14〜球体
当時使徒連は勿論全国組織ではなかった。 離島と壱岐五島対馬などを除いた九州一円が活動範囲で、確認されていたエントランスは5つ。 内一つは島原の一件の際幕府に知られ、そこには社が建てられて厳重に監視されていた。 末吉らが使用出来たのは4つ、しかしその内、人目があり怪しいと睨まれていた2ヶ所はほとんど使われておらず、五箇山の近くにあった一つと、海の上にあった一つが使われていた。 逃げてきたあの男を逃がしたのもその夜彼が向かったのも、彼の村近海のエントランスだった。
勿論、あの男が捕まったと考えれば、エントランスも暴かれた可能性が高かったが、彼にはもう、そこに向かうしか逃げ場がなかった。 暫く泳いだり潜ったりしながらその場をやり過ごすと、彼は陸に向かって泳ぎ、燃える山と村を目印に、ある岬を目指した。
そこは実際は陸に張りついたような半小島で、崖で囲われ、陸からは行く手段がなく、海側の崖下に干潮時だけ覗く洞穴があった。 その中の水に沈まない岩棚に小舟が隠してあった。 それを引き出し帆を立て、彼はエントランスに向かった。
黒い船体と黒い帆のお陰で、村を遠巻きにする水軍の包囲陣に発見される事なく、彼らの横を擦り抜け、ほぼ時間通りにエントランスに着いた。
時刻は正確に見極めないと、エントランスはほぼ一刻で閉じてしまうから注意が必要だが、この海の上のエントランスは、位置といい時刻といい、実に都合が良かった。 場所は近辺には他にない、『烏岩』と呼ばれていた岩礁から三十尋ほど離れた所、出現する時間は日の出の卯の刻と、日の入の酉の刻、これなら現在時刻が分からなくても、どうにかなった。 あの嵐、彼が流され明け方に救い出された時も、あの2人が明かりもなく時刻も定かでない中、エントランスを見付け渡れた訳がそれだった。
この時も彼は日の出を待っていた。 エントランスの出現時刻は日の出よりも30分ほど早い。 闇から物の輪郭が見えだす頃、エントランスが開くのだ。 やがて風が止み、少しずつ闇の中から水平線が見え出し、そろそろエントランスに向かおうとした時、彼は自分の自惚れに嫌悪することになった。
靄が立ち上る中、黒い紙魚の様に幾艘もの舟が見えた。 中の一隻は舟べりが三間はある大きな軍船で、船の上を黒い人影が走るのが見えた。 やがて、そちらからどら声が渡って来る。
「そこを動くな、今そちらに行く。」
彼はすっかり萎れてしまった。 これで終わりだ、と思った。 例の軍船の脇から平底の一隻が櫓を漕いで向かって来た。 彼は為すすべがなく、じっとその舟を見つめていた。 だんだんと近付く舟を魅せられたように見ていたのだ。
すると彼の中で、これで終わりにしていいのか? という思いが突如浮かび上がって来た。 それはあの舟に沢山の村人が殺された、という思いからかも知れなかった。 このままでは彼らに合わす顔がない、という思いからかも知れなかった。
彼は拷問を受けても、仲間を売ったりエントランスの秘密を証したりしない自信はあったが、何かの拍子にばれてしまうかも知れない、とは考えていた。
村人にエントランスを知る者は皆無だったが、奴らが生き残りの村人を拷問し、彼の行動や話を聞き出せば、そこから組み立てて行き、やがて答えが出てしまうかも知れない。
そして彼は決心した。 どうせ死ぬならエントランスを護ろう、と。
「今思えば、護ると言うより道連れに自殺する、と言った方が合っている。 知っているかね? エントランスの中に入り、閉じるまでの時間内にあちらへ抜けないと、そのエントランスは失われる、ということを。 中に残った者がどうなるかは知られていなかったが、エントランスが二度と開かなくなるのは知られていた。
私は神に祈ると、舟を烏岩へ向け、漕いだ。 あのどら声が何か叫んだが、私はまったく聞いていなかった。 私はすぐそこに見える烏岩の北側の一点に目をやり、それ以外目に入らなかった。
それからは、夢中だったせいもあるが、よくは覚えていないのだよ。 追っ手が烏岩目掛けて寄せて来る。 必死に漕ぐ私。 例の軍船から火縄銃が放たれ、私の舟の周りが、無数の石礫を投げ付けられた様にざわめく。 掠める弾もあったが、当たらなかった。 そして私はついにやり遂げた。 エントランスに飛び込むことに成功したのだ。」
その一瞬までは岩に向かっていたのに、直後風景が溶け出すように滲んで消え、辺りが赤黒く鈍い光に照らされた洞窟のような場所になる。 下は無論水面。 海の上のエントランスならでは、だった。
エントランスでは、後ろから押されるように前へ前へと流されるが、彼は逆らって今飛び込んだ後ろへと漕いだ。 出来るだけ時間を稼ぐつもりだった。
