第28話:休息、戦士の安らぎ(2)
【28】
ちゃぽん、と湯が跳ねる音がした。俺は乳白色の湯がたっぷりと満たされた湯殿に寝そべっており、熱めの湯のために額から汗をしたたらせていた。四肢から力を抜き、ほふぅ、とため息をつく。ため息を付くとその分幸せが逃げるというが、このため息はそうではないだろう。また逃げたとしても現在の俺の幸せメーターは満杯だ。固くこわばった筋肉がほぐれ、関節の鈍い痛みが消え、指先から足先まで、頭のてっぺんから踵まで、全ての緊張感が解れる。
俺は社での報告を終えた後、婆さんたちと里の重鎮たちが揃う会合と宴席を経て解放された。
戦士ヴァーリとヴィーダルにはバルドルの同行のため苦労をかけたことを詫び、里長エイルとロヴンには砦や避難所の建築で労苦をかけていることを詫び、海社の長ヴァールと海社の巫女フレイには周辺の里や村への協力連絡で骨を折ってもらっていることへ礼を述べた。
とりあえず里の防衛準備は順調とのことだった。
戦士たちは新しく受け入れた戦士見習いたちの指導を効率的に行ってくれており、訓練時間の半分を木槍に当ててくれていた。「本格的に指導する前の素養判断にはちょうどいい」とヴィーダルが厳めしい顔で語ると、ヴァーリは「集団行動の訓練にもなりますしね」と笑って言ってくれた。
エイルとロヴンから聞く限りは、里の食糧倉庫にはまだ余裕があり、鍛冶の里から避難してきた者たち、周辺の里から訪れた協力者、準備状況を見学するために来訪した客にいたるまで、飢えさせていることはないと確約してくれた。この里が強く、頼れる集団だと印象付ける必要がある。食料をきちんと保存し、この時とばかりに供出できる指導者層の見識と判断力に脱帽する。鍛冶の里の者たちの協力もあり、新しい家屋や避難所の建築はほぼ終わっており、砦の建築も順調のようだ。
ヴァールからは「小舟で行けるのなら、どこまでも行くぞ、村の代表として向かうのだ、志願者が多くて大変なくらいだった」と言い、また俺の戦果を大いに褒め称え「やはり儂が見込んだとおりの男だ、ことがすんだら漁師になれ、儂の娘を全部くれてやる」と豪快に笑ってくれた。まるで晴天の太陽のような笑い方に思わず俺も笑ってしまった。でも、いや、その冗句はやはりまずいです。あんたの娘、上の2人はもう嫁いでいるとイトゥンが言ってたぞ、そして下の三人は何歳だ、確か前に「一番下の娘がこの前やっと『おやじ殿』と言葉を話せるようになってな」とか言ってなかったか、いらんがな。
フレイは相変わらず謎だった。妙に常時うるんだ瞳を向けた後で「問題ありません、全て采配のままです、そして私は十九歳になりました」と長身で色黒で肉感的な身体をぎゅっと自ら抱きしめて、呟き続けていた。えーとなんだ、まぁ、順調ならそれでいい。
イズナにはバルドルから報告させるよう話を向けて、手短に帰還の挨拶だけで終えた。彼女は特有の赤い瞳を潤ませて、三人揃っての無事の帰還を喜んでくれた。イトゥンをきゅっと抱きしめて「心配していたのですよ、怪我などはしてないでしょうね」と涙ぐんでいた。俺は彼女のほっそりとした首のうなじから目をそらすのに苦労した。
そして全ての責務を終え、軽い宴席にて腹を満たした俺は、早々にそこを抜け出し、あの川べりの湯殿に来ていた。
湯につかり、星空を眺めながら思い出す。
斥候の行程を終え、夕焼けに彩られた社の敷地にヒトガタで到着した時、水場に数人の女官たちがいた。怯えさせないよう、その横をできるだけ静かな足音で抜けようとした際に女官のひとりが飛び出してきた。向日葵のような笑顔を向けながら手を振っる娘はクナだった。若々しさと健康さを全身に纏う、年頃の特有の伸びやかさで「無事のおかえり、お待ち申し上げておりました!」と両手を振って迎え入れてくれた。笑顔が眩しかった。
その時に「ああ、俺は帰ってきたのだな」と実感をし、そしてどれほど自分が疲れているのかも気が付いた、緊張が解け、自然に身体から力が抜けた、たぶん口元に笑みも浮かんでいたことだろう。イトゥンの拳が俺の『左腰』をガンガン叩き、俺は「頼むからもう少しだけ待っていてくれ、もう、ほんとうに少しで到着するから」と、何度も言い聞かせたほど、俺たち三人は長い移動で疲れていた。子どものイトゥンには辛かったろう、そう思ったとたん、再び左腰が叩かれた、頼むから大人しくしててくれと呟いた。
社の片隅、駐機場用の天幕の下にヒトガタを駐機させ、コックピットハッチから這い出るとクナが駆け寄ってくるのが見えた。俺は縄でミノムシになっているバルドルが降りてくるのを手伝っていたが、背中から大きな声がかけられた。
「おかえりなさいませ!」
そのあまりに元気のよすぎる声に、俺はちいさく笑いながら「ただいま、元気そうだね」と答えたものだった。そして何かほかの言葉をかけてほしがっている子犬のような瞳を見つけて、「さすがにくたびれたよ、婆様に報告をする前に身体を拭きたいんだ、バルドルとイトゥンの分を合わせて3人分の湯を、手桶で用意してもらうことはできるかな?」と伝えた。
