10〜幻夢
ある記憶から次の記憶まで一跨ぎ・・・。 『リバース睡眠』と呼ばれるリバース直後の昏睡状態の事を多くのリバーサーはそう証言する。 竹崎はリバーサーたちの話から、リバース時の昏睡の様子は良く知っていた。 昏睡時には夢も見ない、それがいくら長い時間、1年や2年に及ぼうとも。
ある者は近所に買い物に行くと家を出た、と思ったら、次の瞬間にはベッドの上で点滴を受けている自分に気が付いた。 またある者は、通勤途上に同僚に会い、おはよう、と声を掛けた次の瞬間、ベッドから白い天井を見つめていた。 その間、3ヶ月と5ヶ月あった事など、当の本人は全く感じていない。
竹崎は、リバースとはそういうものだ、と理解していた。 ところが、いざ彼の場合となると、そうではなかった。
東南アジアの某国。 カソリックが多い地域にあって、数少ないプロテスタント系の教会がある田舎の村。 その小さな教会の聖堂。 磨き上げられた床と100席ほどの椅子の列、明かり取りの小窓から入るスリット状の光が陰影を形作る。
小さいながらも見事なステンドグラスは夕陽を浴びて赤く輝き、随所に捧げられたキャンドルの光と供に、聖壇の前に跪く数人の男や女を浮かび上がらせていた。
今日はイブ。 聖堂内はモールや花で飾られ、素朴なツリーが入口にシンメトリーに置かれている。 聖壇の十字架に向かい祈りを捧げた一人が立ち上がった。 その男は、続いてばらばらと立ち上がった男女に微笑みかける。
この男は4日前にふらりと現われ、神父に多額の寄進をすると、クリスマスの準備を手伝わせて欲しい、と願い出て、快く受け入れられた。 村の熱心な信者たちは、パウロと名乗ったこの男が、積極的に彼らを手伝い熱心に祈る姿に、程なく打ち解けて行った。
彼らが中国人だと思っていたこの男は、神父の家に寝泊りを許され、この3日間毎日教会で過ごしていた。 それが、一年でこの期間だけ、真に信者として過ごす事が出来るその男の、償いと自分の乾きを癒す行為だということなど、村の人間も、神父さえも気付く事はなかった。
午後7時を回りクリスマスのミサが始まっても、この東洋人は聖堂の中へは入ろうとせず、戸口の脇に静かに佇んでいた。 ミサが終り、信者たちが家路に付く頃、男は居残った数人の熱心な信者と神父が残る聖堂に入り、跪いて祈った。 長い間、祭壇前に俯いていた男がやっと立ち上がると、神父が近付き、声を掛ける。
あなたは何故皆と一緒に祈らなかったのか、と。 すると男は、この教会は村人たちのもので、異郷の地から来た者がこの特別な日に一緒に祈るのは憚りたい、と言い、それに自分は良きクリスチャンではない、罪深い者なので、と頭を下げ、出て行こうとした。 神父は、それでは、これから身内とささやかな晩餐を一緒にどうか、と男の背中に聞いた。 男が答えようと振り返った瞬間、その顔に浮かんだ微笑のまま、男は硬直し棒立ちとなり、そのままどうっと倒れる。
一体何が起きたのか、現実に付いていけない信者たちは、呆けた様に恐る恐る男が横たわる床の周りを囲み、我に返った神父は、慌てて男に駆け寄った。
それが竹崎の直前の記憶だった。 目が覚めたのはそれから9日後、そこは日本だった。
布団の上に寝かされている。 天井の格子模様、襖の模様、廊下と思える障子。 見覚えがあった。 多少の眩暈がしたが、そこを堪え、半身を起す。
10畳ほどの和室。 床の間があり、掛け軸に昇り竜。 そう、兄の家の客間だった。
この記憶の再開と、教会で神父の質問に答えようと振り返ったあの瞬間までの記憶の間。 昏睡した意識の下、眠る身体と脳とが、時間の逆転を用意すると言われているその期間。 脳の主要機能は停止し、生命維持機能以外、身体は活動を停止する。 冬眠と同じようなもの、と言われている。
脳が生命維持活動以外停止する、ということは記憶も途絶える事になる。 リバースの昏睡中夢を見ない、という根拠はここから来ている。
しかし、竹崎には確かに『記憶』があった。
神父の食事の誘いに快諾しようと振り返った瞬間、彼は別の世界に居た。 正に別の世界、としか言いようの無い場所だった。
そこはジャングルの様であり、大都市のスラムの様でもあった。 表現がおかしいのではない、そうとしか言いようの無い場所だったのだ。
目の前に立ち塞がる緑の壁、天を突く茶色の柱、垂れ下がる緑や黒の複雑な線、吹き抜ける生温かい風、瘴気とも呼べそうな湿気をたっぷり含んだ、植物が腐った様な臭いを漂わせる空気。
それらは熱帯のジャングル、つい先程まで竹崎がいた教会の、その裏手から広がる熱帯雨林そのままだった。
だが、そこは到底ジャングルには見えなかった。 緑の壁はざらざらとしたコンクリートに見え、茶色の柱は鉄骨の様、垂れ下がる線は蔓草ではなく電線や何かのワイヤーで、吹き抜ける熱風は冷房の排気に似て、埃っぽく焼ける様な暑さだった。
それなのに、竹崎が確かめるように歩き出すと、足元には腐った椰子の葉や棕櫚の皮が見え、踏み付けると臭く濁った水が染み出した。 目は緑色に染め抜かれた街並を見ているのに、鼻は湿気を帯びたジャングルの臭いを嗅ぐ。
気付いてみれば、辺りに充ちる音も熱帯に付き物の音、虫や蛙が上げる声、仲間を呼ぶ鳥、彷徨う獣の吠声、甲高い猿類の声、様々な水音、しなり撓み跳ねる植物、それらが混然一体となって背景に溶け込んでいる。
竹崎が直ぐに気付かなかったのは、その音をこの数日聞き慣れていたからで、馴染んだ音と変わらない背景音が不可思議な光景に流れるミスマッチな状況は、彼を苛立たせるに十分だった。
― なんだここは?
直後、彼は驚く。 驚きは光景からではなく、今思った事が声として聞こえたからだ。 それも極近くにいる人間が発したかのような。 彼の声ではない。 誰かが彼の考えをそっくりそのまま呟いている。 思わず彼は辺りを見渡すが、緑の中に人影は見られない。
― なんだ、今のは?
またも、声。 さっと見回すがやはり彼しかいない。
― 誰だ!どこにいる?
これも敢えて声に出さずに考えたが、そっくりそのまま声が流れる。 それも今度は彼の声の抑揚を真似て。 考える事が筒抜けになる。 彼自身は全く口を閉じているというのに。
何かクスリを盛られたか? それとも悪い熱帯の熱病にでも掛かったか? これも辺りに声として流れたが、もう彼は無視する事に決めた。
そう考える事を待っていたかの様に、『声』が聞こえた。 先程来の彼を真似た声ではない。
「竹崎進。」
彼は僅かに眉を潜める。
「聞こえているね。」
それは落ち着いた男性の、それも高齢者の声だった。