第四ピリオド-4 握手
「お前にとっては思い出したくもない話だと思うけど、それは俺にとっても同じだった。……いや、同じというのは違うな。当然お前の方が苦しかったと思う。とにかく、俺の方も色々あったんだ」
高橋の顔はどんどん青白くなっていく。
「お前に怪我させた瞬間、俺は頭の中が真っ白になって……。めちゃくちゃパニクってた。膝を抱えて呻いてるお前を見て、俺はなんてことをしてしまったんだ、って……。チームメイトや先生が慰めて、励ましてくれたから、そのときはなんとか気持ちを落ち着かせることができた。けど翌日、決勝戦の日に体育館に行ったら、他のチームの奴らが俺を見る目が、明らかに悪意のこもったものになってた。永瀬は県内じゃ知らないやつはいないって程のヒーローで……。そんなやつを怪我させた俺は、完全に悪役になってた。わざと俺に聞こえるように悪口を言うやつもいた。でも、それでも、なんとか心を平静に保って試合に入ったんだ。自分の体の異変に気づいたのは、試合開始すぐだった……。俺はイップスになってたんだ」
「イップス?」
もちろんその言葉は知っていた。
精神的な要因により、思うようなプレーができなくなったり、特定の動作の際に体が動かなくなってしまう症状のことだ。
栄城で言えば最近まで、灯湖が右サイドにキックアウトパスができなかったのもイップスと言えるだろう。
「あぁ。俺の場合はディフェンスのとき、激しい体のぶつけ合いができなくなってた。特にブロックに跳ぼうとしたとき、足の裏が強力な接着剤で床に貼り付けられたみたいに動かなくなる」
そのとき修はハッとした。
そういえば前回見たときも、先程見たときも、高橋はゾーンディフェンスの一番先頭を守っていた。
普通高橋のような長身の選手はゴールに近い位置を守る。
だが高橋はゴールから最も遠い場所を常に守り、ゴール下の攻防には参加していなかった。
(それは高橋が跳べない選手だからだったのか……)
「俺はすぐにベンチに下げられた。ろくにディフェンスできないやつは当然戦力にならないからな……。結局試合は惨敗。お前に怪我させてまで勝ち上がった決勝だったのに、不様な姿を晒しただけで終わってしまった」
そう言ったあと、高橋は自虐的に渇いた笑いを漏らす。
しかし修は困惑した。
修にとってはそんなことどうでもいい話だ。
だから少し怒りの孕んだ声で反論する。
「そんな話を聴かせて、だからなんだって……」
「永瀬くん、ちょっと待って。まだ続きがある。もう少しだけ聴いてあげて」
しかし汐莉に遮られてしまった。
横目で汐莉を見ると、とても真剣な表情をしている。
修はため息を吐き、渋々とその言葉に従った。
「それからが更に地獄だった。単刀直入に言うと、学校でいじめられ始めたんだ。他校の生徒に大怪我負わせたこととか、イップスになったこととかがいつの間にか広まってて……。しかも、そのいじめにはチームメイトだったやつらも混じってて……。
初めての経験だったよ。陰口を言われたり、仲間外れにされたり、物を隠されたり……。仲間だと思ってたやつにまでそんなことされるなんて、思ってもみなかった。だけど、俺はそれを黙って受け入れた。俺のせいでチームそのものが悪者みたいになってしまって、みんなには嫌な思いをさせてしまったしな……」
高橋は当時のことを思い出しているのか、今にも泣きそうに顔を歪めている。
修はそれを見て少し胸が痛んだが、そんなことで気が収まるわけではない。
「いじめられたりしたことは気の毒だと思うけど、自業自得だろ。お前が自分で招いた不幸で苦しんだって話を俺にして、俺が同情するとでも思うのか?」
「いや、同情してもらおうなんて思ってない。俺が話したいのはここからなんだ」
高橋は仕切り直すように、短めの深呼吸をした。
そして瞳に力を込め、改めて修の目を見つめる。
「イップスになったことも、いじめられたことも……これは俺への罰なんだ、これを受け入れることが永瀬への償いなんだ……。そんな風に思ってた。だけどそれはまったくの勘違いだった。自分に都合の良いように考えてたんだ。俺の行動が永瀬への償いになってるってのは勝手な思い込みだ。ただの自己満足だ。永瀬に会って、いまだに苦しんでる姿を見て、改めさせられた。何も償えてやしないんだって。俺が新しい仲間と楽しくバスケをしてる間も、永瀬はずっと苦しんでる。そりゃそうだよな……。俺は所詮ちょっと上手いだけの凡人。片やお前は周りから将来を期待されたスター。被った代償に釣り合いが取れてないんだ……。だから……」
高橋が再び深呼吸をした。
修は高橋の口からどんな言葉が出るのかわからず、無意識に身構える。
「もし俺のせいで、永瀬がこれからも苦しみ続けるのなら……。永瀬が望むなら、俺はバスケを辞めるよ。そして二度とお前の目の前に現れない」
強い決意のこもった言葉だった。
修は驚いて目を見張る。
隣の汐莉にとってもまさかの言葉だったようで、両手で口を抑えていた。
高橋はそれ以上言葉を続けない。
修からの返答を待っているようだった。
高橋の目は本気だった。今の言葉に嘘は感じられない。
修が「バスケを辞めろ」と言えば、確実に高橋はそれを受け入れるだろう。
そうすれば高橋と顔を合わせなくて済む。
もうこんなに苦しい思いをしなくて済む。
それは修にとって願ったり叶ったりなことだ。
これからバスケを続けていく上で唯一と言っていい障害がなくなるのだから。
しかし修はその言葉を言えないでいた。
