窓の向こうに見えるのは
亡霊の描写をちょっぴりグロくしてみました。苦手な方はご注意ください。
窓ガラスに赤い手形がついている。いくつもいくつも。
透明な板の外側では、髪を振り乱した女が歯をむき出してケタケタ笑っていた。
その隣は首から上がない男。頭はどこかというと、腹の傷口からはみ出た腸をくわえてぶらぶらと揺れている。
つい見てしまった窓から視線をそらし、長く伸ばした黒髪や制服のボタンをいじる。エルマにとってはいつもの光景だが、教室の皆にこれが見えたら卒倒してしまうだろう。
「キャムデンさん、……を読んでもらえる?」
「八十二ページだよ、エルマちゃん」
先生に指名されても、窓越しの笑い声がうるさくてよく聞こえない。友達のミアが教えてくれたページを開き、礼を言って歴史の教科書を読む。
「六七十年、わずか十五歳で即位したアデルバート王は……」
キャムデン家は、この地を治めるバスカヴィル王家に代々仕えてきた神職の家系である。職業柄、この世にあらざる者と関わる事は珍しくないが、エルマは一族のなかでもとびきりの霊媒体質だった。
「六七二年のラムダ戦役で勝利した若き王は、民衆の圧倒的な支持を得て、国の抜本的改革に乗り出し……」
見えすぎ聞こえすぎる娘を心配する両親は、最初学校に通うことに反対した。確かに、一生家に閉じこもって暮らせば安全かもしれないが、そんなのは性に合わない。どうせ変えられない体質なら立ち向かうまで、と訴えると、根負けして認めてくれたのだ。
「はい、そこまで。続きはオコーナーさん、読んで下さい」
五百年程前の国王の功績をいくつか挙げたところで、席につく。ノートをとる事に集中し、絶対に窓は見ないようにした、のだが。
「さて、今回の授業で触れたアデルバート王ですが、居城だった遺跡が近くにあるのを知っていますか? 窓の向こうにうっすらと見えるのがそうです」
教壇を下りて外を指差す先生に、他の生徒達も窓に群がる。すごーい、とか。ほんとだー、とか歓声をあげながら。
「あら? キャムデンさん、顔色が悪いようだけど……保健室に行く?」
心配そうにこちらを見る先生の背後、何かがうごめく。
『窓の向こう』なんて分からない。
見えるのは、無数にひしめく亡霊たちだけだ。頭蓋が割れ、砕けた顎の絶叫。血と脳漿をまき散らして、彼らは同じ言葉を口にする。
――よこせ。
――おまえの体をよこせ。
「うっ……く」
割れそうな頭を抱えて、うずくまる。
赤く染まった窓からは、外の景色が見えるはずもなかった。
「ふぅ……やっとついた」
管理人に挨拶し、エルマはアデルバート王の居城跡に足を踏み入れた。
体調不良で歴史の授業を早退するまでは仕方ないと思っていたが、その後二日も寝込んだのは計算外で。ただでさえ少ない出席日数がさらに減り、当然家にも連絡が行く。駆けつけた両親には、泣きながら叱られてしまった。
「あー、出席日数やばいわ……このままだと学校やめなさいって言われちゃう」
エルマが寝ている間に、アデルバート王の居城跡を見学したと教えてくれたのはミアだ。クラスの皆は、二週間後に提出するレポートを作成中だとか。
『体は大丈夫なの? 図書室の資料を読んで、感想を書くだけでもいいのよ?』
エルマを虚弱体質だと思っている歴史の先生はそう言ってくれたが、自分だけさぼるわけにもいかない。
こうして、エルマは一人で遺跡にやってきたのである。
若き王の居城は発掘調査が全て終っており、柵で囲まれ管理人が置かれた教養施設になっている。門から離れた所まで歩いてから、皮手袋を取り出してはめた。
「さぁ、いくらでもかかってきなさい!」
言うが早いか、右に裏拳を振り抜く。苦悶の声を聞きながら体勢を整え、左拳で一撃。髪に触れた霊はリボンに弾かれ、腹に突き刺さるブーツに悶絶する。
「なぁんだ、全然手ごたえ無いじゃない」
