第33話:海社、戦士の安らぎ(3)
【33】
「どうか―――」
フレイが白い夜着ひとつの姿で俺に縋りついている。成熟さと若々しさの絶妙なバランスを感じさせる肉体が俺の胸に収まり、それはしっとりとした湿度と熱を持っていた。俺の眼前数センチのところで襟ぐりが大きく開き、なめらかな肌の背中が見える。日焼けしたように見えた肌でも、この月夜の下ではくっきりと浮かび上がような白さだ。俺の胸元に添えられた唇から吐かれる呼気は熱く、髪から、全身から立ち上る香りは甘く、俺の脳髄を痺れさせた。
「もう、待てないのです―――」
かすれた声が俺の耳朶を響かせた。待て、ちょっと待て、状況を整理しろ。うん、それがいい。がんがんと脳みそを叩かれるほどに血管内を流れる血流を後頭部に感じながら、俺は視線を周囲にめぐらせた。
俺は海社の広間で休んでいた。うん、休んでいた。今夜の大舞台でヴァールを始めとした里の皆は喜んでくれたはずだ。長槍を引き抜き天に掲げ、大歓声を受けた後はそのまま山を駆け下りて、海辺にて「試し」とばかりに軽い電撃を二連撃。砂浜でバリバリと上がる稲妻の光は間違いなく海社からも見えたはずだ。
山を駆け降りた俺を追うように、里の皆も山を駆け降りてきていたのだろう、歓声の声が聞こえた。その歓声を聞きながら俺は思いつくままに槍を振り回した。槍術の型など知らない、それでも突き入れ、振り、掬い上げ、回転させ、受けと返しのイメージで槍を振るう。悪くない、手になじむ、俺は長槍の間合いを覚えるべく振り回し続けた。身体に熱が溜まってゆくのがわかる、機体が温まるごとに動きにキレが増し、そして限界まで熱を有するとヒトガタの動きに踏ん張りが利かなくなる。電撃の迸りは筋肉の動きをやや鈍らせることも知った、そうか。そしてひとまず充分な完熟訓練の手ごたえを感じ、機体の動きを止め、ふいごのみ回転させ冷却に専念した頃、わーーーーーという歓声と共に人々が砂浜に走り込んできた。
皆が踊るように飛び跳ねながらヒトガタに群がった。やがて輪になり、ぐるぐると周囲を回りだし、両手を振り上げ、腕を組み合わせ、ぐるぐるぐるぐると踊りだした。やがてヴァールが人の輪を潜り抜けてヒトガタに歩み寄って俺に呼びかけた。俺はコックピットハッチを開き、身体を出した。歓声がひときわ大きくなる。ヴァールが太陽のような笑顔を見せる、俺も笑う、皆が笑う。喜びの声が弾ける。月夜の海岸で笑顔が弾ける。やがて酒宴用の白酒が持ち込まれ、海辺にて俺は立て続けにヴァールと二杯を酌み交わし、そして―――記憶にございません。
俺は仰向けになっている。背中には暖かな毛皮の感触、衣類は清潔な木綿らしき着物だ、夜着のようだ。そしてここはたぶん海社の広間だ。俺はあの『試しの儀』にて見事仕事を果たしたはずで、そのあとヒトガタを海岸に放置したまま酔いつぶれたのだろうか? だとしたらあまりに情けなく、そして無責任だと思う。いかん。
しかし夜のとばりは既に深く舞い降りていた。数刻前までの熱気は海風によってその痕跡をすべて吹き飛ばされ、騒音もなく、ただ静けさと充足感だけが海社の空間に満ちていた。俺の身体は程よい疲れの余韻を残し、掌はいまだに熱を帯びている。槍を引き抜く際の摩擦と捻じれ、それのフィードバックが俺の両手を傷めつけたのだ、同調率は上々ということだろう。そして、甘い香りは俺の鼻孔を満たし、どうにも納まりつかなくなりそうな感覚と感情を膨らませようとする。いかんだろう、これはたぶんいかんだろう。
「フレイ殿」
俺がそう呼びかけると、彼女は陶酔したような熱を帯びた瞳を俺にそっと向けた。まるでいま俺が目覚めたことに気が付いたかのような瞳のゆらめきを感じた。
「貴女も白酒を召されたか。酔いどれへの看病には感謝いたしますが、そのようなことはお止めなさい。年若い娘の戯れは男を惑わします、御身を大事になされ――」
「私は十九になりました」
フレイは俺の言葉に声を重ねてきた。俺の照れ隠しで連ねた言葉、時代がかった物言いや建前を彼女は一蹴して言葉を繋げた。瞼を降して、やや恥じ入る風に。
「もう、若い娘ではありません。私は十九になりました」
