第50話:戸惑、道を探して。
【50】
俺が意識を取り戻して二十日ほど経った頃だろうか、やっと体の調子が戻ってきた。といっても、やっとしもの世話までは受けずに済む、風呂にも何とか一人で入れるという程度のことではあるが、俺は人間らしさを取り戻せた気になっていた。なんにせよいままでの境遇はありがたく、そして情けなかった。男の見栄も沽券も見事に粉砕される体験だった。
彼女たちへの感謝は忘れず、羞恥に身悶えそうな体験だけを忘れることは出来ないものか、というのが最近の考え事のひとつだった。なんとも平和なことだ。少し前なら思い悩む要素はもっと沢山あった。しかしこうして身体の回復が順調であるのならば、俺はまだこの里の役に立てる。そしてバルドルがいる。強く逞しく凛々しく若々しい、強い守護者が生まれた。もう安心だ。安心していいはずだ。
俺は泉の祠から、山社の大広間に移された。
さすがに面会謝絶に近い状態が終ったのだ。俺の身体への、感染症への考慮だったのだと今なら分かる。しかし誰がそのような知識を皆に流し込んだのか。考えられるとするならイトゥンだ、彼女が俺との共感時に得た知識を、里の皆にも共有させたという事ではなかろうか。寝て過ごすだけの日々で考える時間がたっぷりあったのだ、この程度のことは予測できた。やはり俺はイトゥンに助けられていた。もう誰に、どこに向かって胸を張って良いのか分からない、俺の頭は下がりっぱなしになったと思う。
俺は毎日眺めていた風景、冬の青空と森と泉、そして泉の真ん中で焼け爛れて各坐していたヒトガタにしばしの別れを告げることにした。――ありがとう、すぐに戻る、俺の傷が癒えるようにお前も傷は癒えるはずだ、そうなるようにすぐに会いに来よう、お前と俺はいつだって一緒だ――。俺はヒトガタに話しかけた。今まで横になりながら常時話しかけていたように、毎日話しかけていたように話しかけた。
そして俺はユーミル婆さんと対峙した。正しくあるべき状態への提案を申し出るために。
☆☆☆☆☆
「あと十日程、新年の祭りの後に、お主らの祝言があるぞ?」
「だからなんでそう勝手に物事が進められているんだ!」
あまりにおかしな状況に、俺は婆さんを問いたださずにはいられなかった。俺は治療のため同席しているイズナの方を向き「イズナ、君はこのように勝手に話が進められて納得しているのか、していないだろう」と言うと「急に動かないでください、治療が進みません――」と呟く声が聞こえただけで、その表情は長い髪に隠れて見えなかった。そしてすぐに祈祷が再開され彼女はトランス状態に入る。心地よい光。今はまだ、俺はイズナの祈祷と温泉治療を続けてもらわなければ四六時中全身を襲う痛みに耐え続なければならない。彼女は俺に付きっきりだった。会話は碌に無いが。
山社の大広間はかつてそうだったように俺のために開け放たれた。
そこで俺は祠で受けたものと同様の、イズナの祈祷、クナの用意してくれる風呂、スュンやシェヴンの温泉治療を受け続けている。最低限の身の世話は出来るとはいえ、まだ社から出ることも覚束ない。イトゥンともあれから一向に会えていない。もう、ひと月近く会えていない。気配はする、少しする、それだけだ。だがいま大事なことはそれじゃない。
本当に俺の身体は良く回復した。しかしいまだに本調子とはほど遠く、俺はうんざりした。確かにいま、俺はイズナの力を必要としている、ほとんど一日中共にいる。それゆえに婆さんが言うところの「里人の皆が祝福しているという提案」に対して強く抵抗できる雰囲気というか気概が湧いてこない。「二人の仲は親密だ」と言う噂がある? 馬鹿馬鹿しい戯言だ。だがバルドルは始終戦後の対応に追われ続けている様子だし、いったい二人はいつ会話を交わしているのだろう? 二人の関係は、気持ちは、決してこのようなことを喜んでいるはずがないのだ、早く二人の意見を調整してもらってタッグを組んで俺へ援護をして欲しい。
「バルドルを呼んでくれ」
「何故に戦士長の確認が必要なんじゃね? 社と里の運営と、戦士を束ねる仕事は別物じゃよ」
