彼の存在
お久しぶりです。
時は移り変わり午後。
酒を飲み交わしていた孫策と周瑜と別れた後、館の自室へと戻り、再び書類と向き合っていた。前にも言ったように独立する前と比べて、やることが増えた。
単純に袁術が治めていた領土の分も孫呉の領土として管理するようになったため、仕事の忙しさは以前の非ではない。毎日毎日、各方面から上がってくる書類の数々を捌いていかなければならない。
不思議なことに古来中国の文字での表記だというのに、読んだり書いたりする行為に関しては何ら支障は無かった。話すときは全員標準語だし、最初の頃は不安だった言語の問題に関しては全て解消されている。
故に政に全く携わったことのない俺でも、ある程度の仕事まではこなすことが出来た。
「……」
黙々と、山のように積み重ねられている書類を減らしていく。
午前中はほぼ仕事をしていないし、その分を取り返すことを考えればこれくらいはやらなければならない。幸い今日一日で必ず終えなければならない仕事はないため、目の前の書類処理に全ての労力を回すことが出来る。
仕事をしているとよく顔を出す孫策や、部下の張楊、趙雲、呂布の三名も今日は一度も顔を出さない。珍しいこともあるなと思いつつも、仕事の効率は良くなる。もしかしたら同じように政務をこなしているのかもしれない。
三人とも武官ではあるが、毎日毎日体を鍛えている訳ではない。彼女たちは俺の補佐であると同時に、部隊を束ねる中枢の役割を成している。つまり通常の武官に比べると、内での仕事量も多い。重要な書類、特に稟議等の必要な書類に関しては全てこちらの書類にはなるが、目視のみの確認で済む書類に関しては任せている。
また最終的に俺の元へと来るため、ミスの心配はほぼない。彼女たちが一回でも目を通してくれれば、本来必要な確認作業も必要なくなるため効率も上がる。
本当に良くできた部下たちだ、俺の下に置いておくには勿体無いくらいに。
「ん……」
先ほど持ってきたお茶に手をかけて喉を潤す。
作業中は集中しているため、あまり気付かないことが多いが、結構のどが渇く。誰かが用意してくれているだろうお茶を数度口に運び、再び書類へと向き直る。どれくらい減っただろうか、いつぞやは先が見えないほどに高々と積み重ねられた書類の山だが、ようやく書類の先にある扉が見えるようになった。
部屋の入り口をいつも見つめている訳じゃないが、目の前を覆っていた書類という名の壁がなくなっただけでも、かなりの量を処理し終えたのだと実感できた。そもそもの話今処理した書類の半分以上は本来なら孫策が処理する書類であって、俺がやるべき書類ではない。
ただあまりに負荷を掛けてはと、作業を多少なりとも分担した結果、渡される書類の数が膨大な量になったということ。
そういえば二人とも仕事は大丈夫だろうか。周瑜に関しては前もって終わらせていそうだけど、孫策はどうだろう。彼女の性格からして全く手をつけていない状況が垣間見える。間際になって手伝って欲しいと懇願されて、渋々了承する……そんな未来が容易に想像出来た。
「あーすか! いるー!?」
「……」
噂をすればなんとやら。
バタバタとけたたましく扉が開かれたかと思うと、頬を赤らめた孫策が駆け込んできた。
先ほどまで周瑜と飲み交わしていたはずなのに、もう終わったのだろうか。俺と別れてから数時間、テンションはいつもと比べても若干高い。まだアルコールが残ってほろ酔い気分が抜けていない状態なのかもしれない。
大きく手を振りながら近寄ってくる孫策を迎えるように作業を止め、椅子から立ち上がると、ニコリと微笑みながらこちらへと歩み寄ってくる。
「よう、孫策。もう宴会は終わったのか?」
「えへへ〜、とーっくに終わってるわよー!」
訂正、若干どころか盛大にぶっ飛んでいた。
むしろぶっ飛びすぎていて若干扱いづらいような気もする。反応が一々オーバーアクションなのは、突っ込むべきところなのだろうか。