一人で来たのは思う存分暴れるためだ。人の目がなければ、見えないふりをしなくてもいい。空中を殴ったり蹴ったりするのを変に思われる事もないのだ。とどめに、何百年というキャムデン家の研鑽が育んだ、超一級の対霊武装を装備済みのエルマである。リボンと制服は霊を退け、触れた霊を滅ぼす手袋とブーツで、攻防共に隙はない。
「全く、これじゃ運動にもならないわ」
亡霊三体をあっという間に叩きのめすと他は近寄ってこなくなったが、警戒は解かずに城の中へ。
「あれ? もっといると思ったけど」
そこは外とは別世界であるかのような静寂に満ちていて、不思議に思いつつ見学用の順路を進む。メモをとりながら広間を歩いていると、うなじに感じる冷気。
「……やっぱりね」
ポケットに筆記用具を突っ込み、振り向きざまに一撃。ねばつく腐肉に拳がめり込む不快感に耐え、右足を蹴り上げる。
「この、っ!」
背後の亡霊は芋虫のような姿をしていたが、体を構成する部品は人のものだ。エルマの攻撃でよろめき、細長い体からいくつも生えている腕がふんばった。体勢を立て直すと、腕を昆虫の節足のように動かしてこちらに向かってくる。
「うげ、きもちわる」
吐き気をこらえて逃げ出す。未練や怨念が強すぎると、一撃では倒せないこともあるのだ。広間では分が悪いので、後ろを取られない場所はないかと走ると、ちょうどいい回廊が見えた。
「やった! ……って、あれ?」
しかし、走り込んだそこには先客がいた。黒い犬を連れた赤毛の少年だが、どちらもこの世の住人ではない。しまった挟まれた、とエルマが舌打ちすると、彼が口を開いた。
「止まれ、そこの下郎!」
「うぇっ?」
咆哮とでも呼ぶべき声にびりびりと空気が震え、尻餅をついてしまう。だが、少年の視線はエルマを素通りして亡霊に向けられていた。
「下郎に我が城への立ち入りを許可した覚えはない。早々に立ち去れ」
虫でも追い払うような仕草と一方的な通告。相手が従うことを全く疑っていない様子に、亡霊は金切り声をあげて抵抗した――のだが。
「失せろと言ったらさっさと失せろ!」
一喝。
たったそれだけで、亡霊は跡形もなく消し飛んでしまった。
「うそ……」
思わず漏らした呟きに、主について行こうとしていた犬が止まった。つぶらな黒と目が合い、ふんふんと匂いを嗅がれる。
「どうした、シーラ。どうせ俺達の姿など見えな……ん、違うのか?」
黒い犬は肯定するように一声吠えた。
「おい、女。まさかとは思うが、俺達が見えているのか?」
少年は長身をかがめ、金色の瞳がのぞきこんでくる。彼は確かに亡霊ではあったが、腸も脳漿もはみ出していない。仕立てのいい服の腰に剣を下げただけの、こざっぱりした身なりだ。何も言えずに固まっていると、鼻がくっつきそうなほど顔が近づいてくる。
「こ、来ないでっ!」
エルマは反射的に拳を振り上げた。ぐおっ、という悲鳴と確かな手ごたえ。見事に決まったらしく、犬が心配そうにきゃん、と鳴いた。
「……ちょっ、なんで消えないの?」
「フン、王である俺にそのような小細工が通じるか!」
少年はエルマの手袋を鼻で笑い、切れた唇を拭った。だが、それだけである。他の亡霊を一撃昇天させてきた拳が、彼には単なる浅手にしかなっていないのだ。
「それより女、王を殴ってただで済むとおも……殴った?」
怒っていたと思ったら、少年は突然腕を組んで考え出した。
「シーラ、この女は今、俺を殴ったな?」
わん、と一声。
「つまり、俺達が見えて聞こえて、その上触れるという事だな?」
ぽん、と手を叩く少年に、犬は千切れんばかりに尻尾を振った。
「苦節五百年あまり、俺達はついに見つけたのだな! 見える人間を!」
一人と一匹が抱き合ってはしゃいでいる隙に、と逃げようとした腕は、がっしり掴まれてしまった。
「待て、女! 何やらぴりぴりするな?」
