マッチ売りのオジさん
たとえばキミが街の中を歩いている。それほど深夜ってワケでもない、それほど通行人が多くはない歩道を一人で、だ。擦れ違い様の実に微妙なタイミングで声を掛けられたらどうする?
「ああ、キミ」
何てね。見ればスーツ姿の、年の頃で言えば60歳前後、ロマンス・グレーを七三に分け、メガネを掛け、渋い色のネクタイを締めた、大手の会社の係長みたいな、出世に縁のないサラリーマンの末路みたいな、無害と言うよりは実直そうなオジさんだ。
「マッチはいらんかね? 幸せな気分になるマッチだ」
えっ? と思うよな。こりゃ何かのイタズラか、それともこのオジさん、頭がどうかしてるんじゃないか、って思うよな。でもだね、その声が妙に冷静でさ、メガネの奥の目付きがね、まるで親切なハロー・ワークのオジさんみたいだったら? 思わず立ち止まったりしちゃわない? そのオジさん、胸の内ポケットから幅が25ミリ、長さが50ミリ、厚さが6ミリくらいのマッチ箱を取り出し、さらに言う。
「騙されたと思って1本擦ってみたまえ。シュワッと燃える瞬間だけ幸せな気分になれるんだ。ただし絶対一人の部屋で擦ること。もちろん電気を点けてちゃいかん」
これがさ、タバコみたいのだったらヤバいよ。麻薬かマリファナか、なんて思うだろ。でもマッチだぜ、マッチ。そこに付け入るようにこう言われたとする。
「6本入りで千五百円だ」
これさ、微妙だよ。金額がさ。ラーメン2杯食えるぞ。紙パック入りのワインだって買える。ハッピー・アワーの居酒屋だって行ける。だけどさ、この前幸せな気分を味わってからどれくらい経つ? そうだよな、生まれてこの方、幸せな気分なんて味わったことがない、って断言するヤツだっているだろう。
でね、タイミングなんだよ。このオジさん、タイミングを取るのが実に上手なんだ。
「あ、すまん。キミには無用だったか」
なんて言ってさ、立ち去ろうとする。つまり、それほど売る気はない感じなんだ。そうなるとだね、人間て不思議なモノで、ちょっと待った、って気分になる。
「ホント? 本当に幸せな気分になれるの?」
なぁんて聞いたらもうキミは買ったも同然だ。オジさんはちょっと溜め息なんか付いちゃってさ、こう聞く。
「説明せにゃあならんかなぁ」
説明だよ、説明。まさか幸せについての説明じゃないだろう。そのマッチの仕組みって言うか成分って言うか、そんなんじゃないかな、って思うだろう?
「麻薬なんかじゃないよね?」
と聞き返してしまったとする。
「あのさあ、考えてもみたまえ。いい年した私がだね、通り掛かりの見知らぬ人間に麻薬なんか売るものか。キミがあまりにも不幸な顔をして歩いていたから少し元気にしてやろうと思っただけだ。いや、いい。忘れてくれ。幸せな気分が千五百円で手に入るなんて街の人間に知られたら大変だ」
と言ってオジさんは去ろうとする。
「ねえ、説明せにゃならんかな、って言ったじゃないか」
ほうら、キミが魚だとしたら、もう針に掛かったね。
「瞳孔って知ってるかね?」
「どうこう?」
「脳内物質は?」
「のーないぶっしつ?」
「駄目だこりゃ」
「だめだこりゃ? オジさん! リポビタンDにだって成分表示がしてあるんだよ。まさかそのマッチ箱の中に“使用説明書”なんかが入ってるワケじゃないよね?」
「ほう。言うなあキミ」
「あー、ゆーさ! 千五百円でリポビタンDが何本買えると思ってるんだい!」
「そうだな。リポビタンDにはカフェインが入ってる。アルカロイドという塩基性窒素の有機化合物の一種だ。コーヒーを飲むと眠気が取れるだろ? まあ似たようなモノだ。このマッチにはそのアルカロイドの一種が含まれている。マッチの発火には硝酸カリウムって言う酸化剤と燐と硫黄が必要だ。このマッチの発火によって脳内物質の形成に欠かせないアデノシン3燐酸が生まれ、そのアルカロイドが煙になり、鼻腔の粘膜から吸収され、何種類かの脳内物質が分泌される。炎で開いていた瞳孔が縮む。瞳孔は目に入る光の量を調整するんだ。キミが見ている光景は眼球の底の網膜に映った像だ。瞳孔の収縮により、脳に焼き付いたイヤな光景が閉め出される。まあ錯覚なんだけどね。人間が火によって安全を確保出来た頃の古い記憶を呼び起こすのさ。そして医学用語で言う多幸感が生み出されるワケだ。わかったかね?」