「そんなことより! こーんな美少女が居るのに手を出さないってどういうことなのよ!」
「えぇ……」
どうやら完全に酒が回っているみたいだ。
ここまで回っているともはや手の付けようが無い。理不尽な物言いを受け止めつつ、どう対処しようかと頭をフル回転させる。
……あぁ、無理だこれ。
考えて数秒で悟った。こうなってしまった以上、孫策は誰にも止められない。時間が解決するしかないと、俺の本能が悟っていた。
「おいおい。何か足取りも危ないし、自室で休んだ方が良いんじゃないか」
「問題ないわ~。それとも何? 私がここに居ちゃいけないって言うの?」
「そうは言ってない。ただ飲み過ぎで歩き回ったら危ないだろう」
「大丈夫よ。何かあったら飛鳥が介抱してくれるんでしょ?」
「断る」
「なんでよー! 飛鳥のケチーっ! ぶーぶー!」
案の定だった。
頬を膨らませながら抗議をしてくる孫策。飲んだくれて倒れた孫策を介抱する身にもなってくれ、赤ん坊より手がかかるのは目に見えている。そんなことをしたら仕事が完全に止まる、仕事が終わらなければ明日また新しい仕事が舞い込んでくる、結果書類の山が減らなくなり、俺の休日はどんどん無くなっていく。
悪夢だ。仕事で潰れる未来を想像したくない。
流石に完全な放置は可哀想だが、今このタイミングで構って仕事が進まないのはナンセンス。暴れ狂われたら困るが、さすがにそこまで孫策も子供ではないだろう。
大丈夫だ。そう自分に言い聞かせるのだが、その考えはものの一瞬にしてぶち壊された。
「ねーねー、あーすーかー。かーまーってよー」
「っ! こら、後ろから抱き着くな。動きにくいだろ」
「そんなこと言っちゃって~、ホントは嬉しいくせにぃ」
これでもそんな強がりが言えるのかしらと、自身を象徴する豊かな乳房をギュウギュウと背中に押し付けてくる。
腕を前に回し、肩口から覗き込むニヤニヤとした表情が、なんとも悪い顔を演出していた。小悪魔と言い表すよりかは普通の悪魔と言い表す方が正しいか、どちらにしてもやっていることは子供よりもタチが悪い。
「自分の体はもう少し大切にしろ。まさか俺以外にもベタベタくっついているのか?」
「まさか、そんなわけ無いじゃない。私だって女よ? 好きでもない男にベタベタ抱き付かないわ」
「……」
「あー、飛鳥信用してないわね! 本当なんだから!」
信用していない訳じゃない。
むしろ誇れることだと思っている。孫策が誰にでもベタベタするような軽い女性でないことだって百も承知だ。
先日見た夢のせいだろうか、この温もりがいつか消えてしまうのではないかと無意識に想像してしまう。
戦国時代真っ只中の今、いつ命を落とすかなんて分からない。一年先か、二年先か。はたまた一ヶ月後か、一日後か。もしかしたらこの後すぐかもしれない。俺自身が敏感になっているのもあるし、史実通りにいくのなら孫策は許貢の計略によって命を落とすことになる。
そのタイミングは近しい未来、必ず起こりうる。だがいつ起きるのかまでは分からない、その時をもどかしく待たなければならないのか、そう思うといてもたってもいられなくなる。
「もう、飛鳥ったら怖い顔しないの。折角の格好いい顔が台無しよ?」
「あ、あぁ。悪い」
「また私の知らないところで難しいことばかり考えて……二人で居る時くらい楽にしなさい」
「難しい注文だな。善処しよう」
そう答えるしかなかった。
頭の中の疑問は早々晴れるものではない。未来を予測し、完璧な対策が立てられるかどうかと言われれば無理な話だ。先の未来が史実として分かっていたところで、その時代に生きていたわけではないから、どのような状況下で事が動くのかも分からない。
本気で孫策を守るのであれば、常に彼女のそばにいるしかない。ただそんなことしたら孫策は逆に怪しむし、何より本人がそれを望まない。
