第6話:治療、あの人との会話。
【6】
誰もが倒れたイズナに意識を集中していた。だから誰からも静止を受けずにニョルズと呼ばれていてた少年に駆け寄ることができた。俺はイトゥンと同年代の細い体躯の少年の顔を覗き込むように屈み込むと「ニョルズ! 声が聞こえるか!」と話しかけた。
「…ああ、巫女様のおかげで、だいぶ楽になりました。きっと、身体を治してご恩返しを……」
かがり火の炎に照らされた顔は赤い色に見えていたが、やはりかなり青白い。意識はあるようだが、目は見えているのだろうか。ニョルズの負った傷は、右腕の脇側の付け根と、右太ももの外側。ぱっくりと割れた傷に赤黒い血がこびりついている。ゼリー状に固まった血液で出血は止まっているように見えたが、その実、まだ緩やかに出血は続いていた。ニョルズが声をだした途端、また、血があふれ出した。
俺は両掌を伸ばし、傷口を強く押さえた。
「おい、お前…」
「ニョルズ、傷の具合は…」
同時に声をかけられた。バルドスとイズナだった。俺はその声をふさぐように声を上げた。
「巫女殿の治癒は万全だ、後は俺が引き受ける! すぐに湯を沸かしてくれ! 綺麗な水で大量にだ! 建物の中に彼を寝かせる、清潔な布を敷いてくれ! 敷き布のほかに傷口を縛る布も用意しろ! 布はすべて洗いたての清潔なものに限る! さあ急ぐぞ、巫女殿の祈祷を無駄にするな!」
腹の底からの大声だった。集まった者たちが一瞬、凍ったように動きを止めた。次にバルドルが1歩前に足を進めたところで「布はどこ?」というイトゥンの声が、皆の間を抜けて聞こえてきた。「イトゥンさま…」という戸惑いの声を上げる社の女官と思しき女たちに向かってイトゥンは「布と、お湯、準備する、どこ?」と声を重ね、右に左に動き回っていた。
「急いでくれ!」
俺がまた声を上げると、バルドスは怒りの表情を浮かべたまま、「布と湯だ! さっさとしろ!」と怒鳴った。バルドルが周囲にぐるりと視線を走らせると、凍りついていた時間が動きだした。男たちがぱっと散ると薪を抱えて戻ってきて、女たちはどこからか持ち出してきた大きな器で湯を沸かし始めた。女官たちがそれぞれ布を抱えて走り回る。
☆☆☆☆☆
それからは無我夢中だった。おぼろげな記憶と予測で「圧迫止血法、止血帯」の対応を行い、足の骨折を、たぶんこうだろうという感覚でつぎ直し「添え木」を行った。ニョルズに布を噛ませ、傷口を「流水洗浄」し、俺が持っていた常備薬ポーチの中から化膿どめの「塗り薬」を傷口に塗りこみ、痛みどめの「経口薬」を飲ませた。
ひどくいい加減で拙い動きの治療法だったと思う。学生時代、社会人になってから義務や必要に迫られて聴講していた「救命講習」「AED講習」での残っていた記憶。友人の競技中の事故で見かけた骨折対応光景と、整骨・整体師からこぼれ聞いていた知識。薬局にて買い求めていた自分用の常備薬、アルコールスプレーなどを使い、汗だくになって対応した。
煮沸消毒に必要とする時間すら正確に分からず、三角帯の縛り方も忘れていた。しかし、とにかくできることを行った。傷口を開かせない程度に数か所縫うことすら行った。数年前にYシャツのボタンを縫うために購入していた携帯用ソーイングセットが薬ポーチの奥に入ったままになっていたのは幸運だった。
月が出ていた。
大きな半月で、浮かび上がった模様が自分の記憶どおりの形をしているのか、いまいち判別ができない。血まみれになった両腕を湯で洗った俺は、すぐ傍らに静かながらしっかりとした呼吸音を発し眠るニョルズの生命の息吹を聞きながら。社の周囲の森から聞こえる、ホー、ホー、という鳥の鳴き声に意識を遊ばせていた。ときおり吹き流れる、ざざざざー、という梢の音も心地よい。
月明かりの下、目の前に、痛々しいほどに肉付きの薄い少女が立っていた。イトゥンだった。彼女は「食事」と言って俺の前にひざを合わせて座ると1枚の皿と茶碗を置いた。少女の大きすぎる瞳から目を離すことができないまま、礼を言おうと、ちいさく口を開いた俺より早くイトゥンが言った。
「ニョルズを助けてくれて、ありがとう」
いや、俺は…、声にならないまま口元で言葉を探した。助けた? 助けることが出来たのか? 明日の朝には様態が急変しているとも限らない、下手をするとこのまま息を引き取ることも考えられる。どれだけ血が流れたのだろう、そして傷口は化膿したりしないだろうか、敗血症とかの感染症にかかってはいないか、高熱を出して苦しみだしたらどうしたら良いだろう、そもそも意識が戻らなかったら? 頭は打っていないのか? よくない考えや予想が脳裏を駆け抜け、全身を冷えさせた。
「あなたは確かにニョルズを救ってくれた、ありがとう」
月明かりを照りかえす、黒曜石よりも光る瞳もまっすぐにイトゥンは俺を見ていた。また風が森を走る。俺は粘つく喉を鳴らしてから答えた。
「全力を尽くした、それでも先のことは分からない」
「ニョルズは助かる、命が光ってる」
皿に手を伸ばした、茶色のごつごつしたビスケットのようなもの、干した棗と杏のようなドライフルーツ、そして滝でも淹れてくれたお茶だった。茶をひとくち喉に流し込んだ。やはり美味い。
ビスケットをひとくち齧る、ぱさぱさした食感と素朴なうま味が口の中に広がった、イモか根類と木の実と一緒に砕き練り焼いたものだろうか。そういえばこれが今日初めての食事だった。朝、滝の水をたらふく飲み、茶を1杯いただいた後は飲まず食わずだったのだ。干し棗を舌に乗せた。
「甘いな」
自然に浮かぶ笑みを消せなかった。イトゥンはしばらく俺を見つめた後に言った。
「これから巫女さまが来る」