第5話:怪我、ニョルズの血。
【5】
どうやら俺はかなりよくない立場に立たされているらしい。少なくともこのバルドルにはかなり胡散臭がられている。どう言ったら分かってもらえるだろう? とりあえず俺が欲しいのは、当座の身の安全と、この里や周囲の情報なのだけれど……。
ここは本当に過去の世界なのかな。タイムスリップとかだとしたら人権意識はないだろうから、村の掟破りに対する懲罰は、かなり過酷なものになったりするのだろうか。嫌過ぎる。今ある荷物の中に何か即興で役に立つ品とかないだろうか。例えばキーリングに付けているLEDミニライトとかは生活の役に立ちそうだから、それでも見せたら何か好感触を得られるかな。でもなぁ、日中見せても微妙だろうなぁきっと。それにそれは技術ではなく道具だ。俺がその複製を作れないと意味がないような気がする。
まずい。沈黙がまずい。しかしここで「だって俺、知らなかったもん!」とか言うともっとまずい状況になるのは間違いない。ここで俺に求められているのは、言い訳ではなく、謝罪でもなく、具体的な対策なんだ。でも、なにを言えば良いだろう。「何でもします」も解決に繋がらない気がするNGワード臭い。
バルドルが「おい、お前…」そう口を開きかけたとき、入り口のあたりで声が聞こえてきた。
「大変です! 婆さまっ、巫女さまっ、ニョルズが怪我をして! 大怪我なんです!」
全員の視線が外を向く。バルドルはさっと立ちあがると外へ向かって大またで歩きながら叫んだ。
「どういうことだ! 詳しく、順序良く話せ!」
婆様をはじめ娘さんたちも壇上から降りてきて戸口へ向かう。なんだか非常事態っぽいので、自分ひとりのんびり座っているわけにもいかず、俺も彼らの後ろについて戸口へ向かった。
社の外はきれいな掃き清められたちょっとした広場になっている。そこにバルドルと同じ年頃の若者がひとり、息を切らせ、汗だくになっていた。
「ニョルズのやつが、山菜を取りに行って、そこで崖から落ちて、足が変になって、血もたくさん出て、いま里のものが、こっちに……」
「ホド爺はなんと言っている!」
「だめだって、こんな大怪我じゃ、もうだめだって。でもよぉ、ニョルズは笑ってよぉ、大丈夫だからってよぉ、もう血がどんどん出てきているのによぉ……」
事態を知らせてきた若者は、そのうち涙声になってきた。バルドルが振り返り婆様と視線を交わすその直前で、イズナが2歩前に出た。
「ニョルズはここに運ばれているのですね? すぐに治療の準備をします、用意を!」
建物の奥からも数名の若い女性が出てきていた、イズナはてきぱきと指示を出し始め、とたんに周囲があわただしくなり、社前の広場に、まだ少年と言ってよい年頃の子どもが担ぎ込まれてきた。土ぼこりと泥に汚れた姿で、力なくぐったりしている。左足が太ももの『途中』でだらんとしていて、右足と右手が真っ赤に染まっており、出血はそのあたりからのようだった。広場の真ん中に筵のようなものが敷かれて、そこに少年が寝かされた。イズナは少年、ニョルズと言うのだろう、彼の両頬を両手ではさむと目を覗き込むような姿勢で話しかけた。
「ニョルズ、しっかりなさい。私の声が聞こえますか、ニョルズ」
「…はい、巫女様」
「いまからあなたを治療します。いいですね、気をしっかり持つのですよ」
「はい、巫女様、ご面倒をおかけ、します…」
イズナは悲痛な表情を浮かべると、再度周囲の者に指示を飛ばした。なんだか回りに藁や薪が積み上げられ、火種を持った者たちが火をおこし始める。イズナの前には水の入った桶が置かれ、彼女は手渡された枝から木の葉を2枚千切り浮かべると、真剣な表情で祈り始めた。
大いなる者よ、我々を導く漂泊者よ、大地と空の調停者よ、我らが祈りを聞き届けたまえ。あなた様の息子が、いま血を流し苦しんでおられます、そのおおいなる御手にてお救いください。キトゥ、キトゥ、ラマタァクゥ、レマィ、レマィ、サヴァタァク……。
ニョルズを運び込んできた者たち、知らせを受けて駆け込んできたのだろう里の者たち、だんだんと集まってくる者が増えてきて、ニョルズの周囲3箇所に置かれた焚き火の向こうから半円を描くように座り、こちら側をじっと見つめ始めている。
彼らの正面に向かい立つのは、ひざ立ちで祈るイズナだ。補助するように彼女の左右に2人の女性がかがみ込み、背中を丸めて地面に額をこすりつけながら、ハァ! ヤァ! という何か合いの手のような大声を上げる。太陽は徐々に西の空に傾きはじめ、夕闇がだんだん濃くなってゆく。かがり火の明かりがだんだんと色を増してゆくように見える。
その中、確かにイズナの身体は発光していた。小さな光の粒のようなものが、かがり火と、補助の女性と、周囲の皆から、ぽつりぽつりと頭上に飛び出してイズナにゆっくり吸い込まれる。そして1筋の光の流れのようにイズナからニョルズに流れ込んでいた。
長い、長い、祈祷になった。イズナは汗ばみ、少しづつではあるが声が枯れはじめている。空は薄暗くなり、夜の帳が周囲ににじみ始めた。
「イトゥンさん、これで彼は助かるのか?」
俺はあまりに長い祈祷の緊張感に耐え切れず、隣で座るイトゥンに話しかけた。ほんとうは婆様に確認したかったのが、彼女はイズナの数歩後ろに陣取っており、傍には近寄りづらかった。バルドルはその斜め後ろでかなり渋い顔をしており、時々彼の傍に駆け寄り耳打ちするように会話をしてくる若者に対して、一言二言の言葉を交わしては、元の場所に戻らせていた。その中、ほんの少しだけ離れた場所に座ることになった俺の傍にいてくれたのがイトゥンだったからだ。
イトゥンの姿を見た数名の里の者は、日ごろ見かけない姿の俺に気が付いて、一瞬奇妙な顔をするが、祈祷の声が高まる度に、意識をニョルズに戻していた。声は彼女にしか届かなかったはずだ。イトゥンは、相変わらずの透明な表情のまま、淡々とした声で答えた。
「わからない、ここまでの大怪我に祈りを捧げたのはそう何度もない」
「今までは成功していたのか?」
「ごく、たまには」
かがり火を映す大きな黒い瞳を見ながら、その回答を聞きたとき、俺の奥で何かがが弾けた。
イズナの声が唐突に途切れ、身を崩す音がした。皆がざわめき、女性たちに介抱されるイズナがいた。俺は人の輪の中に飛び込むように前に出た。