第36-2話:【断章】フレイ。
襲来は唐突であった。
海社の巫女として、巫女見習いを束ねる長として、私は継手殿を海社よりお見送りしてからすぐに、我が里においてもしかるべき準備を進めるべく、腕利きの戦士たちを山社の里へと送り出すことを行った。そして里内でいくつかの役割を割り振り、海社を避難場所として整備するべく作業指示を始めた。
二十日ほどの日数を経て、それぞれの作業に一定の目途が付き、また、送り出した戦士たちがひととおりの訓練を終えて里へ戻ってきた。戻った戦士たちは皆、山社の里における盛況さと精悍さを口にしており、さすがは山社という評価をあちこちで聞いた。戦士長バルドル殿と並び、継手殿は皆を良くまとめ、万事抜かりなく盛り上げ、準備を進められているご様子を伺うことが出来た。となると海社の里においても同様に、戦士の育成について邁進すべき、その準備を始めた矢先のことだ。
私はスュンとシェヴンを伴って、ヴァール殿の屋敷にて今後のことを話し合っていた。そこに、果国の兵が山社へ向かってきていると、狼煙と伝令により伝えられた。すぐに戦士たちを動員し、山社への助けとして向かわせなければならない、まだ戦士団としては完成していないができるだけ多くの戦士を送り出し、女衆も助力に駆けつけるべき、そのようなヴィーダル殿の采配が出ようかというところで、新たな報告が見張り台から届いた。
「船が、ものすごい数の船がこちらに――! そして黒い巨人が――!」
私はヴァール殿と共にすぐに浜へと飛び出した。
私は目が良い、すぐに浜の沖合に数多くの船舶の姿を目にした。その数は十や二十ではない、おおよそ百、まさかそれ以上と言うことはあるまい、しかし正直、この位置からでは正確な数は数えれない状態だった。それほどの船団が沖合に迫っていたのだ。
船の大きさは我ら里の者たちが使う物とそう変わりはないようだ。一艘に六人から八人ほどというところか。里の者が所有する中型の漁船とほぼ同じ、しかし里には百艘もの数は無い。
「――来おったか。よもや海からもやってくるとは、ぬかったわ」
ヴァール殿はいつも見せる朗らかな表情を一変させ、ぎりりと歯ぎしりをたてその面相を歪めた。そしてすぐに号令をかけると戦士たちを集め、対応を決めた。
その内容は、戦士の半数が船を出して接岸を妨害し、残りの半数は里人を取りまとめ海社へと避難をするというものであった。同時に山社へ狼煙の返答と共に伝令を飛ばし、海からの襲撃を伝える指示がなされた。
ヴァール殿は息子どのを従えて海での迎撃に出るそうだ。しかしあの数である、とても押さえきることは適うまい。まして向うには、ここから見ても不可思議なほどに大きな大きな黒い巨人の姿があった。波間に浮かぶのはその上半身だけではあるが、おそらくその大きさは継手殿が従える『大いなる漂泊者』―ヒトガタ―と同格のものだろう。その大きな体の腰部に多くの丸太を付けているのだろうか、ふかりと波間に浮かびながら曳航されているように見えた。それが――、五体もいる!