手袋はおろか、制服の霊的防護まで役立たずとは! 少年のもう片方の手が近づき、エルマは震え上がった。
「どれどれ……おお、プニプニだな!」
「ひゃ、触らないで!」
「のぐぉっ! な、なかなかよい拳ではないか」
ほっぺたをつまむ手を振り払い、エルマは腰を入れて、今度は本気で殴った。――それでも、彼は倒れない。
あまつさえ、とんでもない事を言い出したのだ。
「気の強い女も良いな、気に入ったぞ。お前を王妃にしてやろう! この、アデルバート・ノイ・バスカヴィルがな!」
その翌日は休日だったが、エルマは重い足取りで遺跡に向かっていた。
見学どころではなかったせいで、レポートが全くできていないからである。
「まさかご本人がお出ましとはねぇ」
図書室の文献によれば、アデルバート王の治世はたった三年と短い。紅毛金眼で黒い大型犬を伴っていたという彼は、国守りの戦で落命し、享年十八歳で愛犬と共に埋葬された。残存する肖像画に描かれているのは、まさにエルマが昨日出会った少年そのものだ。
「王妃にしてやるとか、結婚してるくせによく言うわ」
文献にはアデルバート王に妃がいたことも記録されていた。王族ならば妻が複数いてもおかしくははないが、気分が良くなるはずもない。王の偉業をたたえる記録にくらべ、結婚のそれはお粗末だったが、エルマにはどうでもいい事だった。
「よく来たな、我が妻よ!」
遺跡に入ると、予想通り妻扱いされてげんなりする。だが、助けられた事だし、王への礼儀は尽くさねばなるまい。
「陛下には奥様がいらっしゃるではありませんか。市井の娘などお止めください」
「あ、あれは」
自分より頭一つ分高い位置にある顔が言葉につまるのを見て、エルマは背を向けた。筆記用具を取り出し、歩きながらメモをとる。彼は他の亡霊と違って話が通じるようだが、今は時間がないのだ。
「あの女は……リィシアはいない」
「え? でも、奥様でしょう?」
文献に離婚の記述は無かったから、奥方は思い残すことなく天に召されたのだろうか? 聞き返すエルマに、彼は苦りきった。
「無論だ。俺が即位すると、方々から娘を嫁にどうかと話が来て、その内の一人を選んだ。なのに、輿入れが終った夜に泣き出して、慰めようとしたら……他に好きな男がいると言い出したのだ!」
「そ、それはそれは」
「親が決めた婚約者と親の都合で引き裂かれ、眠り薬で不覚のうちに連れて来られたと説明した後、あの女が何と言ったか分かるか?」
「さ、さぁ……何でしょう?」
「今日だけは婚約者の思い出を大事にさせて欲しい。どうか母国を許してくれと泣いて土下座したのだ! 胸くその悪い女め、腹いせに婚約者を探して二人共々逃がしてやったわ!」
エルマは言葉を失った。嫁がされた姫もそうだが、十五歳だった彼の心もさぞ傷ついたに違いない。どうりで記録が残っていないわけだ。
「で、でも素敵ですわ陛下。愛し合う二人をお助けになるなんて」
「ふん、あんな女などもう知らん!」
何かをこらえるような顔で愛犬を撫でる彼は、本当にその姫が好きだったのだろう。もしかしたら初恋かもしれない。
「俺はその時誓った。好みの女を……ざっと三百人は集めた後宮を作ってやるとな! お前は記念すべき一人目だ!」
「そんな所、絶ッ対に行きません!」
いい人かも、と思ったことをエルマは激しく後悔した。
「なぜだ? お前は正妃にするし、何不自由ない暮らしをさせてやるのに」
「三百人も妻がいる人なんて嫌です!」
不自由ない暮らしってなによ、亡霊なのに――そうこぼしたところで背筋に悪寒。直ちに臨戦態勢をとって振り向く。
「うわ、また変なのが来ちゃった」
今日の亡霊は蜘蛛のように天井を這い、首を長く伸ばした老爺だ。
「何だ? また闖入者か」
「陛下、危のうございます。王を守るは臣下の務め、キャムデン家のエルマが相手をしますわ」
助けてもらうばかりでは気持ちが悪いと、拳を固めて前に出る。
