第51話:月光、夜の湖、――見つけた光、明日。
【51】
新年の宴が行われた。
まだ冬の冷たい空気、冷涼で身の引き締まる中、山社に演台が設えられ、飾り布が翻る。昼間から白酒が振る舞われ、音曲が奏でられ、舞があり、踊り、謳い、皆が晴れやかに笑顔を浮かべる祭りが始まった。高い高い青空の下で、皆が伸びやかに新年を、新たな一年の来訪を喜び、命を輝かせていた。
俺は祭服を着せられて舞台の一角にて里人皆の前に立った。細かい盛り上げ役は全て人任せだ、夏の祭り同様に舞の名手が新作――新たな伝承を題材とした振り付け―――を引っさげて全てを演じ切った。大いなる巨人を従えた勇士が、山を登りくる大軍勢をばったばったとなぎ倒し、傷を負いながらも敵の大将をやっつける爽快劇だ。そして仲間がなだれ込んでの大勝利。違うだろうとは思ったが、それで盛り上がるのなら仕方がない。
俺はただ堂々と最後に姿を現し、傷が癒えた偉大な勇士として立っていればそれで事足りた舞台だった。肩と背中の皮膚のひきつりをわずかに我慢して、腕を振り上げ雄々しく槍を構える所作だけで、それだけでもう舞台の締めは大盛り上がり。俺の無事を自ら確かめることができた里人たちも安心という訳だ。
特に老人たちの中には涙する者までおり、当事者だったむさ苦しい戦士たちにも男泣きしている者がいた。子どもたちは頬を薔薇色に染め上げて見上げてくる。その輝く瞳を正面から受け止めるには、俺は罪深く薄汚れすぎているように思った。だがこれも仕事なればと微笑んだ。青空が眩しかった。
そして祭りの一日は終わり、夜も更け、祭事の余韻もだいぶ引いた。
俺は早々に社の大広間、いつも俺が眠る場所で寝具の上に座り込みながら、どうにもいたたまれない感情を持て余していた。なんだろう、この落ち着かなさは、何か悪い予感がする。そして俺は眠る前にここ最近の状態について、一向に終わらない考えについて整理していた。
俺はイズナのことが好きだった。
それは間違いない。俺は彼女のことを好ましく思っていた、正直ひと目惚れだった。美人だから? そうだな彼女はきれいだな、とてもきれいだ。若く麗しく、そしてとても強い心と使命感を持っていた。人間的に尊敬できた。やや堅苦しく、愛想が無いのが問題ではあったがそれはそれで。健康面にやや不安があるか。でもそれがなんだ、とにかく俺は惚れこんだ。
しかしそれはもう終わった話だ。
俺はバルドルの気持ちに気が付いた、俺は二人の関係の後押しをした。たぶん彼女にも秘めた思いはあったはずだ。お似合いの二人だった。俺は二人を祝福すべくちょっとしたきっかけを作り上げたにすぎない、順当にいけば彼らは見事な夫婦となって、この里の素晴らしい指導者夫婦として確固たる存在になったことだろう。
その俺が彼女と? ありえない! 俺をどれほどの恥知らずにしようというのだ。はやくこのような状況は終えなければならない。新年の祭りは終ってしまった。あと数日を経ると祝言の用意が始まってしまうはずだ。その前までに全ての誤解を解いておかなければならない。なのにイズナは冷涼な面で機械的に優等生発言を繰り返すだけで、バルドルもあれからちっとも足を向けてこない。
時間が無いだろう!
宴も終わったのだからそろそろ身体も空くだろう。いい加減、ここでらしっかりとしてもらわないと、知らぬうちに外堀を埋められて、里人の信頼を損なうことにもなりかねないぞ。
だいたいだ、イズナもイズナだ、自分の意志はどこに行った。俺だって男だ、魅力的な娘と果報すぎる状態を勧められたら心が動きかねない。バルドルにもしっかりしろと言いたい。安心してるんじゃない、俺はあいつほど清廉潔白な人間じゃないんだから、もう、本当に我慢の限界が来るぞ!