ため息をひとつ、そして深呼吸をした、いかん、甘い香りが肺にまで入り込んでくる。俺は両の掌に力を込めた、大丈夫だ、この痛みがあるうちは俺は俺の役割を忘れずにいられる。
「私にとっては充分に年若い娘さんですよ、さあ――」
「この年になりましても、いまだ私は女の価値を知りません。巫女としての役を拝領したのは11の時、それゆえ当然のことではありますが――」
しかし俺の声を二度にわたってフレイは塗りつぶしてくる。
「私は巫女の役割を必死でこなしてきたつもりです、しかしそれゆえか、どのような殿方も私には近づいては来ませんでした。いいのです、私は巫女なのです、いいのです」
フレイがため息をつく、そして俺の胸に当てていた両の掌を震わせる。呼吸3回、俺は彼女の孤独を想像してみた。魅力的に濡れた瞳と黒髪、群を抜いた女性的な体つきと高身長、そして大きな役職。独特の雰囲気を醸し出すしゃべり方。うん、俺でもちょっと近寄りがたい。そのように考えているうちに彼女の両掌に力がこもるのを感じた。再び彼女が口を開く。
「――此度のことで、貴方様のおかげで、私は巫女としての大仕事を遂げたのだと胸を張って言うことができるようになりました。私は巫女の喜びを知りました。ありがとうございます。里の皆のあのようなはしゃぎぶり、どのような祭事においても見たことがありません」
フレイはそう語りながらにっこりと笑う、魅力的な笑顔だった。俺は「それは良かった」と建前を返す。でもそろそろ離れてくれないかなぁ。フレイの口調と瞳が強まる。
「私は母より教わりました。男は精神を継ぎ、女は肉体を繋ぎ、そして巫女は魂を結ぶのだと。私は巫女の役割を終えましたが、いまだに女の役割を知りません。繋ぐべき対象を持たず、この世から去ることは恥ずかしいことです、哀しいことです。私は巫女としての責務と喜びだけでなく女のとしての責務と喜びを授かりたいと常々願っておりました。ですが、私の魅力が乏しいために、どのような男性も私を選び取ってはくれません……」
違うと思う。だからその手を離してほしい。その眼を隠して欲しい。
「後生です、一生のお願いです、私に情けをかけて下さりませ、哀れと思ってくださるのなら。継手殿のお情けをくださいませ。継手殿のような男の子を成せたとあれば、女として存外の喜び! 一夜のお情けが授かれるのなら、子を授けていただけるのなら、もう何も申しません! お手間を取らせません! その後は、社の巫女として一身に精進いたします!」
お前のその瞳が怖い! 爛々と輝かせるその瞳が怖い! まるで捕食者のよう、俺喰われちゃうっ、食べられる!
「もう十九歳になりましたっ! 十九を超えて子どもを成さぬことは女の恥でありますっ!」
そういう意味だったんだねっ、ありがとう! やっと意味が分かったよ! でも勘弁だ、なんか怖い!
俺は彼女から身を離そうと床を這いずり回る、しかし上に載られている上に寝起きで力が入らない、おまけにフレイは長身でしかも腕力がものすごく強い! 強いよ!? ずりずりがっちりどたんばたん。そんな物音を立てて俺は広間から大扉に向かって這いずった。やめろ! 俺の脚を掴むな!
「なにやってんだオマエ?」
そこでがらりと大扉が開いた。ほんのりと夜明け色、蒼を彩り始めた空を背に、見慣れたすらりとした体躯が見える。やった、助かった!
「ああ、そうか、すまん邪魔した」
がらりと大扉が閉まる。おいっ!?
「バルドル、御使いさまは?」
「ああ、コッチにはいないようだ、アッチ探そうや」
「待て! 待ってくれバルドル! 俺はここにいる、いるだろう!」
扉の向うでバルドルとイトゥンの声が聞こえた。援軍だ! 援軍だよなっ!?
「バルドル?」
「仕事中だな、邪魔しないようにしないとな」
「これは俺の仕事なのかっ、仕事なのかっ!?」
戦友を見捨てるのか! それでも戦士か! おいバルドル!
「その戦いは助勢が期待できねぇヤツだ、まぁがんばれや」
「バルドル?」
待て、待ってくれ、話をっ、離せよっ、俺の腰をがっちり掴むな、手を離せ!
「御使いさまは、そこに、いるの?」
ああ、いるんだ、助けてくれイトゥン! ええい、腰帯に手をかけるなっ! ちょっとだけ大扉が開いた、バルドルの身体越しにちいさな身体と大きな瞳が見える。ああ、イトゥン!