「キャムデン家……そうか、お前は神職の娘か。見える目に苦しむゆえの武装だったのだな。今まで名を聞くのも忘れ、苦労にも気づかず、すまなかった」
彼はそっとエルマの手を引いて後ろにやり、愛犬に声をかけた。
「シーラ、エルマの傍にいろ」
うぉん、という一吠え。
「あれの目的は私です。陛下のお手を煩わせるわけには参りません」
「王を守るのが臣下の務めならば、妻を守るのは夫の務めだ」
その背中に。妻じゃありません、と言うのはためらわれた。
「王を見下ろすなど無礼であろう! 我が城から、即刻立ち去れ!」
空を揺らす咆哮。老爺はたまらず墜落し、命じられるままに消え去るのみ。
遅まきながらエルマは悟った。この城には亡霊がいないのではない。
王威を恐れるあまり、近づけないのだ。
「俺の治世で民衆が好んだ娯楽か? ううむ……ある豪商から劇場を作りたいと申請が来たことがあったな。連日満員の劇場に、俺もよく招かれたものだ」
「なるほど……」
城の中庭に転がった平らな石。エルマはそこに腰掛けて一心にペンを動かした。
「商人というのは利に聡い生き物でな、劇場が儲かると分かると、何件も申請が来たのだぞ」
「陛下、ありがとうございます。これで私の課題もはかどりますわ」
レポート作成の期限までは数日と迫り、エルマは平日も放課後を利用して遺跡に通った。一回見学に行ったきりで、残りを学校で仕上げたというミアには不思議がられたが、遺跡の方がはかどるのだから仕方ない。
わずかな闖入者も王の威光には敵わず、ここにはエルマを脅かすものは何もいないのだ。実家以外で始めて安心できる所として、筆が進まない方がおかしい。加えて城の持ち主本人がいるのだから、当時の建築様式や風俗などは話を聞けばすむこと。学生が知り得ない情報まで書く訳には行かなかったが、いいレポートが出来そうだとほくそえむエルマだった。
「なぁ、エルマ。なぜ妃にならんのだ?」
「後宮に入るのは嫌ですから」
「では、なぜ毎日城に来る?」
「それは課題のためであって、陛下に拝謁するためではございません。それなのに貴重なお言葉を賜り、恐悦至極ですわ」
「お前……そういうのは慇懃無礼というのだぞ。全く、これだから女という奴は」
エルマの隣で、むすっとした顔のアデルバートは愛犬を撫でた。さすがに言い過ぎたかな、とエルマは後悔する。
「シーラ、エルマという女は冷たいな」
主の言葉に応え、シーラはくぅんと鼻を鳴らして尻尾をふった。
「とり殺そうなどと考えてはいないし、天寿を全うするまで待ってもよいのだ……なのに、聞くだけ聞いて妃にはならんと言うのだぞ」
時折吠えたり顔を舐めたりして、王と愛犬はまるで会話をしているようだ。
「シーラ、俺を慰めてくれるのだな!」
アデルバートがふさふさの毛並みを抱きしめる様に、思わず笑ってしまう。
「陛下とシーラは本当に仲がよろしいのですね。少し羨ましいですわ」
「まぁ、そう妬くな。俺は王族だから、お前のように学校に通ったり、同じ年頃の子供と遊ぶ機会がなくてな。寂しかろうと父上が贈って下さったのがシーラなのだ。俺達はいつも一緒に遊び、兄妹のように育ったのだぞ」
立って自慢げに言うアデルバートの周りを、シーラが嬉しそうに駆け回る。
「学校に興味がおありですか、陛下?」
「ん、ああ。行ってみたいのは山々だが、俺達は城を出ると体が保てぬからな」
空を見上げる彼の顔にしばし考えて。
「陛下、学生はこの書物で勉学に励むのですけど、お読みになります?」
「おお、これは教科書か?」
エルマの差し出した教科書を、喜んでぱらぱらとめくるアデルバートだが、すぐに渋い顔になった。
「むぅ、死んでから時間が経ちすぎたな。書体や文法が違って、よく分からん」
「そ、そうですね。五百年も経つと、会話はともかく記述言語は……あ、この辺りが陛下の治世の記述ですよ」
