は慌てて右手を伸ばし、逃げようとする凪の左手を強く掴んだ。
「痛っっっ……!!!」
あまりの痛みに凪は反射的に瑛子を右手で突き飛ばした。
尻餅をつき、その顔は信じられないものを見るかのような表情に変わる。
だが凪はそれどころではなかった。左手人差し指から広がる激痛に、汗が吹き出し涙が溢れる。
「な、何よ。そんなに強く握ってないじゃない!」
瑛子は腰を上げ、乱暴に凪の左手をとる。
その人差し指は部活で負傷した時よりも真っ赤に腫れ上がっていた。
「な……! あなた、怪我してたの!?」
もう凪には限界だった。心も指もものすごく痛む。
今すぐこの場から離れて、瑛子の顔を視界から遠ざけたかった。
「別に大した怪我じゃなかったわ! ついさっきまではね!」
離して、と叫び凪は瑛子の手を振り払って階段を駆け上がった。
そして自室の扉を乱暴に閉じて鍵をかけ、ベッドに倒れ込み声を抑えてすすり泣いた。
追いかけてきた瑛子が扉の前で何やら叫んでいたが、凪は耳をふさいで遮断した。