帰宅、そして。
太燿が目を開けるとそこは三途の川ではなく息絶えた場所だった。起き上がって自分の体をまさぐる。制服はシワがよってくちゃくちゃだったが潰れた肺は元に戻っているのか呼吸に異常はない。手足も変な方向に曲がっておらず痛みもない。
「目が覚めたか、人の子よ」
声の主はもちろん焔だった。焔は太燿の背後で宙に浮かびながらあぐらをかいている。
「あんた、後ろにいるの好きだな」
「あんたではない。焔だ」
「今何時?家に帰らないと親に怒られるんだけど。あと俺は無事に生き返ったのか?」
「そう急くでない。まず一つ。この世とあの世では時の流れが違うのでな。我がおぬしを襲っていた鬼を斬って10分も経っておらん。ほれ、このスマートフォンとやらで確かめてみるがいい」
そう言うと焔は手にしていた太燿のスマホをポイッと投げよこす。画面にヒビが入っていたがもともとボロボロだったので問題ない。電源も点いた。ロック画面に表示された時間は確かに鬼に襲われた時刻からたいして経っていない。
「次におぬしは生き返った、というよりは生も死も曖昧になったところを我がこの世に繋ぎ止めているに過ぎない」
「そう言えば権能や司従がどうこうって言ってたよな。つまり俺はどうなっているんだ?」
「魂の終着点である死がなくなり、おぬしは死んでいないが生きてもいないという曖昧な存在になったのだ」
「……つまりは、不死ってことか?」
「まあそうとも言えるな。人の子が決して手に入れることが叶わないものぞ、喜ぶがいい」
「不死……」
不死。それは古代中国の始皇帝や西洋の錬金術師が求めたもの。太古の昔から求め続けた人類の夢。神と仙人にのみ許された特権。それが今、自分のものとなっている、と言われて高校2年生にすぎない太燿は素直に受け入れることはできなかった。
「しかしその代償は高いぞ?我ら天司にはある仕事があるのだが、おぬしにはそれを手伝ってもらう」
「仕事ってもしかして」
「そう。察したように……」
焔はしゅた、と地に降りると数歩進む。太燿の前に出ると剣を抜き放ち虚空を斬った。するとどうだろう。今まで何もなかったその空間に太燿の胸元ぐらいの大きさの小さな鬼が現れた。
その鬼の胸には剣で斬られた大きな跡が残っている。
鬼はぎゃあ、と短く断末魔の叫びをあげる。
たちまち傷口から火が噴き出し灰燼に帰した。
「こやつらを滅することだ」
太燿はボロボロの自転車を牽いて家に帰った。母親にいつもより遅い帰宅とクシャクシャの制服を咎められながらも「友達としゃべりこんでいたら転んだ」で押し通し、自分の部屋までたどり着くとカバンを放り投げベッドへダイブする。
色々なことがあった一日であった。疲労が体からドッと溢れる。しかし眠る前に太燿には一つの疑問が生まれていた。
「父さんと母さんにお前の姿って見えていないのか?」
焔は太燿と一緒に家へと入った。しかし母親が焔について言及することはなかった。それどころかその存在に気づいてすらいないようだったのだ。焔の容姿は大変目立つ。見た目麗しいだけでなくその炎のように紅蓮に染まった髪と瞳は目を惹くこと間違いない。その上、宙を浮いて移動している。どう見ても怪しい。これで焔について言及していないのは明らかに異常といえるだろう。
「お前ではない、焔だ」
焔は台所からくすねたのか、チョコビスケットの袋を手にしていた。その封を開ける。パンッ、と乾いた音が響いた。そして袋からひょい、と一枚取り出すパクッ、と一口で食べた。
「そもそも我の存在を認知できる方が稀だ。我ら天司はただの人の子には見えぬ。死に瀕した者か、あるいははじめから見ることのできるか、天司の司従であるかそのどれかだ」
「ちょ、そのビスケット俺にも残しておいてくれよ。好物なんだ……すると俺は前者ってわけか」
「そうなるな。ほれ、上手に取るのだぞ」
焔はまた一枚取り出すとポイッと投げ渡す。太燿はそれをキャッチしようとして、ポロッと取りこぼした。
「それでお前、じゃなくて焔はいつまで俺と一緒にいるんだ?」
「そんなもの、いつまでもに決まっておろう。むしろおぬしが我の一部だからおぬしが我に合わせるべき所を我がわざわざ合わせておるのだぞ?」
「そんなこと言われてもなぁ」
太燿が今、こうして何事もなかったかのように家に帰れたのは間違いなく焔のおかげだ。それを考えれば太燿が焔に従うのが道理というもの。その道理を今、焔はあえて曲げていてくれている。太燿はこれ以上の文句を言う筋合いにないのが分かる程度の頭は持っていた。
だから太燿はむぅ、と押し黙る。
「ともあれおぬし、ちと臭うぞ。寝床に臭いが移ってもいいのか?」
「そういえばまだ風呂に入ってないや。正直もう動きたくないけど、汚れたまま寝るのも嫌だし入るか」
疲労がたまって動きの鈍い体を無理矢理起こす。しわしわになった制服をハンガーにかけ風呂支度を済ませた。いざ部屋を出ようとして太燿は気づく。
「なんでついてくるんだ?」
「なんでってそんなもの、我が司従たるおぬしと共に動くのが当然と先ほど言ったばかりであろう」
「いやそれはそうだけど違うんだよ。何て言うか、その……」
「なんだ、裸を見られるのが恥ずかしいのか?初心な奴め」
このこの~と焔は子供のように肘で太燿を小突く。小突いた拍子に焔の風船のような豊満な胸がぷるんぷるん、と揺れる。太燿の視線に気づくとさらに体を寄せて腕を絡ませた。
「ほれほれ~。いまさら我の美しさに見惚れたのか~?遅すぎではないか」
「うっせぇ。あと歩きにくいから腕を放せ」
太燿とて健全な青少年。そんな彼にとって焔の美貌とその小悪魔のような振る舞いは刺激が強かった。太燿はついつい照れ隠しで言葉が荒くなる。
「仕方ないのう」
焔は未練がましく腕を放す。陽に照らされたような暖かさだけが太燿の腕に残った。目で焔を牽制しながらふぅ、と一息入れると太燿は風呂場に向かう。どうやら煩悩は体の汚れと共に落とせそうにない。