落ち着かない、落ち着かない、落ち着かない。魅力的な娘を目の前にぶら下げられたからなのか、だから落ち着かない? 分からん。ただイズナはものすごく魅力的な事は事実で、彼女の前で、格好悪く、一方的に拒絶することが難しい。いやもう十分すぎるほどに俺は格好悪い姿を晒したがな! いい年をした大人でおっさんなのに、いまだに彼女の顔をまっすぐに見つめることができない、できたとして、とても平常心では行えないほどに彼女の魅力に参っている。そうか、俺は彼女に弱いのか。どんだけヘタレの女好きだ。俺は色魔か。
だが、今の落ち着かなさはそういうことなんだろうか。バルドル、あいつがイズナを想っていることは知っている。分かる。分からんはずがない。金色銅剣の奉納式で、峠の最終決戦であいつがヒトガタと同調する時、その空気で俺は知覚している。隠したって分かる!
だが、あいつは一向にその後の不満も、不安も、望みも出さない。俺に対する敵意や嫉妬も向けてこない。あいつが本気で彼女を手に入れようとするのなら俺は全力でそれを助けるだろう。だがそうだな、言い換えればあいつが本気で彼女を手に入れようとしないなら、俺は遠慮する気が起きないと? 俺だって彼女が好きならば、俺はバルドルに殴られることも土下座することも厭わない覚悟で、胸を張って告げるだろう「惚れているんだ、遠慮はしない」と。もしそうなったら、俺は申し訳なくは思うだろう。だが、惚れた女を手に入れるとき、せめて見合った男であろうと胸を張ることはするだろう。正々堂々と殴られ、殴るだろう。
胸を張る?
俺は胸を張れるのか? 胸を張って「イズナが好きなんだ、バルドル相手にだって譲る気は無いんだ」と言えるのか、イズナとバルドルに向かって俺は胸を張ってそう言えるのか、俺の気持ちを受けてくれ、理解してくれと言えるのか、いま俺の胸の中に占めている、このざわめきは何だ、このいたたまれなさは何だ。
いたたまれない。
社の外はとても静かだ。冷えた冷気が俺の頭を冷静にする。人の気配が、少し離れた場所からする。隣の庫裡、外のどこか、里から届く小さな明かり、星空、明るい月。そう――月。イズナは月のようにきれいだったな。俺はそっと目を閉じる。俺は惚れていた女の横顔を思い出そうと目をつぶる、自分の心に向き直る。
声が聞こえる。ずっと声が聞こえるのだ。耳の奥で、胸の奥で、何かが俺に語りかけている。大きな声で、でもとても小さく。俺は閉じた瞳のまぶたに浮かぶ、何かを見ようと深呼吸した。痛苦しく止められない胸の奥、俺の、俺の、俺の本当の気持ち、本当に望むもの――いますぐに会いたい、そう願う相手の顔――
俺は飛び出した。
寝具を跳ね上げ、転げるように立ち上がり、社の大広間から弾けるように飛び出した。行かなければ、今すぐに、今すぐに、本当にたった今すぐに!
大広間前の廊下にイズナが立っていた、婆さんに手を引かれ、まるで婚礼衣装に身を包みバージンロードを歩いている新婦のような雰囲気にど肝を抜かれた。銀髪は月明かりに照らされ、その光を反射させて光り輝いている。とてもきれいだ。悲壮美に彩られ、まるで魔物の生贄に捧げられる乙女のように美しかった。
「イズナ!」
俺は叫んだ。
「すまないが俺はお前と一緒にはなれない! 大好きだ! 君のことを素晴らしく魅力的な女性だと思っている! だが、だめだ。俺は君とは一緒にはなれない。俺は君とは一緒にはならない! 君は俺の一番じゃないんだ、すまないな!」
それだけを一気に叫ぶと俺は廊下を転がるように駆けだした。焦る俺の眼にはイズナの唖然とする表情が横目に残った、唖然とする表情と同時に、ほっとする空気が流れ、俺の背中に感じられもした、しかしそんなことはどうでもいい! 俺は駆けだした、そして耳に流れて込んでくる婆さんの声だけが聞こえてきた。
「――ほほっ、振られたぞイズナよ。してオマエはどうするかね?」
全てを振り払い俺は駆けた。どこだ、どこだ、どこだ――。
社の本殿にはいないのは分かった。そこで隣接する庫裡に向かった。そこでは女官やクナたちがお祝い膳を仕込んでいた。煮炊たきの良い香りと蒸気が土間を占め、汗ばんだ額とまとめた髪から見えるうなじが健康的な色気をかもし出して空間に充満していた。奥ではスュンやシェヴンが祭りの衣装のまま、ふたたび化粧と紅を注して、何かの祈りだか願いごとだかをするような、奇妙に身体をくねらせる仕草の練習をしていた、何だこれから恋物語か愁嘆場の出し物でもあるのか。
いやそんなことはどうでもいい! 俺は彼女たちから視線を外して目的の人物を探した。
突然扉をぶち破って飛び込んできたかのような俺の訪問に、女官もクナもスュンやシェヴンも飛び跳ねるような驚きの表情を見せた、そして「どうなされたのです?」「今宵は祝言のための三日夜の初日――」「本殿でお待ちいただかないと」「巫女殿はもう向かわれて」「後ほど私たちめも参ります」
訳が分からんことをまくし立ててきた。知るか!