「むむ……、なんと書いてあるのだ?」
教科書を読みたがるアデルバートに、少しずつ読み方を教えていくまでは計画通りだったが。エルマはすぐに、彼の熱心さに舌を巻いた。未知の言語ではないものの、彼は二時間弱で現在の文字を読めるようになってしまったのだ。
「ふぅ、久々の勉学は楽しいものだな」
「それはようございました。わたくしはそろそろ失礼致します」
二時間の質問攻めに疲れ果てたエルマは、日の傾いた空に慌てた。寮の門限を破っては元も子もない。
「もう帰るのか? もっと教えてくれ」
「お許し下さい陛下、門限を破るわけにはいかないのです」
深々とお辞儀をすると、アデルバートはふいっと顔を背けた。しかし、歩き出したエルマの前にシーラが回り、くんくんと鼻を鳴らしてじゃれついてくる。
「か、可愛いけど……私は帰るの!」
とは言ったものの、服を引っぱられて一歩二歩と立ち戻る。シーラは主の前までエルマを引っぱり、ちょこんと座って尻尾を振った。
「シーラ、別に俺は頼んでなどおらん。褒めたりなど……う、分かった分かった! お前はよくやった」
彼は立ち去ろうとしたが、愛犬に飛びつかれてよろめく。不機嫌そうな顔が、何を見つけたのか急に笑顔になる。
「エルマ、その頬はどうしたのだ? いかんぞ、女が顔に傷など作っては」
「え、あの、かすり傷で」
エルマはびくっと飛び上がった。ここに来る途中に作った傷を、彼が口に突っ込んだ指で撫でたからだ。
「俺が怪我をすると、母上はいつもこうしてくれたのだ。ん? 顔が赤いが、熱でもあるのか?」
一瞬で熱くなった頬を手で隠す。からかわれたと分かって、金色の目を睨んだ。
「ふふん、やはり熱があるようだな。城を出るまで送ってやろう」
「いえ、だ、大丈夫ですっ」
つかまれた手まで熱い。ついでとばかりに、低い声が耳元で囁いた。
「どうした? 今日は殴らんのだな」
次の日。完成したレポートを寮に置き、エルマは遺跡への道を急いだ。アデルバートが喜ぶだろうと、かばんには歴史書が数冊入っているのだ。
「陛下、シーラ、エルマです。いらっしゃいますか?」
遺跡に入ってすぐの広間に、いつも出迎えてくれる王とその愛犬の姿はなく。中庭かと思い足を向けると、突然――それは降ってきた。
「なに? この臭い……」
赤黒い肉塊が放つ悪臭に涙がにじむ。間合いをとったが、げほっと咳き込んだ。 肉塊からは白い腕と足がいくつも突き出していたが、それを使わずなめくじのように這い寄ってくる。五つもある女の顔と目が合った、その瞬間。
―――――――!
身を切りそうな悲鳴が石造りの部屋に反響し、したたかにエルマを打つ。
「う、あ……ぐ」
ふらついたところに赤黒い触手が伸び、素早くエルマを縛り上げた。
「いっ……このっ!」
蹴り上げたブーツで触手を焼き切るが、抵抗はそこまでだった。制服に覆われていない箇所を触手が這い、肌を焼く。痛みとおぞましさにエルマは総毛だった。
「下種は失せろ!」
だが、駆けつけた王の一声で、触手は全て爆ぜ消える。強い腕に抱えられ、思わずしがみついた。
「消えていないだと? おのれ、王命に背くというのか」
アデルバートに降ろしてもらい、エルマはなんとか言葉をしぼり出した。
「陛下、あれは今までのものとは何か違います! ここは引きましょう」
「……いや、すぐに終る」
彼はそう言って、数歩前に出た。肉塊の手足は折れていたが、まだ動いている。
王威に逆らえなかった今までの亡霊とは違うらしい。
「なるほど、根性はあるようだな」
剣を抜くアデルバートの背後で、足に力をいれるが、まだふらふらする。傍でシーラが低く唸った。
王の剣は触手のことごとくを切って捨てたが、一向に減らない。
「ええい、まだるっこしい! 失せろ!」
アデルバートは触手が消えた空隙に飛び込み、深く切り込んでとどめの一声を浴びせた。
