13〜受難
海はやがて、怒涛と風雨で小船の舳先から先を見通せないほど荒れ狂い、翻弄された小船が転覆しかけた事5、6度、彼は神に委ね、ただ船縁を掴んで放り出されないようにするのが精一杯だった。
そのまま一時ほどが過ぎた時、今までの大波とは比較にならないほどの巨大な波が彼の小舟を持ち上げ、それはスローモーションの様に小舟をゆっくりと横に倒し、上になった波頭は前へ前へと進み、遂に砕け、彼はひっくり返った舟もろとも海の中へと引き摺り込まれて行った。
目が覚めると、彼は砂地に筵を敷いた上に寝かされていた。 彼の上では松の枝が激しく揺れ、松葉や砂がパラパラと顔や腕に当って痛い。
― 死ななかったのか。
最初の思いは生き残った事への神への感謝だった。 辺りを見渡せばそこは見知らぬ浜で、海岸線と背後の雑木林とに挟まれた狭い砂浜が、断崖と断崖に挿まれた数十メートルだけ続いている。
浜の終りから雑木の生えた防風林と思われる木立が、断崖から続く林に連なり、弓なりの小浜は正に小舟の停泊に持って来いの場所だった。 彼が目を海の反対側へ転じると、そこは松を中心とした林で、木立の向こうに漁師の低い家が数軒、見える。
こんな風景の場所が彼の住む村の近くにあったのだろうか? それともここは天草か島原だろうか? そして再び海を見ると。
人がいた。 年の頃40、潮焼けに深い皺を刻んだ顔の眼光が鋭い男、そして目鼻立ちの整った15、6の少女。 彼は弾かれた様に飛び起きる。
2人の背景の海は荒れて大波が浜全体を走り、彼の寝かされていた防風林の間際までやってくる。 2人は素足で、その足を波が勢いよく舐めて行く。
「大丈夫?」
少女が聞く。
「ああ、大丈夫。」
彼が答えると、男の方が、
「歩けるか?」
「はい、歩けます。」
「では付いて来なさい。」
2人は彼を立たせると、風が唸りをあげて砂を撒き散らす中、防風林を抜けて内陸へむかう。 その先にある集落の一軒に彼を入れた。
そこは彼の家と変らない造りの漁師の家で、土間には網が広げられ、彼には馴染み深い魚の臭いと磯の臭いが強く漂った。
「ほら、上がって。」
土間から続きの居間に2人と供に上がると、彼は忽ち違和感を感じる。 それは海辺で感じたものと同じで、どこか異国の中に紛れ込んだかのような微かな不安と、疎外感だった・・・
「私は、その違和感がどこか別次元の、同じ姿はしているものの自分が住む世界とは別の世界、つまり『あちらの世界』に居る事から来るものと言う事に気付いていたのだ。 しかし、それは彼らに説明されるまで信じられないことだった。 私が偶然にも『エントランス』の近くで遭難し、彼らもあの嵐の中、、エントランスから帰ろうとしていた時に私を発見したものだから、私を見捨てるか拾い上げて一緒に『あちら』へ渡るか即座に判断せざるを得なかった。
私にとって幸いだったことに彼らは私を拾い上げ、帰る方を選んだ。 彼らは渡った後も迷ったはずだ。 助けたものの、エントランスと二つの世界の秘密を知ってしまう私をどうするか、とね。
あの時、殺してしまえば簡単で、また、彼らも過去、秘密を守るために非情になっていたが、私を見捨てなかったことでその掟を破った訳だから、簡単に殺すという選択が出来なかったのだろう。 後から聞いた話では、舟の破片に絡んで気を失っていた私が、彼らの舟に流れて来た時、少女が―― ああ、もう名前を覚えていないが、彼女が私の胸に下がる木札に気付いたのだ。 表に菩薩が焼印されていたが、見る者が見ればそれは聖母マリアの特徴を示していた。 そんなものをするのは村の掟にも背いていたが、私は海に出る時にはいつもしていた。 助かったのも聖母の加護だと信じているよ。」
「・・・少し脱線してもいいか?」
黙って回想を聞いていた竹崎が、そこで割り込む。
「なんだね。」
「お前は私に、無神論者として語り掛けて来た。 今までの話だと、全く反対の様子に見えるのだがね。」
影が大きく揺らいで声がククク、と笑う。 やはり最後は咳き込むが、掠れた声で、
「勿論、嘘をついたし、君の信心を量りたかったからだよ。」
「とんでもない野郎だ、お前は。」
