第二ピリオド-7 市ノ瀬スポーツクリニック
(着いた……。ここが市ノ瀬先輩のお父さんの病院)
水曜日の放課後。
電車で四駅移動して10分程歩いた先にそこはあった。
駐車場に出ている看板には「市ノ瀬スポーツクリニック」と出ている。
敷地面積的にも階層的にも大きな病院ではないが、外観は綺麗で車も多く停まっている。
中に入って受付を済ませ待合室を見回してみると、自分の順番を待っている人達でいっぱいだった。
凪が父親を「近所では名医と評判」だと言っていたが、その通りのようだ。
修は空いている席を見つけてそこに座った。そして持参したバスケの雑誌をカバンから取り出し適当に開く。
今月末に行われる全国総体に向け、注目の高校や選手を特集していた。
今では修もこういったページも問題なく読めていた。吐き気がすることも、頭が痛くなることもない。
少し前まではあれほどまでに拒絶反応が出ていたのに、一つの出来事ですんなり克服できるとは、人の心というものは複雑で単純であると修は思った。
昨日には体育でバスケがあったが、修は普通に出席し見学していた。
平田にシュートの撃ち方を教えていたら、他のクラスメイトも「教えてくれ」とせがんできて大変だった。
しかし、またそんな風にバスケで輪の中心になれたことが心地よくて嬉しかった。
パラパラとページをめくると、栄城がある県の注目高校が載っていた。
東明大付属名瀬高校。
記事を読むとここ数年はほぼこの高校が全国に出場しているようだ。
注目選手として二人の選手が取り上げられている。
その二人は見た目もそっくりで苗字も同じ。双子の姉妹のようだ。
(栄城が全国に行くためには、必ず倒さなきゃいけない相手か……)
そんな風に考えたが、それはまだまだ気が早いと修は首を振った。
栄城はチームとしてバラバラだ。まずはそれらをまとめることが先決だろう。
(道のりは険しいな)
修は薄く苦笑いをしながら記事を読み進めた。
すると修を呼ぶ声がしたのでそちらを見てみると、ナース服を着た女性と目が合った。
予約をしていたので待ち時間もほとんどなく診察してもらえるようだ。
女性に案内され診察室に入ると、40代くらいで顔の丸い優しそうな男性医師が座っていた。
「よろしくお願いします」
「こんにちは。とりあえずここに座って」
頭を下げて挨拶をする修を、医師は微笑みながら目の前の席に促した。
「娘から話は聞いているよ。私が凪の父です。凪の後輩の永瀬修君だね」
「はい。凪さんにはいつもお世話になっています」
「若いのに礼儀正しくて素晴らしいね」
市ノ瀬医師は大袈裟にリアクションをとりながら修を褒めた。
修はそれが嬉しくて恥ずかしくて、小声で「ありがとうございます」と言いながら視線を落とした。
「じゃあまずは今の君の状態から聴こうか。いくつか質問させてもらうよ」
市ノ瀬医師が質問し、それに修が答えるということを何度も繰り返す。
いつ、どのように怪我したのか、その時はなんと診断されたのか、手術はしたのか等、順を追ってすべて説明した。
「なるほど、じゃあベッドに横になってもらえるかな」
市ノ瀬医師の指示で修は傍らのベッドに横たわった。
「ここは痛むかい? じゃあここは? こうするとどうだい?」
市ノ瀬医師が修の左膝に指で圧を加えたり、軽く横に捻ったり曲げ伸ばしたりしながら質問を重ねる。
「痛みはもうほとんどないみたいだね」
「そうですね」
曲げ切ったり伸ばし切ったり、あるいは左側に深く捻ると少し痛むが、顔を歪める程ではない。
「よし、次はMRIを撮ろうか。やったことはあるよね」
「はい」
MRIは磁気や電磁波を用いて体の断面的な写真を撮ることができる機械だ。
修は撮るのは久し振りだったがもう何度も経験したことがあるので、特に緊張もなく長い撮影時間を過ごし終えた。
そしてまた診察室に戻ると、先程の診察時にはなかった修の膝の画像データが、市ノ瀬医師のデスク上にあるパソコンの画面に映し出されていた。
「うん。君の手術を担当した先生はかなり優秀だったみたいだね」
市ノ瀬医師は写真を使いながら修に様々な説明をしてくれた。
聞くところによると膝の治り具合そのものはかなり良い状態らしい。
修はその情報が得られてとりあえず安堵した。
「さて、今言ったように日常生活にはもうほとんど影響はないだろう。極力膝に負担をかけないようにさえすれば、他には何も必要がないわけだ。でも、君が聞きたいのはそういうことじゃないんだろう」
市ノ瀬医師は微笑みは崩さずに先程より少しシリアスな表情になった。
「一年近く放っておいた怪我の診察を受けるってことは、何か考えてることがあるんじゃないかい?」
市ノ瀬医師は修が相談したいことがわかっているようだ。
さすがは医師だ。こういう経験は何度もあるのだろう。
「……選手として復帰したいと思ってます」