「分かってて言っているだろう、婆さん!」
俺は歯をむき出しにして唸った。婆さんは飄々と笑顔でいる、てめぇ、これ以上二人をコケにしているとタダではすまさんぞ――。
「皆が納得しています」
イズナが声を上げた。涼やかで綺麗で威厳のある声だった。
「里人の皆が、この提案が素晴らしいものだと言っております。里を導く私には提案を断る理由は何一つありません」
冷たく頑なな言葉だった。
☆☆☆☆☆
祈祷の助力には、巫女と、また祈りの対象となる者に近しい者、血縁者であればもっとも良いと言われている。俺の血縁者はいない訳だから、俺に近しい者として、戦士たちは交代で、寸暇を惜しんで祈りに協力してくれていた。彼らは一様に俺に対して優しかった、そしてイズナの介助で身を起こし、礼を述べる俺を見て微笑んだ。ありがたく、そして困る。噂は一向に消えない。
イズナが祈祷に専念し、婆さんは何やら企んでいて、イトゥンの体調が本調子ではなく、俺がこのざまであるなら、里の運営はただひたすらに、里長と戦士長バルドルの負担になる。海社のフレイとヴァールをはじめとする皆も協力してくれて、撃退したものの散り散りになった敵兵士たちを里に入れないように注意を払っていたし、ムスペルの残骸回収にヨトゥン撃滅の確認、大猿の行方、そして戦死者の埋葬――など、やるべき事柄は山のようにあった。それを全て負ってくれた。感謝の言葉も無い。
俺は既にひと月近くただ怪我の治療に専念していた、それほどの怪我だった。そしてやっとだいぶ良くなった。ざっと見る限り俺はだいぶ回復した。回復したことで「夏のビーチで日焼けがすぎて病院に搬送された阿呆」のような肌色と顔立ち程度にはなった、つまり肌は真っ赤でまだらで黒い。キモチワルイ脱皮中の人間モドキだ。しかも関節部のひどさがまだ残り、俺は熱を持つ皮膚を冷やし、治療を進めるために1日何度も泉の水に浸かる必要があった。初冬の水は冷たすぎてやはり少し温めてもらう。そして湯船分を温めるのは大変だ。この労苦に汗を流すクナの苦労がやはり忍ばれる。彼女の手はあかぎれていた、常時冷水に手を浸し、多くの擦り傷を作り薪を割り、常に湯を作ってくれていた。そしていくらか運ぶ距離が狭まったとはいえ、毎日温泉を運ぶスュンやシェヴンの手も豆だらけだった。俺は多くの人の労苦を経て、なんとか命を長らえた。俺はその心遣いを、恩恵をなにがしかの形で返さねばならない。
婆さんは言う。
「里の指導者として、里を統べる世継ぎが必要と思ったんじゃよ。お主は御使いに乗ると失神する、身体と心をすり減らす。となれば今回のことのようにそれを『癒せる』者と番うのがは自然なことじゃ。戦うお主と、癒す巫女。それが正しい姿ではないか。それが夫婦であれば文句はない。そしてオマエたちの血を引く稚児は、きっと強く逞しく成長し、この里を立派にそして大きく育て上げるだろう」
――と言うのが里人の意見でな、と言ってかかかと笑った。
「無責任で安易な発想だ、誰が――」
「だから里人の噂話、夢描く未来のお話じゃよ。女が身命を賭して救おうとした、その恋心に気が付いて、その想いを酌もうという親切心もあるのかもしれんなぁ」
「何を馬鹿なことを!」
馬鹿馬鹿しい、心底馬鹿馬鹿しい。イズナにはお似合いの想い人がいるはずだ。そうだ、この山社の祭壇に飾られた金色銅剣の主だ。あの剣はいまこの大広間には無い、イズナの私室にあると聞いている。そこで毎日里の鎮守を祈祷しているそうだ。もうそれでイズナの気持ちは分かりきったことではないか。
「イズナ、君の本心を言ってやれ。皆が勝手に――」
「私はそれで構いません」
決然と言い切る凛々しい乙女がいるばかりだ。
「ユーミル様が申すとおりに、里の皆の願いと祝福があるのであれば、きっと私たちは良い夫婦となり稚児を授かることでしょう」
俺は全身を苛む痛みを感じて呻いた。呻き続けた。心も身体も絶不調だ。そして何も言い返すことが出来ない境遇に絶望して、再度眠りにつくばかりだった。