それが天命だったと、笑って済ます姿が容易に想像できる。
さて、話も一区切りついたところだ。
そろそろ孫策には離れてもらおう。くっつかれることが嫌な訳じゃないが、このままではいつまで経っても仕事が終わらない。少し大人しくしてもらって、仕事が落ち着いたらまた構ってあげよう。
「おい、そろそろ離れられるか?」
「……」
「孫策?」
しがみついたまま、一向に離れようとはしない。我が儘なことはあっても、聞き分けがない事はなかった。心なしかいつもよりも力が込められているようにも思える。
声を掛けるものの、反応がない。いつもならニコニコしながら受け答えをするのに、この時ばかりは逆にこちらが不安に思うくらい静かだった。周瑜と飲み交わしていた時は明るく、元気な姿だったのに、俺の部屋に来たことで何か思うところがあったのか。
とはいえ俺の部屋に来た時には何か変わったところは無かった。
「……」
どうしてかと考えていると、不意に背中から温もりが消える。振り向かずにいると、俺の前の景色が遮られた。
「?」
何故景色が遮られるのか。
理由は一つ、目の前に障害物があるから。その障害物の正体が何なのかを理解するまでに、そう時間は掛からなかった。
今まで後ろにいたはずの孫策がいない。
人がワープするわけはない、そんな特殊能力が使えたらとっくに使っていることだろう。
常識的に考えて、孫策が俺の前に移動したと考えるのが普通だ。
何故わざわざ俺の前に移動する必要があるのだろう。話すのなら後ろからでも話せるし、前に回る理由は無いはず。一体何をしようと……。
「えっ?」
「……」
しているのか、そう言葉を続けようとした俺の体にもたれ掛かる微かな重み。温かくもどこか寂しさを感じる体温。手を背中まで回してぎゅっと体を抱き締められることで、孫策の心臓の音がハッキリと聞こえた。
顔を肩の上にのせ、存在を確かめるかのように何度も何度も背中をさする。スキンシップは激しいが、ここまで如実なのは本当に稀。少なくとも俺の頭の中には記憶がない。彼女の心境がどのようなものなのかは分からないが、正常な精神状態ではないのは確か。
あやすように背中をさするとピクリと体を震わせる。嫌だったのか、驚いたのか、どちらにしてもようやく反応らしい反応を見せてくれた。
「どうした? お前らしくもない」
「……かは」
「ん?」
「すかは……」
孫策の口から僅かに溢れる言葉が聞き取れず、今一度耳を研ぎ澄ます。
「飛鳥は、私の前から居なくならないよね?」
「……は?」
先ほどとは打って変わって弱々しい声で言葉を繋ぐ。言葉の内容に思わず間抜けな声を上げてしまうが、孫策の心情を把握するために話を聞いていく。一体何が理由でそんなことを聞いたのか、普段の彼女からすれば考えられない話だ。
「一体何があった? 可能なら詳しく話して欲しい」
「夢を見るの。飛鳥が私の目の前で死んじゃう夢を……」
ポツポツと話し始める孫策。
戦国時代真っ只中なのだから、物事に絶対は無い。だからどれだけ強大な力を持っていたとしても、負ける時は負けるし、命を落とす時は落とす。如何に優れた武将だったとしても、明日命を落とさない保証はない。
ここは俺が生きていた時代ではない。いつだって誰かに命を狙われている可能性だってある。現にこの状況だって、窓の外から誰かが見張っているかもしれない。
だが、それはいずれも夢であって、現実ではない。そこまで気にする必要もないだろうと伝えていく。
「あまりいい話じゃないのは確かだけど、あくまで夢だろ? 夢ならそこまで気にする必要もな「違うのよ!」―――ッ!」
強く、はっきりと孫策に否定される。
「夢は夢でも、ここ最近ずっと同じ夢を見続けているし、何よりかあさんの時と似ているのよ!」
「かあ、さん?」
一体何を言っている。そこまで孫策が捲し立てる理由。理解が追い付かずに俺はだんまりを決め込むしかなった。