影は笑い、暫く黙ったが、やがて話を続ける。
「そう、彼らは使徒連だった。 彼らは今の我々とは違い、全員熱心なクリスチャンであったし、本来、人殺しなど出来る者たちではなかった。
しかし、非情な時代だよ。 私が生まれる150年前には島原の一件があった。 150年前とはいえ、殆ど根こそぎ皆殺しになった土地の人間の怨念は中々消えるものではない。 あの頃は、あちらもこちらも同じ歴史を辿っていたから、彼らとしても隠れキリシタンと分かる子供を殺すに忍びなかったのだろう。
隠れキリシタンに身の危険が迫れば助ける。 正にそれこそが使徒連の任務だったのだからね。
彼らは私をリクルートせざるを得なかった。 殺さないならそれしかない訳だからね。 私はその日から使徒連となった。」
・・・その頃は使徒連が勢力を衰退している時期だった。
徳川家は十一代家斉の時代、まだ寛政の改革が余韻を残す頃、隠れキリシタンはこの頃には殆ど話題に出る事は無く、細々と命脈を繋いでいるだけの存在。 使徒連もほんの十数人に勢力が衰退し、時の幕府や治領の代官などにも影の支援者が不在の時代、使徒連は単なる隠れキリシタンの一勢力と言うだけの存在であり、両方の世界の往還も、当時は『木戸』と呼ばれたエントランスの存在確認のためだけに、時折行なわれる程度となっていた。
彼が連れて行かれた場所はその使徒連の拠点の一つだった・・・
「彼らは私を仲間にすると、このことは誰にも言ってはならないと沈黙の誓いをさせられ、嵐が収まると村の近くまで送って、また連絡する、といい、帰って行った。
それから私の二重生活が始まった。 私が成長し、村の長となると、彼らは私の村に拠点を置き、活動するようになる。 そして私も使徒連での序列が上がり、私は村と使徒連の両方を護ることが仕事となって行った。」
そこまで言うと、影は蹲る。 座ったのだ、と竹崎には分かった。 初めての事なので、竹崎は訝る。
「どうした? 疲れたか?」
しかし影は答えず、やがてしわがれた声は、自分の話を確認するかのように、ゆっくりと話し出した。
「私がこのような羽目になったのは、ほんの不注意からだった。 ある日、村の北側の峠を、息も絶え絶えに越えて来た男が居た。 彼は北の峠の守人に追われている、助けてくれ、と乞い、北の守人―― 村の北を守る男は、男を匿った。
やがて山道を十名程の男たちがやって来て、細川の手の者だ、と断って峠の家を捜索したが、何も発見出来なかった。 男たちはそのまま村も捜索したが、男もキリシタンの証拠も発見されなかった。 男たちは逃げて来た男の特徴を言うと、見つけたら代官所へ届けるように、と言い置いて去って行った。
私は断崖の洞穴に隠していた男を尋問した。 男は自分はキリシタンだ、と告白し、密告され、家族共々逃げたが、途中で追っ手により家族はバラバラとなり、自分だけがこの峠に辿りついたのだ、と言った。 もう、これ以上迷惑は掛けられないので、突き出してくれ、と男は言い、キリシタンの証拠だ、と、左腋の下に小さく彫られたクルスを示した。 私は男さえ良ければ、と使徒連の脱出ルートを使って、男を逃がした。
そこまでは良かったのだが、一週間後、大変な事態が起きた。 夜半、突然山から火の手が上がり、その火は折からの風に煽られて忽ち村の三方の山が燃え出した。 我々は駆け降りてくる火の手と海に挟まれ、仕方無しに村を捨てて、村人全ては舟で海へ漕ぎ出した。 しかし、それが罠だったのだよ。
突然海から矢の雨と火縄銃の一斉射撃が起った。 うねりがひどかったので、弾は外れるほうが多かったが、黒く塗った舟から放たれる火矢は、やがて舟に当って燃え広がり、村人は次々海へと放り出された。
幾人助かったかは知らない。 助かったとしても拷問を受けた事は確かだろう。 あの、助けた男が再び捕まって命と引き換えに我々を売ったのか、さもなければ、元より我々に仕掛けられた罠だったのか、それは分からない。 だが、その夜、私の村と使徒連の拠点は壊滅してしまったのだ。
私は1人で泳いで逃げた。 ともかく、逃げるしかなかった。 私までが捕縛されれば、使徒連までもが崩壊しかねなかったからだ。」