灼熱
セミのやかましい声しか聞こえないはずだが、俺の耳にはそれとはまた別の音が聞こえる気がしてならない。じりじりと肉を焼いていくような、そんな音だ。しかし屋外であり、住宅街近くの公園であるこの場でそんな音が聞こえるのはおかしい。催し物だってないし、そもそもここはバーベキューをするには狭い。だから肉を焼く音が聞こえるのも、俺の錯覚に決まっている。もしかしたら少し疲れてきているのかもしれない。
そして俺の脳裏にはある妄想がこびりついている。それは、鉄板の上で焼かれる牛や豚肉ではなく、俺自身が焼かれているのだ。しかしそれは、例えば化け物の食料になるとか、そういったあまり残酷なものではない。夏のビーチでチェアの上に寝転がり、サングラスをかけて腹を太陽に晒して日焼けをするようなものだ。バカンスの楽しいひと時だ。だが今は、ワイシャツ姿に、脱いだスーツの上着を腕にかけており、腕まくりをして露わになった腕は赤くなっている。今の俺は、ビーチの時の心地良さとは程遠い日常を過ごしている。
今日の都心は例年の中でもとび抜けて気温が高い猛暑日のようだ。今朝がた、若くかわいらしい女性アナウンサーが、脱水症状にご注意してください、と全然心配していないような笑顔で言っていたのを覚えている。夏に水を欠かす訳などなく、その注意は払っておいて当たり前のように思え、アナウンサーが言ったことは有益な情報とは言い難いと思ったから、割と印象に残っている。だが俺としては文句を言うつもりはなく、命に関わることは注意しすぎても問題ないということなのだろう、と自分に言い聞かせ、家を出る前に大目に水を飲んでおいた。小便もできるだけ我慢し、体内の水分を欠かさないようにした。
だが蓄えておいた水分も底を尽きようとしていた。オフィスを出てからそれなりに時間が経っている。
本当ならエアコンがかかったオフィス内で涼んでいたかったが、営業回りに出る俺はそんなことを言っていられない。新しい顧客を開拓しなければならないし、また得意先に新しい商品の宣伝にも行かなければならない。ぼやぼやしていれば儲けの機会を他の奴らにかっさられてしまう。そんなことになっては俺の給料に悪影響がでてくる。俺の頑張り次第で自分の未来が明るいものか、それとも暗いものか左右されるのだ。常に正念場なんだ、と自分に言い聞かせ、今日の暑さにへこたれず踏ん張ってきた。
それでもこの太陽の下ではやる気が削がれていく。頑張り時ではあるが、時には立ち止まって補給をすることも大事だ。F1でもレースの最中にタイヤや他のパーツを交換する。それと同じことだ。
ちょうど目の前に自販機がある。小銭を入れ冷たいお茶のボタンを押し、ガコンという音を聞いて取り出し口に手を伸ばす。できるだけ時間をかけずに、素早くお茶を体に流しこまなければならない。今の俺には一分一秒でも顧客とコミュニケーションを取ることが大事だ。
ペットボトルのお茶を取り出そうと手にした途端、俺は驚いてお茶を地面に落とした。お茶は何度かバウンドし、近くの長椅子の下まで転がっていった。
「あっつ……なんだよこれ!」
俺は悪態をつき、手を振って冷ます。冷たいはずのお茶が熱かった。俺が買ったものは500mlのペットボトルだから熱いなんてことは有り得ない。もう一度自販機を見てみると、俺が買ったものは、確かに「つめたい」と表記してあった。
「ふざけんなよ、この野郎!」
怒りがすぐ臨界点まで到達し、俺はそう叫んで近くにあるゴミ箱を蹴った。俺の腰と同じくらいの高さをもったゴミ箱はガシャンと音を立てて倒れ、中にあった少量の空き缶が出てきた。暑さのせいでどうも苛々してくる。この時期だというのに、自販機に熱い飲み物を入れた馬鹿を蹴り飛ばしたかった。自分の仕事くらい、きっちりやれよとどやしつけたかった。やり場のない怒りは近くにあったゴミ箱に向けられた。
大きく深呼吸をしてから、俺は自分で落としたペットボトルを探した。視線をあちこちに向け、ベンチの足元にあるのを見つけた。ベンチにはじいさんが座っていた。ペットボトルが転がって行ったはずなのに、全く動かないとはどういうことか。
ため息をついてベンチに近づくと、ペットボトルを持つ前に、俺はじいさんの顔にふと目がいった。かさぶたのように赤くなった斑点がいくつか浮かんでいる。所々には膿のように白くなっている部分もある。人間の肌にしてはあまりにもおぞましかった。
俺は悲鳴をあげて後ずさった次の瞬間、ベンチに座っていたじいさんは横に倒れ込んだ。頭をベンチに音を立てて打ち付け、そのままなだれ込むように地面で仰向けになった。顔にできている膿がいくつか潰れ、また別の皮膚に新しく膿ができている。じいさんは徐々に人間でなくなっていくように俺は見えた。
それを見て俺は顔に痒みを感じ、強めに自分の左頬を掻くと、痒みが消える代わりに今度はひりひりとした痛みに襲われた。顔をしかめ、下ろした左手にふと目を向けてみると、指先の所々に血が付着しているのが見えた。腕にかけてあるスーツが落ちることなんかどうでもよく、何が何だか分からないまま両手で自分の両頬を撫でると、そこには普段感じない感触があった。まるで肌に触れていないみたいだ。気味の悪いぶよぶよとした心地しかない。
徐々に痛みが増してくる。何か悪いことが自分の身に降りかかっているのは分かるが、鏡もないため、今の自分が具体的にどうなっているのかが分からない。だが両手を再び落として手の甲を見てみると、何が起こっているのかを理解できた。さっきのじいさんみたいに、赤い斑点がいくつか浮かび、また化膿して白くなっている部分がある。突然の変化に驚いたが、もっと驚いたのは、化膿して白くなっている所の中心に焦げて黒くなったような部分もあることだ。これはじいさんの肌には見えなかった。あのじいさんよりもやばい状態なのか俺は、と危機感が襲う。原因も分からないのに肌は酷くなる一方だ。自分の異変を認識した途端、痛みが急激に増した気がして仕方ない。まともに立っていられなく、俺は両膝を地面につけた。それでも痛みが広がるばかりで楽にならない。我慢できず情けないうめき声まで出てくる。誰かなんとかしてくれ。
「ここで臨時ニュースをお伝えいたします」という機械的な声が聞こえきた。ゆっくりと顔を上げてみると、俺の前で倒れている男が落としたと思われる、スマートフォンから音が鳴っているのが分かった。画面が上を向いており、そこには動画が再生されている。いや、テレビ放送だろうか。画面には今朝テレビで見た女性アナウンサーが映っており、やはり全然深刻さを感じさせないような笑顔を浮かべて喋っていた。
我慢できない痛みだ。俺は喉から声を張り上げて呻いた。アナウンサーが何を言っているのか聞き取る余裕なんてない。地面に頬を付けて身をよじる。痛みは取れない。体の内側から恐怖がせり上がってくる。もう死ぬんだ。誰か助けてくれ。張りつめた糸が切れた感覚がした。
「……本日の日本全土では灼熱日となっておりまして、最高気温は計測不可能な程高くなっております。数分の外出で肌は爛れ、白く化膿し、やがて全身が黒ずみ、最終的には死亡するといったことになりますので、どうしても用のない方は外出を控えてください。また室内にいる場合でも陽を遮り、熱中症を起こさないように常に水分を摂ってください。では、今日一日を生き延びられるよう、十分にお気を付けてお過ごしください」