「わかんないね」
「じゃあ孫が生まれるまで待つんだな。孫を見ると幸せになるらしい」
孫どころかキミには彼女もいない。医学用語で言う多幸感、ってのも気になる。何より、こんな“おとぎ話”みたいな体験は初めてだ。
「この前、英語の教材を売り付けられそうになったばかりなんだ。キャッチ・セールスだ、ってわかっていても、つい話し込んでしまった。あの後の虚しさなんかオジさんにはわかりっこない」
オジさんは大きな溜め息を付き言う。
「あのな、キミ。このアルカロイドの主成分はね、シクロヘキサニルエチルバルビツール酸カルシウム、って言うんだ。どうやって作ると思う。え? カタンシロアリってアリの糞に生える、顕微鏡でなきゃ見えないようなキノコの胞子から抽出するんだぞ。言わば、ダンプカー一台分の珈琲豆から搾り出したスプーン一杯のエスプレッソみたいなモンだ。リポビタンDと一緒にされてたまるか」
「変だよ、それ。そんなに手間の掛かるモノが千五百円なんて……」
「私ゃね、好きでやっているのだ。キミのように孤独で話し相手もいなくて狭っ苦しい部屋でヒザを抱えて、生まれてこの方良いことなんか一っつも無くって、見るモノ聞くモノ感じるモノがみぃーんな不幸で、不幸を制服みたいに着込んで不幸を背負って不幸に押し潰されている若者を見ると、せめてマッチ1本分でいいから幸せな気分を味あわせてやりたい、そう思うからこのマッチを作ってるんだ。材料が必要だからタダってワケにゃ行かない。ただそれだけのことなんだ。いや、すまんね、時間を取らせて。さあ一人の部屋へ帰るがいい」
「わかった! 買うよ、それ。いや、売って下さい!」
「そう? じゃこれ。いいね、誰にも言わんでくれよ、それに絶対一人の部屋で……、キミ、細かいのはないのかね? 一万円札はないだろう」
「だって、これ、非常用のお金なんだ。給料日に……」
「しょうがない。ほら、お釣りだ」
「あれ、オジさん、最初っから用意していたみたいなお釣りの出し方だね」
と、このように私はマッチを売っている。本当かって? ああ、本当さ。まあサイド・ビジネスと言えなくもないけどね。私は長年、製薬会社のプロパーをやっていた。医者に新薬を売りつける営業みたいなモノだ。景気が悪くなってリストラされた。子供も大きくなって就職し、妻は年上で年金を貰えるようになって離婚された。マイ・ホームも取り上げられた。仕方がないよ。浮気ばかりしてたし。で、今、シロアリ駆除の仕事をしてる。営業じゃない。現場で働いているんだよ。あっちへ行ったりこっちへ行ったり、出張ばかりさ。不幸かって? 不幸なもんか。そりゃあ真夏に床の下に潜ってシロアリ駆除するなんて重労働だよ、過酷な仕事だ。しかしだね、シロアリの糞が薄っすらと堆積した床の下にキツネノチャブクロみたいな姿をした小さなキノコを見つけると興奮するんだ。そおっと採ってデカビタCの空き瓶に入れる。そしてピレスロイドという駆除剤の希釈液で満たす。熟成には2週間必要だ。重要なポイントは日光にどれほど晒すかだ。教えられないね。企業秘密さ。で、マイクロ・ピペットでマッチ棒の先にちょっと染み込ませる。この、ちょっと、っていうのも重要だ。マッチはね、出張先の古い旅館に幾らでもある。今頃タバコを吸う人なんか少ないからね。旅館の階段の下とか物置に無尽蔵にある。つまり原価はゼロ円だ。実際のところ効果はあるのか、だって? そりゃああるとも! 自分が不幸である、という思いが強ければ強いほど効果抜群だ。これ、説明が難しいんだけど、本当に不幸な人にはあまり効かない。本当に不幸な人って脳内物質の分泌が不足してるからなんだ。だから本当は幸せなんだけど、どうしても不幸だ、って思いたがる人に限って、マッチを擦った瞬間立ち上る白煙が鼻腔に達するとき、エンドルフィンがブワッ、と分泌される。ブワッ、とだよ、ブワッと。シュワッ、ブワッ、だ。その時、瞳孔は閉じるんじゃなく開く。薬効さ。コカインを吸ったときと同じ現象さ。光が網膜を焼き、人類太古の記憶が蘇る。火をコントロール出来る、っていう興奮を思い出すんだ。わかるかなあ。体験してみなきゃわからないと思うよ。
だからどうだい? マッチはいらんかね? 幸せな気分になるマッチだ。