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ドイツ教養小説(ビルドウンクスロマン)の歴史 history of deutche Bildungsroman全50作品の解説

作者: 舜風人

1、その歴史


ニーベルンゲンの歌

パルチバルなどの古神話とか


もっと古くはイリアスオデッセイアなどのさかのぼる叙事詩が始原であろう。


独逸だけに限れば


ジンプリチシムス(阿呆物語)von グリンメルスハウゼン


がこうした長編で一人の主人公がさまざまな体験を経て成長していくというの小説の元祖である。


もちろんこの小説もロマンピカレスクの延長線上にあることは否めないが


グリンメルスハウゼンはそこに主人公の精神的な成長譚を

味付け?するという新機軸?を生み出したことは特筆に値するだろう。



メシアス  von クロップシュトック  これは叙事詩



ここからがドイツロマン派の範疇になる。


アルディンゲロと幸福の島 vonパウルハインゼ  これは熱狂的なギリシャ賛美の小説である。


ヴィルヘルムマイステルの修行時代   これこそがドイツ的な教養小説の始まりとなる。


ファウスト


詩と真実 von ゲーテ


青い花    ノヴァーリス

ヒュペーリオン  ヘルダーリン

巨人      ジャンパウル

生意気盛り


フランツシュテルンバルトの遍歴  L,ティーク


ヴィリアム・ロベル氏の話


ゴドヴィ、ブレンターノ


ドロレス伯爵夫人  アヒムフォンアルニム


悪魔の霊液  ETAホフマン


予感と現在  アイヒェンドルフ


画家ノルテン メーリケ


晩夏 ナハトゾンメル  vonシュティフター


農夫ウーリ  ゴットヘルフ


天と地の間  ルートビッヒ


緑のハインリッヒ  ケラー


飢餓牧師  ラーベ


貸し方借り方  フライターク


ツアラツストラかく語りき。ニーチェ


マルテの手記  リルケ


ペーターカーメンチント  ヘッセ


シッダルタ


ブッデンブローク家の人々  トーマスマン


魔の山   同上


審判・城・アメリカ  カフカの三部作



フェービアン  ケストナー


特性のない男  ムージル




2、その考察。


教養小説ビルドウンクス・ロマンとは一人の青年を主人公にして其の青春の軌跡を辿りさまざまな経験をしながら成長していくさまを描いた、いわば人生案内の小説を言う。


こうした内容の小説は世界中にあるがもっとも開花したのが独逸の近代小説群である。

ここでは幾つかを取り上げて特に其の結末について見て見たい。


独逸教養小説の代表といえばこの本、「ウイルヘルムマイスターの修行時代・遍歴時代」である。

この小説では主人公ウイルヘルムは最後に青春の迷妄やら、空想的な人生観を脱却して、一人の実務者として人生の諦念に至り、仲間とともに新天地アメリカ大陸へ移住するところで終わる。

いかにもゲーテらしい青春の幕引きでは有ろうか。


アイヒェンドルフの代表作、「予感と現在」(ahnunk und gegenbald)では、

主人公フリードリッヒは友人とも別れて、青春の狂乱を棚上げし、自分は一人森の中の修道院に

修道士として入っていくところで終わっている。

彼の仲間たちは新天地アメリカにわたろうと準備してフリードリッヒを誘ったのに、

彼はそれを断って静かな瞑想生活を選んだのである。

いかにも正統派ロマン主義者アイヒェンドルフらしい終わらせ方ではないだろうか?


いずれにしても夢見がちな青春はやがて終わる。

そうしてこの世知辛い現実の仲で、一人の生活者として汗水たらして生きていくしかないのである。


ケラーの『緑のハインリッヒ」では、

主人公は遍歴のはてに、ふるさとの小さな村に帰り、

そこで市長?になって、郷土のために尽くそうというところで終わっている。

若き日には画家になろうとしたハインリッヒは大都会での生活に疲れ果てて

故郷で現実のつましい暮らしに戻るのである。


ヘルダーリンの「ヒュペーリオン」hyperionでは、

いかにも古代ギリシャの熱狂的な崇拝者らしい、ヘルダーリンらしい結末となっている。

独逸を、彼は「乏しい国」という。芸術が咲き誇り、賢者たちが談論に花咲かせた古代ギリシャに比べて

独逸はあまりにも文化が乏しいからだ。

主人公ヒュペーリオンは祖国独立戦争に参加するも其の戦争の悲惨さに絶望し、あまつさえ最愛の理解者理想の女性、ディオティーマも亡くなってしまい、一切に失望した彼は、

故郷のギリシャに帰り、其の地で一人の隠者として自然のなかを、さまよいつつ日々を送るのである。


「阿呆物語」(ジンプリティシムス)では主人公のジンプリティシムスは独逸三十年戦争の修羅場を放浪しながら、辛酸を嘗め尽くして、人生のすいも甘いも嘗め尽くして悟るところがあり、インド洋の果ての絶海の孤島で、一人の隠者として静かに余生を送るのである。


ボルテールのアレゴリー小説「カンディード』も、フランス版教養小説であろうか?

カンディードも戦争や放浪の中で、世の辛酸を嘗め尽くして、

やがてトルコの、一寒村で、百姓になるところで終わっている。

議論を吹っかける師に対して、カンディードは言う。

「それよりも、とにかく、私たちの畑をまず耕しましょう」


ヘルマンヘッセの「シッダルタ」では、

聖なる悟りを求めて、求道する、青年としてシッダルタを描いているが、

やがて年老い、さまざまな見聞のはてに、

追い果てた彼の目には涙がこぼれ、

安らぎとともに、

真言「オーム」を称えるところで終わっているのである。


教養小説ビルドウンクス・ロマンなるものが、多く、青春の終わりの頃で、筆をおき、その後の人生については暗示だけにとどめたのは、象徴的である。


たとえばアメリカ大陸に渡るというところでとどめたからといって、主人公はアメリカでもさまざまな苦労に逢うだろうし、悲惨な死を遂げると読者は想像することも可能である。


つまり言うまでもなく人生はそこでとどまることなく棺のふたを覆うまで続くのである。


現実はとてつもなく巨大で、青年らしい、ロマンは、やがて打ちのめされるのは必定であろう。

肉体は年とともに老いていくし、夢もかすんでいく。


やがては夢も希望もない、無味乾燥な中年男になってしっまうのが関の山だ。


それが大方の青年の辿る人生行路である。


画家になりたい。音楽家になりたい。


あるいは途方もない恋を夢見たり、

大冒険に憧れたり、

革命を叫んだり、

しかしやがて、それも自然崩壊して、

所帯じみた中年男が出来上がるわけである。

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