「『選手として』というのは、具体的にはどの程度を想定している?」
その質問に修はすぐには返答できなかった。
汐莉と選手復帰の約束をしてから、それについては考えてきており答えもあった。
しかしそれを口にするのは初めてだ。
「心配しなくていい。私は医者だ。患者の想いには本気で答える」
躊躇する修に市ノ瀬医師が力強い言葉を投げ掛ける。
こんな格好良いことを言ってくれる人が他にいるだろうか。
それにこの人は凪の父親だ。修は信用してもいい気がした。
「……将来的にプロの選手になるつもりです」
修ははっきりとした口調で言った。
やるからには上を目指す。
完全に誰かさんからの影響を受けまくっている。
しかし口に出してから修はやはり不安になった。
自分でも無謀だと思うし、自信があるかと言えばそうでもない。
そんな修の言葉を市ノ瀬医師は受け入れてくれるのだろうか。
しかし修の不安はすぐに吹き飛ぶことになった。
「わかった。じゃあ私もそのつもりで話そう」
「……笑わないんですね」
「笑う? とんでもない! 素晴らしいじゃないか。私は君の実力を知らないし、この時期に怪我でブランクがあることがプロになることにおいてどれ程影響があるのかもわからない。だけどね。君が強い決意をもってその言葉を口にしたというのはわかる。尊敬の念さえ抱くよ」
「あ、ありがとうございます……」
市ノ瀬医師の言葉に修は背中がむず痒くなるのを感じた。
「話を戻そう。プロになるということは、長い目で見ても君にとってバスケが日常になるということだ。つまり毎日のように膝に負担をかけるということになる。それが可能か不可能かという話だが」
修はゴクリと唾を飲み込んだ。緊張で全身の筋肉が強ばっていくのを感じる。
「それは、可能だろう」
修はホッとした。しかしその安心を遮るように市ノ瀬医師が言葉を続ける。
「だが、かなりリスクは高いということは断言しておく」
「……リスク、ですか」
「ああそうだ。君の場合、手術の腕が良かったこともあって今はかなり状態が良い。しかし短期間で二度同じ靭帯を痛めてしまったために、普通の人よりも靭帯は弱まっているんだ」
予想はついていたことだが、改めて医師から言葉にされるとはっきりとした現実として修に覆い被さってくる。
修は愚かだった過去の自分を殴りたいとさえ思った。
「これからリハビリをして、まずは普通にバスケができるようになったとしても、常に再発のリスクは抱えたままだ。毎日のようにトレーニングや試合があるプロの選手になるのはかなり厳しいだろう。酷ければ二度と正常に歩行できないレベルの怪我をする可能性もある。医師の立場としては、私はおすすめできない。それでも」
市ノ瀬医師は一息おいて改めて修の目を真っ直ぐ見つめた。
「それでもプロになりたいと思うかい?」
「はい」
市ノ瀬医師は驚きに目を見開いた。
まさか即答が返ってくるとは思いもしなかったのだろう。
すると市ノ瀬医師はくっくっくと笑った。
しかしその笑いには修を嘲る意図などはまったくないとすぐにわかった。
「すまない、笑わないと言ったのに。誤解しないで欲しいんだが、この笑いは感心の笑いなんだ。あまりにも君が格好良いものだから」
「いえ、大丈夫です」
「君は強い子なんだね」
「そんなことないです。ただ、弱い自分を変えたいと思っているだけですよ」
優しい目で微笑む市ノ瀬医師に修も微笑み返した。
「意地悪なことばかり言ってすまない。君の決意がどれ程のものなのか知りたかったんだ。病気や怪我には患者の気持ちが何よりの薬だからね」
その後はリハビリの方法や練習復帰までのスケジューリング、どの程度の運動なら可能なのか等を話し合った。
市ノ瀬医師は真剣に、親身になって修に付き合ってくれたので、修はこの医師への信頼がどんどん高まっていくのを感じた。
これまでは目的までの道筋が不明瞭だったが、それがはっきりしたことによって修のモチベーションもかなり上がってくる。
「今日話すべきはこんな感じかな。この後うちのリハビリ設備を試していくといい。今後何かあれば凪を通してでも構わないからなんでも聞いてくれていいよ」
「ありがとうございました。またよろしくお願いします」
「あ、ちょっと待って」
頭を下げて席を立とうとした修に、市ノ瀬医師が声をかけた。
「部活での凪の様子はどうだい?」
「凪さんですか? ええと、最近は少し元気がないように見えますね……」
修は口に出してから余計なことを言ってしまったかもしれないと後悔した。
市ノ瀬医師は暗い表情で笑い「そうか……」と呟いた。
「すまないね、呼び止めて。凪のことこれからもよろしく」
「こちらこそ。では、失礼します!」
その後理学療法士の付き添いの元、院内の器具を使ってリハビリを行ったが、その間も市ノ瀬医師が最後に見せた表情が修の頭をぐるぐると巡っていた。
(市ノ瀬先輩……何かあったのかな)