「御使いさま? 帰ろう? 山社に帰ろう?」
「駄目です、継手様は槍を引き抜かれ、晴れて『御使い様』となられたのです。ですからこれから槍を守護してきた巫女と次代の巫女に秘蹟を授けてくださるのです。私が終わりましたら、身支度を整えて待機しているスュンが待っています、さあ早く――。ああ姫巫女はお帰り下さい。子どもが見るには早すぎます」
「なんだと!? フレイ、お前なんてことをっ、なんでスュンまで巻き込んでんだ!」
「大事なことですよ? 彼女を次代巫女として正式に――」
「それをスュンが分かっているとはとても思え――」
「子どもじゃない」
「なにをおっしゃられる、姫巫女はまだ身体が出来上がってないではありませんか」
「子どもじゃない、もう、湯殿にも一緒に行った」
「なんと! では既に山社では秘蹟を授かっているのではありませんか、ならば海社の我らにもその資格が――」
「違うから、違うからっ! おいイトゥン! 不用意な発言をするな! そしてバルドル! 逃げるな、下がるな、助けろよ!」
「野暮じゃ戦士長は務まららねぇんだ、まぁ頑張れや。満足させてやれよ」
「まんぞく?」
「是非に満足を!」
「無茶を言うなーーーっ!!」
海社に絶叫が轟いた。
☆☆☆☆☆
新鮮な焼き魚、芳醇な香りの潮汁、きれいな新緑の山菜、黒くないご飯、ご馳走だ、良い香りがする。そしてとても気持ちの良い陽気だ、青空と潮騒が目と耳を打つ。なのにせっかくの朝食膳を前に俺はぐったりとした疲労を感じて食欲がなかった。美味しいのに、美味しくない。
「もう一杯くれ」
そんな俺の不調を一切気にせずバルドルが椀を掲げる。お前それ4杯目だよな、よく食うな。
「昨夜は宵の口から駆け続けて海社へ向かい、宴席に駆け込んで酒を酌み交わし、その後に社まで駆け上がったからな、腹が減ってしょうがない、大盛りで頼む」
そういって女官から手渡された椀にはたっぷりの汁と飯が盛られていた。気持ちいいくらい無垢な笑顔でそれを受け取ると、まるで尻尾が見えるような満足顔で椀に顔をつっこんだ、犬かお前は、飯さえ食えればそれで満足かこの野郎。俺だってお前に思いを寄せている村娘の1人や2人や3人ぐらいあてはある、見てろよ、そのうちお前の身にも身に覚えのない愁嘆場を……ちくしょうめ、モテる男なぞすべからく爆死すればいい。ああ、ヒトガタに爆弾とかミサイルとか積んでないかな、そんな夢想をする。
「御使い様、食が進みませんね」
「俺は御使いじゃない、継手だ」
フレイの声かけに俺は不愛想に答えた。
「いいえいいえ、現に姫巫女は御使い様とお呼びされているではないですか」
「御使いさまは山社に来たときからずっと御使いさまだった」
「俺はただの操者であり継手だ、何度も言ったろう」
ちょこんと座ったイトゥンがそこだけは譲れないというように口を開いたが、俺はもう何度目になるか分からない訂正をした。するとフレイが匙を掲げて言う。
「はい、あーん」
お腹痛いです。
俺の右隣りにはフレイが、左隣にはイトゥンが座っている、そして微妙に張り詰めている。正面の来賓席にはバルドル、次席に次期巫女候補としてスュン。周囲には女官たち。そしてフレイが俺に匙を向ける、いたたまれない、この衆目でどこのバカップルだ、厭すぎる。
イトゥンが真っ黒な瞳を横目で向けて俺を非難する。「受け入れるの?」というニュアンスが感じられる。俺は何もしていないし何も望んでない、ほんとだ、分かってくれるだろ? 「知らない」というニュアンス、小さく汁椀に口を付ける。小さな黒い頭が動き食事を再開、説得できそうな空気がどこにもない。おまけに正面に座っているスュンも微妙にふくれっ面だ。
スュンがこのように衆目を集める場で食事をするのは初めてだったのだろう、最初はえらく、かちこちに緊張していたようだが、一息つく頃に俺のほうをじっと見つめてきて、それから徐々に怒りを溜めていったようだ。あまりに情けない姿をさらしたからだろうか、それとも昨夜、あのような場面に巻き込んだからだろうか。あの夜彼女は、まるで生贄にささげられた乙女のように蒼白な表情で広間に入ってきた、白い夜着よりなお白い頤を震わせ、なにごとかを呟き、その後一気に頬を火照らせた。そして俺たちの惨状に初めて気が付いたようだった。その後はため息をついた後、ずっと俺たちの大騒ぎを眺めていた、まるで死んだ魚のような眼で。
俺は彼女にこのように混乱した事態へ巻き込んだことへの謝罪をきちんと伝える機会すらなかった。今さらだが、食事を終えたら彼女と二人きりにさせてもらう時間を作ろう。それだけは命令してもいいだろう。
俺は生真面目な声を出して言った。
「食事がすみ次第、俺とスュンとふたりきりにさせてもらいたい」
バルドルが飯を拭いた。イトゥンがしゃっくりのような声を出し、フレイが「わ、私より先に……?」と呟き、スュンは失神した。