全ての声を振り払い俺はそこを飛び出した、駆けた、庫裡中を駆け回った。違う違う違う、どこにいるんだ! 俺の前になぜいない、なぜいてくれないんだ! どこに姿を隠している、まさかもう二度と俺の前に姿を現さない気じゃないだろうな! 里に下りているのか、俺は庫裡を飛び出した。そして気が付く、山社の山門前、敷地に繋がるぎりぎりの場所、そこにバルドルがいた。ぼんやりと放心し銀色の月を見ていた。
「バルドル!」
俺の叫び声にバルドルはゆっくりと振り向いた。その動きは、まるで傷つくのを恐れる小鹿のような姿に見えた。いつも雄々しい若獅子はそこにはおらず、まるで揺れる水面のように繊細で痛々しい若者がいるだけだった。俺は白ざめた表情のバルドルに遠慮も無く言葉を叩き付けた。
「俺はイズナとは一緒にならない!」
俺の叫び声は庫裡の壁を打ち、山門前のバルドルを打った。
「オマエ、何を――みんながそれは似合いだと――」
「違うだろう! そうじゃないだろう!」
俺は叫んだ、ただ叫んだ、なぜ分からない! だがバルドルはまるで道に迷った子どものような瞳で苦しそうに言葉を吐いた。
「――オレもそう思ったんだ。継手と巫女はお似合いだ」
だからそうしろ――、という風にバルドルの口元が動きそうに見えた。感じた。俺はその言葉が紡ぎだされる前に、矢継ぎ早に言葉をぶつけた。
「馬鹿野郎! 勘違いするなよ! イズナは素敵な女性だ、心惹かれている! でも、俺にとっての一番じゃないから、だから今は口説かないだけのことだ! だが、誰もがいつまでもそうとは限らないぞ! 俺はこれから、とっておきの一番の娘を口説いてくるんだ! 俺が彼女の二番目三番目になる前に、手遅れになる前に! お前も手遅れになる前に惚れた女の心を掴んで離さない方がいいぞ! じゃなきゃ身勝手な奴が横から掻っ攫って行っちまうんだ!」
何を偉そうなことを俺は言っているんだろう、何様だ。しかもなんだ、色魔の宣言かこれは。そうだった俺は色魔だったな。くそったれ。だが、気持ちが焦り、どこにも向けられない怒りに似た何かが俺の口から思いつくままの言葉を吐き出させていた。そうだ、手遅れになる前に、彼女が俺以外の奴の手に落ちる前に、手を取る前に! 俺に彼女の手を取る資格、そんなものが無いとしても!
俺は唖然と呆けているバルドルに対して「伝えたぞ!」と最後に告げると再び駆けだした。これだけ言って分からない馬鹿ならもう知らん! 俺は馬鹿の相手をしていられるほど暇じゃないんだ、俺は俺の惚れた相手を探さねばならん、どこだどこだどこだ彼女はどこだ! 俺は完璧じゃない、どうにも不格好で考えの足りない情けない男だ、これでバルドルのように若ければまだ救いもあるが、もうすっかり大人でくたびれたおっさんだ、成長の余地も無ければ、未来の可能性も希望も全くない。なんて情けなく無価値な男だろうか。こんな男が一体全体どんな姿で女を口説きに行けるというのだ。でも、やるのだ、やるしかない、ぶつけるしかない、言うしかない、きれいさっぱり暴露するしかない。俺の情けなさも、俺も気持ちも、俺の下心も、きれいさっぱり全部込めて言うしかない!
「どこだ!」
俺は社の広場で、山門で叫んだ。社の中にはいない、庫裡にもいない、山門にも、見張り小屋にだっていなかった。どこにいるんだ、俺の前から消える気か、それとも里に下りているのか。俺はその時、ふと何かに気が付くように山頂へ目を向ける。砦――? 違う!