(話したら変わるってのは本当だな……)
目の前の少年は自分の行いに責任を感じ、後悔し、罪悪感に苛まれている。
高橋が"いいヤツ"であることは、話していて充分に理解できた。
そして話している間に少しずつ薄れてきてしまったのだ。
この少年を恨む気持ちが。
だがだからといって許してしまうのが正しいのか。
修が高橋に対して抱いている感情は、そんなに簡単なものではない。
しかしながら、修の頭には今までになかった「許す」という選択肢がわずかながら顔を出している。
あと少し何かがあれば。
修の胸にある黒いもやもやが、綺麗に吹き払われるかもしれないのに。
高橋はまだ修の言葉を待っている。
その姿はまるで死刑宣告を受け入れる囚人のようだった。
そして修は高橋がそんな風に佇むのを見て忍びないと思った。
「……一つだけ聴かせてくれ」
「あぁ。なんでも答えるよ」
「……それだけのことがあったなら、バスケをしてて色んなことを思い出すだろ。つらくなかったのか」
「あぁ。もちろん、つらかった。今だってつらいよ」
「……そんな状態なのに、なんでお前はバスケ続けてたんだ。昔みたいにプレーできなくなって、バスケをしてたせいでいじめられることになって……それなのになんでバスケを続けようと思った?」
その質問に、高橋は少し考える素振りを見せる。
「そんなの決まってる……。けど、それを言うのはお前に対して不誠実だ……」
高橋は自分の答えを口にすることをためらっているようだった。
「……いいから言えよ。なんでだ」
しかし修は問い詰める。
このことは絶対に聴いておかなくてはならないと思った。
すると高橋は少し間を空けてから、決心したように言った。
「バスケが好きだからだ」
修は短く、鋭く息を吸った。
夏の気温で空気は生暖かいはずなのに、肺にはまるで高原の空気が入ってきたかのように胸がすっとする。
「自分の指先から放たれたボールが綺麗にゴールに吸い込まれたとき……。仲間との連携が、パズルのピースが繋がるみたいにがっちり噛み合ったとき……。そんな感覚を味わってしまったら、どれだけ自分が格好悪くても、離れたいと思えない」
そう呟いたあと、高橋はくしゃっと顔を歪ませて笑った。
その瞬間、修はすべてを理解する。
(あぁ……こいつも同じなんだ……)
修がバスケから完全に離れられなかったように。
(俺と同じように、バスケが好きで好きでたまらないんだな……)
そんなにバスケが好きなのに、高橋は修への償いとしてバスケを捨てる決断を下した。
それはどれ程の覚悟だっただろうか。
どれ程の葛藤があっただろうか。
理解した瞬間、先程まで憎くてたまらないと思っていたはずの高橋が、昔からの友人であったかのように思えてきた。
お互いバスケが大好きなだけなのに、一つの出来事でこんなにも縛られ傷ついている。
そう思うと修の胸の中にあったもやもやが、すっきりと晴れ渡るような感覚になった。
そして気づけば
「……もう、いいや」
と呟いていた。
「え?」
高橋が困惑の表情を見せるが、言った修自身も驚いた。
だが自然と漏れ出たその言葉が、自分の本心なのだと理解した。
「なんかもう、すげぇバカみたいに思えてきた。くだらないことに囚われて、ずっとうじうじもやもやしてたけど、もう終わりにする」
高橋は混乱しているようだったが、修は構わずに続けた。
「高橋、お前を許す」
そう言った瞬間、高橋の顔の動きが止まる。
そして次第に顔全体に驚きが広がっていった。
「いい……のか……?」
高橋は信じられないといった風におそるおそる尋ねる。
「俺もお前も、充分苦しんできた。もう、いいんだ」
修自身もその言葉を口にして、憑き物がとれたような晴れ晴れした感覚になった。
なんだかとても気持ちがいい。
すると高橋が大粒の涙をこぼしはじめた。
「ごめん……本当にごめん……!」
何度も何度もその言葉を口にしながら、袖で涙を拭い続ける。
そんな姿を見ていたら、反対に修の頬は柔らかい笑みに変わった。
「もういいって言ってんだろ……ってうぇ!?」
すると突然汐莉が手を引っ張って高橋の元に歩み寄った。
それに気づいた高橋が顔を上げる。
汐莉は二人に向かって交互に笑いかけ、そのあと二人の右手をとって無理やり重ね合わせた。
「仲直りの握手」
汐莉はそう言うとまたにっこり笑った。
修には嬉しそうなその笑みが、夏の太陽にも負けないくらい輝いて見えた。
なんだか照れ臭かったが、汐莉の笑顔に促されて高橋と重ね合わせた右手にぎゅっと力を込める。
高橋の方からも、お返しとばかりに力が伝わってきた。
「ありがとう」
高橋が微笑みながら呟く。
そんな高橋に、修はぎこちなく微笑みながら言ったのだった。
「別に……。これからはライバルなんだからな。お互いに頑張ろうぜ」
修と高橋が汐莉に促されて握手をする様子を、市ノ瀬凪は建物の陰から覗いていた。
あまりにも帰ってくるのが遅い上に、汐莉の姿もないということで、心配で探しに来たのだ。
あの三人がどういう関係で、どういう話をしていたのかはまったくわからない。
だが何かとても大事な内容だったというのは三人の表情でわかった。
(私の知らない永瀬のことを、宮井はいっぱい知ってるんだな……)
凪は自分の胸がズキッと痛むのを感じて、その発生源に手を当てる。
(そっか……私、嫉妬してるんだ……)
胸を鷲掴むようにぎゅっと握り締め、そのままその場にしゃがみこむ。
(私、嫌なやつだ……)