ざわめく里人と戦士を前に、ヴァール殿はいつもの陽気な笑顔を浮かべ言った。
「船を出して、打って出る。なに、ある程度を叩き落し、あとは時間稼ぎよ。この海周辺のことは誰よりも我らがこそが知っておろう。潮の流れ、岩場の位置、浅瀬、洞窟、全てをだ。すべきことを終えたら接岸し、山に逃れ、時を見て海社の者どもと合流いたそう。なに、いつもの賊退治を少しばかり大がかりにするだけだ」
ヴァール殿は、かかかっと豪胆な笑顔を見せるが、いつもの数ではないことは明白だ。従う者を怯えさせまいとの配慮なのだろう、立派な長であると言えた。ならば私もその姿を見習うべきであろう。
「では、我ら巫女一同は、皆さまのお帰りを食事と白酒の用意をしてお待ち申し上げます。本日は暑くなりそうです、たっぷりと用意いたしましょう――」
薄く笑う私の声は震えてはいなかったろうか。顔色が白くはなっていなかったろうか。しかしヴァール殿はおどけるように鷹揚に答えてくれた。
「おお、おお、巫女どのたちが戦後の宴の用意をして待っていてくれるともなれば、男衆は腕と度胸をよほど魅せねば席に付けんな。皆、励めよ。男衆総出で馳走になろうではないか。社の蔵を空にしてくれようぞ」
里人と戦士たちから笑顔がこぼれる。良いことなのだろう、悲壮な顔で送り出したくは、ない。
☆☆☆☆☆
ヴァール殿も戦士たちも必死になって応戦してくれたのであろう。陸で避難を指示し、移動する我らにその戦いぶりを窺い知ることは出来ない。しかし間違いなく雄々しく戦ったであろうことは予想できる。しかし、数が、数だ。押しとどめる間もなく敵――果国の船舶は接岸を果たし、兵士と呼ばれる男たちが里へとなだれ込んできた。
里の老人、子ども、女衆を急ぎ海社の山へと逃れさせ、浜に残る戦士たちは押しとどめるべく奮闘した。ぎりぎりの間で、我らは海社の山へと逃れた。
海社へと続く海側の登山道を登り、関を越える。
登山道は3つあり、その全てを封鎖しなければならない。ここの関造りには継手殿が知恵出しと下準備をしてくれていた。「峠の砦も同様に作っている、まずは関と、そこで迎撃する踊り場、そして併用しての罠――」そう語るあの方の横顔をいつまでも眺めていたいと思った、真剣な瞳で図面を引き、指示を飛ばす、我らが英雄殿よ。我らの救い主よ。今はあの方の仕掛けを信じるだけだ。
里人が抜けた後、すぐに関を閉じ、汗まみれの戦士たちは封鎖にと残り、残る里人たちは海社まで避難した。巫女である私はすぐに里人の受け入れ準備を、指示を行った。「食事と水の用意を、そして武具の配布を」戦士たちは手に手に、銛や弓や投石器を持ち集ってくれていた、だが、すぐに必要となるはずだ。
そして私は海社の高台にて、海での、海岸での迎撃を見た。
ヴァール殿が所有する大きな戦船とそれにつき従う船団、その数は出港した時は三十艘ほどであったはずだ。それがいま眼下には、僅か十艘に満たない数となっていた。他の船は既に接岸し、海社へと向かっているのだろうか、そうであってほしい。勇敢な男たちの誰一人、失ってはならないのだ。彼らは里の宝、里そのものなのだから。そうだ、怪我をしているかもしれない、清潔な布、それも必要だ、傷によく効く薬草も。
そう考え、傍に控えているスュンに申し付けると、彼女は白い顔色のままではあったが「わかりました、ただちに――」と返事を返し、庫裡に向かった。シェヴンは既に武具の配布にと駆け回っている。
私は海辺を眺め続けた。浜には数多くの船が接岸されていた、そして浜辺に設置された見張り台と狼煙台、そしてそれを囲む柵の周辺に、幾人かの姿があり、それを取り囲むように果国の兵士たちが群がっているように見えた。駄目だ、あそこはもう、持たない。いや違う、彼らがあそこで果国の兵を引きつけてくれたからこそ、里人は山へ逃れられたのだ。あそこに残る戦士たちを救う手だてはないものか。
海では、ヴァール殿の戦船たちが、果国の巨人に挑みかかっていた。
遠目で良くは見えないが、巨人を浮かせている大丸太、その筏をかすめて、丸太を縛り付けている縄を切り裂いているようだ。大丸太が少しづつ解かれる度、巨人は傾ぎ、両の腕を振り回し、ヴィーダル殿たちの戦船を払おうとするが、ヴァール殿たちの操船は巧みですぐに腕の届く範囲から逃走する。そして安定を取り戻そうと躍起になっている巨人の死角を選んでは、再び忍び寄って綱を切る。見事、見事な海の戦士たち。
しかし、船団の目標が明確な故か、徐々にヴァール殿の指揮する船団は少しづつ果国の船舶に囲まれ、動きが鈍くなっていっているようだ。指揮する船団が少しづつ削り取られてゆく。我ら海社の船舶の側面で、後ろで、人が切り結ぶのが見える。弓を射かけられ、海に落ちる戦士たち。
しばらく私はその光景をただ眺めていた。巫女見習いたちが里人の受け入れのために駆け回っていたが、私はただそれを眺めて佇むことしかできなかった。そこに報告が入った。
巨人の来襲あり――!