俺は駆けだした。
月明かりの下、木々を抜け、踏み固められた雪の山道を駆け上がる、息が切れる、汗だくになる、構うものか、もともと俺は汗っかきだった、いつだって汗を流していた、火傷をしても汗腺が消えなかったのは幸いだ、もう俺の体調は本調子だ、何が不調だ、不調だったのは俺の頭だ、俺の判断だ、根性だ、いや根性は生まれた時から絶不調だったな! 何を寝ぼけていやがったこの馬鹿が! 俺は駆け上がる、息を切らして駆け上がる。
つい先日まで俺が寝泊まりしていた祠、そこに駆け込んだ――いない!? 違った? いや、棚の寝具が乱れていた、俺が使っていた布が無い。俺は泉に脚を向けた、泉の中央で、各坐して身体を休めているヒトガタを見た。いまだ癒えぬ傷痕をさらしながらゆっくりその巨体を休めているヒトガタを見た。ほのかに燐光を帯びて、清冽な佇まいを見せている俺の相棒――。
ヒトガタの傍に彼女はいた。
コックピットハッチのすぐ傍にいた。彼女が身に着けているものは真っ白な麻布の短衣、この真冬の夜には薄着すぎだった。それを薄めの寝具で上半身を覆っている。布を口元に当て、残り香を嗅ぐように、丸まっていた。細く、痛々しいほどに細い体躯を折り曲げて、肉付きの薄い肩と腕を伸ばして、ハッチをギュッと抱きしめて寄り添っていた、そこかしこの残り香をかき抱くように、唇と鼻先を寄せて。短衣の裾はずり上がり、腿の付け根のぎりぎりになっていた。その肉付きの薄い四肢の、唯一そこだけに女の証を色付けしているような腿が見えた。わずかな丸さ。まだ幼い。もしくは乙女への萌芽を持つ少女。俺のような俗物には目の毒だ。そんな俺の視線に気も付かず、苦痛を抑え込むような表情で、細い腕でコックピットをかき抱いている彼女。
俺は焦りと胸の疼きを押し殺し、ゆっくりと泉に足を入れた。冷たい、そして痛い。それほどの冷気だった。
音も立てずに俺は歩み寄る。
黒く光沢のある髪が細い細い首筋にかかっていた、繊細でシャープな頤がまるで剣鉈の切っ先のように美しかった。震える瞼からは幾筋も残る涙痕が、刃の波紋のようにやわらかそうな頬に残っていた。長い長いまつげ、色を失いかけた形の良い唇、肉付きの薄い二の腕に肩、細い細い体躯の不思議な少女。この小さな身体で、どれだけのことを俺にしてくれたことだろう、俺に与えてくれていたことだろう、俺を最初から最後まで認め、助け続けてくれていた大事な――。
「――イトゥン、ここにいたのか」
いてくれたのか。
「何でこんな場所にいるんだ」
俺は探した。すごく探した。
「御使いさま……」
月明かりの下、ヒトガタの影、イトゥンは薄く瞳を開けると首をめぐらして俺を見た。瞳には靄がかかっているかのように焦点が定まっていないように見えた。眠っていたのだろうか。いやこんな場所で眠ったら身体が凍えて死んでしまう。
梢の音がする、風が木々の枝を通り抜ける音がする。雪が積もり始めた山々はおそろしいほどに静かだった。切ない。寒い。そうだ彼女の身体はきっと冷えている、俺は彼女を温める役になりたい、その資格が欲しい。細い体躯、幼い肢体、なんて痛々しいのだろう。俺はなんて年老いているのだろう、不完全で無才なのだろう。彼女は若く幼すぎ、俺は年老いて醜すぎる、なんて不格好で合わさらない。
「君はいつでも俺をそう呼ぶのだな」
俺は少し悲しくなりそう言った。俺がもっと若く、もっと力強く、もっと雄々しく、もっと自信を持つ男であったなら、少年や青年であったなら、俺はきっと堂々と彼女に、もっと早くに彼女に、大事なことを伝えていたような気がする。いやどうだろう、やっぱり腰が引けていたか、何しろ俺って奴はどうにも情けないから、でも、それでも――。
「君が望むなら、俺は『御使い様』になろう。立派な御使いになろう、努力する」
なんだ、なんて情けない。なんて伝えれば、どんな言葉で俺はこの気持ちを、この想いを、ああ、どうやれば。
「だから聞いてくれ、知っておいてほしい。俺は、俺は――」