「もう二度とエルマに関わるな、消し飛べ! 甦りは許さん!」
びくりと震えたのを最後に、崩れていく肉塊。エルマはほっと息をついて、立ち上がろうと手足に力を入れる。
「エルマ!」
王の叫びに顔を上げたエルマは見た。自分を庇い、三本の触手に貫かれるシーラを。
「しっかりしろ、シーラ!」
アデルバートが今度こそ肉塊にとどめを刺してふり向く。エルマの膝に倒れこんだシーラはきゅうん、と鳴いた。震える手で手袋を外して傷口を押さえるも、崩れるのを止められない。温かい舌でぺろりと頬をなめられて、震えが走った。
「起きろ、シーラ! 勝手な真似は許さんぞ! 王の命令だ!」
泣きそうな顔で叫ぶ主の頬をなめ、尻尾をふること数回。
それが、最期。
アデルバートの絶叫が、どこか遠い国の言葉のようにエルマの耳を過ぎた。
「シーラ! シーラ、行くな! 俺を一人にしないでくれ!」
彼の声が急にはっきり聞こえて――たまらなくなって。
エルマ・キャムデンは、逃げ出した。
翌朝。寮のベッドで目覚めたエルマが最初に感じたのは、ちょっとした違和感だった。次に、かばんを遺跡に忘れてきたことに気づく。
身支度を終えて教室に入ると、眩しい朝日が差し込んでいる。いい天気だ。
「…………っ!」
息を呑む。
透明な窓ガラスから、向こうの景色がくっきりと見えるのだ。
授業中、先生の声がはっきり聞こえる。
吐き気はもよおさず、早退もなし。
むせかえる血臭とは無縁の美味しい昼食を頂き、レポートも無事提出。
「まぁ、すごい頑張ってくれたのね」
先生にも褒めてもらえた。
窓は相変わらず透明なまま――何も見えない。
「先生! 私、遺跡に忘れ物をしたので取って来ます!」
エルマは弾かれたように、遺跡への道を駆け出した。
「陛下、どちらですか?」
道中にも、王城にも誰もいない。
「陛下、お声を聞かせてください!」
どうしたことか、今の自分には亡霊が見えなくなっている。声も聞こえない。それは――アデルバートに謝ることもできないのではないか?
走って走って、広間、回廊、中庭へ。
たった一度だけ、二人で勉強した岩の上に。かばんはきちんと置かれてあった。
「アデルバート陛下、いらっしゃいますか? どうかお姿を見せて下さい!」
目をこらしても、耳をすませても。
――何の気配もない。
「ごめんなさい……私のせいでシーラがあんなことになって……」
熱くなる目の前で、突然。かばんが開き、ペンが勝手にノートに文字を綴る。
『泣くな、エルマ。あれは仕損じた俺が悪かったのだ』
「陛下? いらっしゃるのですか?」
驚いて辺りを見回すも、さっきと何も変わらない。ただペンだけが動いている。
『お前のすぐ傍にいるのだが……俺の姿も見えぬし、声も聞こえないようだな』
「はい。なぜか見えなくなりました」
『俺も理屈は分からぬが、お前からはシーラの匂いがする。あいつが守っているのではないか? 今までお前を苦しめたモノから』
「そんな! どうして、そんなこと」
『決まっておろう。あいつはいつでも俺の気持ちを分かってくれたのだ。俺の望みはお前を守ること、だからな』
じわっ、と涙があふれてこぼれ落ちた。
「でもこれじゃ……陛下にお会いできません。もっと一緒に勉強だって……」
『泣かないでくれ、エルマ。俺はもう触れられぬ。涙を拭ってやれんのだ』
涙をふいて、ぐっとこらえる。
『せっかく殴られないようになったのに、惜しいものだ。俺は今、お前に口付けたのだぞ? 気づかなかったろう』
「なっ……!」
絶句して、唇をごしごし拭った。
『シーラが守っているなら安心だ。これでもう、心残りは無くなった。さらばだ、我が妻よ』
「妻じゃありません!」
そう叫ぶと、ペンは動きを止めた。
ペンとノートを抱きしめると、ふいた涙がこぼれそうになって、顔を上げた。
見上げた空はもう、赤くはなく。
すっきり晴れ上がった、青空だった。