「すぐに!」
まるでボールを追いかけて駆け出す忠犬のように彼女は元気よく走っていった。彼女は食べているときと、用事を言いつけられた時に、生き生きと喜び輝くタイプの人のようだ。俺は朗らかな気持ちで彼女の背中を見送った。気持ちの良い娘だ、ああいった里の人たちを俺は守ってゆくのだと、再度心のなかで俺は誓った。
駐機場から「身体中が縄目だらけだ、それにしても腹が減った」と萎れたライオンのようになっているバルドルと、妙に不機嫌な子猫のようなって押し黙っているイトゥンと共に社の庫裡へと向かい、裏口の扉を抜けるとすぐに厨房、竃場だ。そこには既にクナと彼女の同僚である若い女官たちが、暖かな湯を満たした桶を用意して待機してくれていた。
湯気を立てる温かな湯で顔と腕を洗い、ここ数日の汗と脂のぬめりを落とすと全身の倦怠感と不快さが薄れるようだった。クナから差し出された布を取った時、僅かに彼女の指に触れた。彼女の上気した頬は湯の温かさゆえのものだったろうか。
そんなことをぼんやりと回想しながら、俺は湯の中で「のび」をした。しかし露天風呂は本当に心地よい、天国だ。僅か5日ほどの行程ではあったが今回も過酷な強行軍であった。戦闘もあったが、移動中での負担はヒトガタ操者である俺が一身に負うことになる、週末の家族ドライブ旅行を想像してくれればいい、ドライバーはずっとお父さん、そして俺たちのドライブ旅行は、道なき道をかき分けて進む盛大なラリーレースだったのだ。そんな軽いノリの比喩はともかく、今回の行程では決して転倒や足をすべらしてはいけなかった。バルドルのような優秀な戦士に、戦闘以外での怪我なぞ負わせられはしない。
(帰路に至っては、イトゥンの全体重を俺が請け負ったしな…)
ほとほと疲れた。そう思った時、俺はイトゥンの丸い尻の感触を思い出し、表現のしようのない罪悪感を感じていたたまれない気持ちになった、湯で顔をざぶざぶと洗った。温泉水が目に入ってたいそう痛い。いかん、手桶に汲んでいた沢の水で洗うべきであった、桶は、桶はどこだ。目をつむって右手を左手をばたばたさせて湯殿の縁に置いていたはずの手桶を探す。ぺたぺたぺたぺた、ぺた? なんだかすごく滑らかな……。
「オマエ、女の脚がそんなに好きか?」
頭上から男の声が響く。
「バルドル?」
「おう、ちょっとそこ詰めろ、オレも入る」
「少し待ってくれ、目が、手桶が」
「オマエが今、触ってるのが手桶だといいな」
え? どういうことですか? 俺の左側をざぶざぶと音を立てて通り過ぎる音がした、おいバルドルあんまり湯を揺らすな、湯殿の底の湯の花が舞い上がって、温泉が泥水みたいになる、効能的にはそっちのほうがいいかもしれんが俺は、澄んだ温泉に浸かりたいのだ。そんなことを目の痛みを堪えながら呟いていると、ちゃぽんと軽やかな音がして、滑らかなものが俺の手から離れ、そのまま俺の腕の中に入り込んできた。静かな入浴で、これこそが理想的な……。
「イ、イトゥン!?」
「ん」
痛みを堪えて薄く目を開けると、俺の目前、数センチのところにイトゥンの顔があった。頬を紅色に染め、ほうぅぅ、といったリラックッスした面持ちだ。つややかな頬、細い首、なめらかそうで薄い肩が湯面から見えて、俺は心臓を跳ね上げた。
「バルドル! なんでイトゥンを連れてきた!」
「俺もイトゥンも疲れてんだよ、入れろよ、いいじゃねぇか別に」
「良くないだろ! 湯殿に男女が共に来ることは、里の因習的に、あるだろ、いろいろと!」
「言いたいヤツには言わせておけ」
「お前、お前が誘ったんだぞ? つまりそれはお前とイトゥンが」
「阿呆かオマエは、イトゥンだぞ」
阿呆はお前だ! そう言おうとして、ふと俺は考え込んだ。だってイトゥンとバルドルならほら、立場的に悪くないし、ニョルズとそう変わらない年齢ならそろそろ、ほら、そういう話も出てくる年頃だから? 噂になったりするとイズナが、ほら、悲しむかも? 怒るかも? あれ待てよ、巫女はダメなんだっけ? 関係ないのかな? いやダメなのは結婚? 男女交際?
俺は混乱してきた、少しのぼせてもいたと思う。そこにイトゥンが、むふーと、息を吐き、身体の力を抜き、寄りかかってきた。なめらかな脚が俺の腿に絡まる。
「だ、駄目だイトゥン、こっちに来るな、そっちに寄れ!」
「むふー」
「湯を揺らすなよ」
「お前が言うか!」
俺はぎゃーぎゃーと声を上げた、いかん、いかんのだ、今はいかん、身体の一部分的に特に。だからイトゥン、こっちに脚を絡めるな。「湯加減はいかかですかー?」「おひとりではないのですかー?」と頭上からニョルズとイズナの声が聞こえてきた。俺は暖かな湯の中で青くなった。