大事なそのひとことを伝えようとして、俺は掠れ貼り付く喉を、唾液を飲み込む。俺はつっかえるような言葉を舌に乗せ、最後の臆病さを叩きだそうと、いままさに吐き出そうとした。その瞬間、その刹那、彼女は俺の胸に飛び込んできた! 華奢な肩が、細い胴体がすっぽりと俺の胸の中に入ってしまう、細く細く頼りない腰が俺の腹に当たり、彼女は崩れ落ちるように俺の首筋に縋りつく。俺はちいさくちいさく壊れそうな頭をかき抱き、細く頼りない背中に腕を回した。なめらかな髪をかき分けて、奥にかくれた真珠を探すようにイトゥンの耳を見つけ出した。そこに唇を寄せ、しっかりと声に出した。大事なことだ、伝えるべきことだ。
「――君のことが大好きなんだ。君を失いたくない、傷つけたくない、俺のものにしたい、君の一番でありたい」
縋りつく腕に力が籠る、かき抱く腕に力が籠る。
「君が大好きだ。愛している。どうか君の気持を聞かせてくれ――」
イトゥンは小さく小さく痙攣するかのように声を詰まらせる。ああ泣かないで、どうか泣かないでくれ! 君の涙を見ると俺は不安になるんだ、そしてどうか答えを。俺は君のように心は読めない。だから、だからきちんと言葉で君の気持が知りたい。でないと分からない、分からない、分かりたくない! 不安でたまらない! 答えを! 頷いてくれるのか首を振るのか!
君に無理をさせた、山ほどに無理をさせた、君の心を傷つけ続け、逃げ出してばかりだった、気が付かないふりをしていた、そんな俺だ、駄目な俺だ、駄目か、駄目だろう、俺のように醜く身勝手な男は君にふさわしくないのはもう分かっている! 分かってはいるんだ――
「ジロ、ジロ、トラジロ! すきだよ!」
彼女は叫んだ。
俺の胸の中で、俺の胸を濡らして、俺の中で震えながら、身体を突っ張るように。激しく首を振った後、涙でぐしゃぐしゃになった顔を俺に向けた、きれいな顔が台無しだった。しかし赤らんだ頬のなんと美しいことか、開花する花のようにその薔薇色が俺の胸を打った。
「だいすきだよ!」
再び叫んで俺の胸に顔をうずめ直した、ごしごしと俺の胸に頭を頬をこすり付ける。そして再度顔を上げて彼女は叫んだ。山々に響けとばかりに叫んだ。
「わたしははジロがだいすき!」
響き、渡った。
イトゥンは高らかに宣言をした、勝利の雄叫びを上げた。俺は大きく息を吐いた。空を見上げて腕の中のぬくもりを感じた。呼気が熱い。大敗北の黒星を付けた俺は、見つけた、俺は見つけた、俺の光であり明日を見つけた、腕の中に見つけた。俺は彼女を力いっぱい抱きしめた。光はちいさく可愛い悲鳴を上げた。
☆☆☆☆☆
軽々と少女の身体は持ち上がる。
俺の両腕は彼女を軽々と持ち上げ、俺の両脚はしっかりと大地に付いている。俺の足にスニーカーはもうなく、つる草と樹皮で編まれた履物を履いている。俺の着ている衣類に化繊のものはなく、麻と毛織と毛皮の上着を身に着けている。俺の肉体は半年を越える月日をこの地で過ごし、引き締まって強靭になった。毎日食する糧が俺の肉体を形作り、かつて俺を構成していた細胞はすべて入れ替わり、いまこの新たなる大地で息を吸っている。
見つけた。見つけた。見つけた。
俺は見つけた。俺の宝物、俺がここで生きる意味、俺が生涯誇りとする何か。それがいまこの両の腕にすっぽりと納まっているのを知覚した。俺の目の前にはヒトガタがあり、俺の背後には祠があり、俺の眼下に里がある。俺の、全て、俺の愛するもの全て。胸の奥で暖かく熱いなにかが生まれるのが分かった、脊髄を通り抜けて全身に広がって行くのが分かった。喜び、歓喜、晴れやかな高揚感、どのような言葉でも表現できない、高まり続ける何か。それを俺は知っている。咆哮!
俺はひと吼えして、そっと彼女の唇に寄り添った。
☆☆☆☆☆
星々が消えてゆく、青が世界を染める、朝日が上る、世界が光に満たされる、澄んだ空気、小鳥のさえずり、それは――。
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