巨人が海社へと迫ってきた。ヴァール殿の奮戦むなしく、巨人の何体かの接を許していた。
その一体が、夕焼けにその身を染め、左右に身体をゆすり、ゆっくりとした仕草で登山口を登ってきている。戦士たちは斜面から、石や弓、槍を投げ込み、その多くを命中させてはいたが、巨人はどのような攻撃にも歩みを妨げられることなく、ただ首を振るい、手で払いのける仕草だけで登山口を登り続けるのだ。そして刺さった矢や槍をひととおりへし折ると、射かけた戦士たちへ向かってその巨大な手を振り下ろす。山道で素早い身のこなしを妨げられた戦士が、ひとり、またひとりと、まるで虫が潰されるように叩き潰されるさまを見た。
血と肉と脂を手に貼り付かせて、巨人は再び歩みを進める。登ってくる。そしてその大きな腕で、登り口第一の関を一撃で吹き飛ばした。柵と戦士がはじけ飛び、ごっ、という音がしたと思った次には、ばりばりばり、という音を立てて、いろいろなモノが空から落ち、森の樹木をなぎ倒し、枝をへし折っていった。そして巨人は、ぶるりと身を震わせると関を乗り越え、再び山道を登り始めた。関を破壊された戦士たちは潰走を始める。
私は海社の物見台から駆けおりると、山頂外周部に設けられた最後の関へ走り込んだ。そこには関を守る戦士と、頭から血を流し、腕から血を流し、槍を杖のようにして必死で立っている傷だらけの戦士たちがいた。私は戦士たちの背後から声をかけた。
「皆、ご苦労です。怪我を負った者は下がりなさい、海社で治療を受けるのです。」
「ですが――」
「しかし――」
「ここは私と、怪我をしていない者で守ります。さあ、早く」
息も絶え絶えな戦士たち、その者たちの肩を叩き、背中を押し、山頂奥の海社へ促すと、私はこの関を守るべく立っている数名の戦士たちに向かって笑顔を向けた。
「厳しい役回りですが、どうかお願いします」
「巫女どの」
古参の戦士がいた。漁船団を指揮する者だけがする刺青を右頬にしている。見覚えのある顔で、海社の関造りで尽力をしてくれていた戦士であった、確かヴァール殿の娘婿殿ではなかったか。
「ここは我ら男衆にお任せください、巫女どのは社にてお控えを」
彼は潮風でよく日焼けした顔に笑みの皺を作り、そう言ってくれた。
「いいえ、私はここにおります。海社を守る皆様のすぐ傍で、その勲を見守ります」
「参りましたな、見届けとなるとこれほど嬉しいことは無い、しかし巫女殿には社を――。ああ、これはもう間に合いませんか」
海社の山、山頂外周部にまで巨人は迫ってきた。柵の外側で控えていた戦士が数名、矢を射かけていた。巨人の顔を狙ったようだ。しかし巨人は、僅かに顔をそむけ、片手で顔を覆うだけで矢の効力を打ち消してしまう。そして次の瞬間に、その大きな腕を振るうと、たやすく柵を打ち破った。
先ほどまで、巨人と私の間にあった関は消えていた。音も聞こえなかった。暴風のような風が私の全身を打ち、私は地面に倒れ込んでいた。
巨人は悠々と越えてはならない境界線を越えてやってきた。私の目前には、巨大で、醜い肉のひきつりを持つ巨人がいた。ぷしゅしゅしゅーという呼気が耳を打つ、まだ海水をしたたらせているのが見えた、濡れた肉の肌に、海藻と新緑の葉を貼り付けて、こちらを覗き込むように前かがみだ。私は胸の苦しさを覚える、呼吸ができない、恐怖で肉体が委縮しているのだ。
異形で醜く巨大なモノ。巨人はそのおぞましき姿かたちをそのまま晒していた。そして鼻を突く匂い、これは――腐臭か。死の匂い。この巨人は死を運び、また己の肉体すら腐らせながら、朽ちさせながら戦士を、人を、滅するのか。なんと呪われた生き物だろうか。しかし、その力は絶対的で、いま、その巨人の腕が再度振りかぶられた。私が地面から仰ぎ見る夕焼けの空は赤く、雲は薄く伸びていた、明日も良い天気になるのだろう。そして濁ったおおきな瞳が私を見ている。しなる大きな腕が、いま、振りかぶられ――。