もし連中が、何も知らなければ入ってくることだろう。 そうしたら道連れにしてやるつもりだった。 彼の後ろにはあちらの世界の出口が見えている。 その出口に光が見えた。 明け方が近いのは分かっているが、しかし、朝日にしてはまだ早い。 とすれば、あれは出口で待ち構える敵と考えるべきだった。
当然、幕府はあちらの幕府と通じていて、今回の捕縛でも協力し合っている筈である。 彼は舟から水面へ飛び込む。 立ち泳ぎをしながら、いよいよ覚悟だ、と考える。 出口へ向かう流れに逆らいながらも、ゆっくりと流されて行く。 奴らはエントランスの特徴も知っているのか、出口で待ち構えているのだろう。 後どのくらいだろうか? 彼は早くその時が来るように神に祈った。
「そして、泳ぎ疲れ、流されて出口がほんの数間先に見えた時、出口の変化が起こった。 私は霞む目で、出口が波に浚われる砂の様に溶けて行くのを、ほとんど喝采に近い状態で見ていた。 私はとても平静だった気がする。 しかしさっきも言った様に、あの時の事はぼんやりと朧気にしか覚えていないのだよ。 確か目を閉じてずっと祈っていた気がするが、ね。
どの位経ったのか、次に意識した時、辺りは一変していた。 私は透明な球体の中にいた。 周りは海原で近くに陸が見える。 その光景はとても見慣れたものだった。 その証拠に足元に烏岩が見えていた。 そしてあの軍船と小舟が多数、岩の周りに散って、男たちが何かを探している。
私は球の中、中空に浮かんでいた。 初めは私が死んで、霊魂が高みから現世を見ている、と思った。 やがて御使いがやってきて私を煉獄か天国かは分からないが、そんな場所へ連れて行ってくれるのだろう、とね。
だがその日はそんな気配もなく、やがて下界の人間たちも諦めたのか、舳先を回して南へと去った。 中空に浮かんでいた私に気付いた様子は伺えなかった。 私はたった一人取り残されたのだ。
それ以外にも気になる事があり、体が真っ黒な霧状に見える事や、音がまったくしない事など、それはまるで悪夢の様で、私は、これは神が私を試しているのだ、と考えた。
それからは、ずっと祈り続けよう、神に自分の信仰の深さを証明しよう、と思い、まずは細川の手の者に掛かって、死んだり苦悶に喘いでいるであろう村人や家族の加護を祈った。
すると、球体が動いた。 眩暈がし、吐き気がしたほどすさまじい速度で。
直ぐに村の上空に達すると、まだ燃える山と家屋の上、唐突に止まる。 その悲惨な有様より、私は自分の状態に驚いていた。 暫く呆けて村の残骸を見ていた。
そして私は試してみる。 自分の家を思い浮かべたのだ。 すると球体は、またなんの前触れもなく下降し、今だに燻った黒い灰の山となってしまった私の家の前に止まる。 相変わらず音はない。 そこで音を、と言うと、たちまち音が甦り、潮騒を背景に風と燃え燻る木々のパチパチという音、バシッと破ぜる音が聞えて来た。
そう、自分の思う事が叶う。 私は神になったのか、本当の神の御使いになったのか、と糠喜びしたものさ。
だがそうではなかった。 望めばどこへでも、それこそ大陸までも行く事が出来、あらゆる人間たちの秘密を知る事も出来たが、それだけだった。
天からの迎えなどなかった。 あのエントランスは、あれから使う者も絶えたので、私の行動は間違っていなかったと満足したが、私の有様は幽霊のようなもので、しかも誰からも見捨てられた亡霊だった。 本当に亡霊だったら怨霊となっていただろう。
幾日過ぎても何も起こらず、誰も私を見る者がない。 私はどこへでも行けたが、誰にも話し掛ける事が出来なかった。 試しに霊山や神の宿る土地に飛んで見たが、神に仕える者たちにも私は見えなかった。 仕える神は違えども、きっと見えるのではないか、そう考えていた私の落胆が、君に分かるかね?
それから何年も過ぎ、私は時代が動いて行くのを見続けていたが、自分が黒い霧の様になったせいか、年老いた感じはしなかった。 不老不死、この状態が死ではないとすれば、そう呼んでも構わなかったかも知れない。
その老いを感じない訳は、ずっと後になって推論出来たが、その頃には私の知っていた世界はどんどんと変質し、文明開化の時を迎えていた。 そして私もこの世界の秘密を、エントランスと二つの世界の本当の秘密を知る事になっていた。
そう、エントランスは九州だけでなく全国にあった。 使徒連の兄弟の様な、一握りのエントランスを使う者たちの集団も各地に孤立してあった。 迫害の末、壊滅状態の者たちもいれば、秘密を良く守り通し、誰にも知られずにいる者たちもいた。 私が彼らと話し合う事が出来たのなら、孤立して存在する彼らを、使徒連の名の下につなげ強化して、ひとつの強力な集団へと成長させる事が可能なのに。 とても残念で、歯痒い想いで何十年も過ごした後、ひょんなことから私は現世の人間と会話する方法を見つけたのだ。」