第19話:若人たちの備え。
【19】
早朝の、社と里への参拝路の途中でイトゥンが声を発した。不機嫌そうな声だった。
「変」
「どうした?」
「なにか変」
「何がだ?」
「最近、御使いさまは何か変」
何だか痛んだ食べ物でも指摘するような声だった。俺を見上げる、その真っ直ぐに突き刺さってくる彼女の黒目がちな瞳の煌めきに対し、内心の動揺を諭されまいとした俺は朗らかに笑って答えた。
「何かと言われても、それじゃ分からないよ?」
俺は視線を前に戻すと「急ぐよ」と言って歩みを速めた。イトゥンの視線が背中に突き刺さっているのを感じていた。
「鍛冶の里」から戻ってからしばらくした、いつもどおりの早朝だった。日課になっている「戦士の館」へ向かう参道の途中のことだ。俺は鍛冶の里へ行く前と同じ日課に戻っていた、イトゥンと一緒に毎日里へと向かう。
☆☆☆☆☆
あの日、山道でただひとり、大泣きに泣いた日から十日以上が経過していた。
あの日は俺のこの世界に来ての初めての恋、初恋の終わりの日だった。でかい図体ぶらさげた大人が初恋なんてひどい表現だと思うが、俺の心の中ではそう表現するのがしっくりきた。そして、その日は俺にとって成人式か卒業式のようにも感じられた。もちろん向うの世界ではとうの昔に成人式は出席している。こちらでは、たったひとりの心を整理した日だった。会場は誰もいない山道の斜面、参列者はでかい山と高い青空、そして空を飛ぶ鳶が一羽の式だったが、午後の風が吹いたあたりで俺はずいぶんとすっきりとした気持ちで早々と野営の準備を始めたのだった。
二日後の夕方に里へと帰還した。俺は社へ向かう前に「戦士の館」に向かいバルドルに会った。彼は俺の無事の帰還を喜んでくれ、夕餉を共にした。俺は「短銅剣」をバルドルに見せた後、この剣をバルドルに返還することが適わないことを告げた。
バルドルは「オレはもう鍛冶の里で代えの銅剣を受け取っているのだから気にすることはない」と言ってくれた、そこで俺は「ではこの短銅剣は社へ奉納しよう」と持ちかけた。社の巫女に、里の若衆組頭からの贈り物だ、巫女の装身具か護身用にもなるだろうという理由も添えて。
バルドルは「巫女は剣なんか使えねぇぞ?」と変な顔をしたが「護身用という意味なのだからそれとはまた別だよ」と助言した。バルドルは「若衆の誰かに譲った方がいいんじゃねぇかな」とも言っていたが「これは社への敬意だよ」と強く助言をした。「まぁ、その剣はもうオマエのものだからどう扱おうと構わねぇけどよ」と言ってきたので、「いや、これはバルドルの剣だ。バルドルが愛用していた剣を社へ奉納するんだよ」と念を押して助言した。
翌朝、俺はバルドルと一緒に社へ行き、婆さんとイズナに参詣した。なんだろう、俺にとっては初めて里の者のように「訪問する」という形式をとった気がした。
イトゥンも含めた三人の前で、バルドルから改めて「鍛冶の里」からの帰還報告を行い、「ついてはこの度、鍛冶の里にて加工を加えた『金色短銅剣』を社へ奉納し、里と社の穏やかな日々を祈願したい」とバルドルが言った時、三人の表情が変化したのを俺は確かに見た。
婆様は「誰の入れ知恵かな?」という口元をし、イズナは「なんて立派なことでしょう」という喜びと驚きの表情で、イトゥンは「胡散臭い」という瞳だった。どうにもやりにくい。
金色の剣が祭壇に掲げられ、イズナが祝詞のようなものを捧げている姿を俺は一番末席から眺めた。バルドルの背中が少し喜んでいるように見えたのは俺の希望的観測だろうか。
社の祭壇で銅剣は光り輝いていた。あの剣はバルドルが長く腰に穿いていたもの、彼のイメージそのものだ。これから毎日イズナはあの剣を見ながら過ごす、朝の祈祷で、昼の修行で、夜の儀式で、少なからずバルドルを身近に感じてくれるにちがいない。
綺麗な剣だ。そしてイズナは知らないままだろうけれど、あの剣には俺も「少しだけ」関わっている、剣を折る原因を作り、剣を加工したのは俺だ。俺のその汗と涙を、知らないまでも彼女に少しだけ見守ってもらいたいと思った。俺がこの見知らぬ世界に落とされ、初めて見た人。美しい人。何もかも知らない世界で、動揺と不安を感じないままでいられた理由のひとつ、魅力的で綺麗な異貌の美女、俺の憧れた女に、だ。
感傷にすぎない思いは隠し、感謝を込めて祈った。どうかこの社、里、私を助け救い導いてくれた全ての人々が穏やかで平和な日々を過ごせますように―――。
☆☆☆☆☆
翌日から俺はイズナと適切な距離を取った。礼儀正しく、丁寧で、親密ながらも紳士的に振る舞うことにした。変な下心は無しだ。彼女と俺は共に社と里を運営するビジネスパートナー、それもとても権限の高い位置にいる者同士、大事な相手であり尊重を要する相手なのだ。俺は素直に、尊敬できる相手と共に仕事ができる喜びのみを享受しようと決めた。
俺はバルドルの友人にもなりたかった。可能ならば親しい友になりたかった。尊敬でき、自分の目標のひとつの姿である彼と親しくなりたかった。こんなこと、自分より年下の同性に対し、気恥ずかしくてとても言えないけれど俺はバルドルが好きだった。彼の長年の想いを応援できない人間に成り下がりたくはなかった。
そうして俺は、社の女官たちにも目を向けるようにし、親しく語り合えるように心がけた。俺は「継手」としての役割をきちんとこなし続ける人物でありたい。
女官は社からの要請により雇用される者や、本人や家族からの希望にて雇用される者がある。大巫女や巫女が面談をし、適性があれば受け入れられる。若い女官はたいていは下働きに従事し2~3年もすれば若衆たちと親しくなり婚姻により社を去る。年配になれば業務の総括をし、望まれれば近郊の里の実力者との婚姻により去る。そのような状況の中で残った者は、なんというかもう見事に妖怪だ。婆さんに類するレベルに達する。もちろん巫女ではないので権限は担当すべき部分に限定されているが、それぞれの責務の元で年若い女官たちからは恐れられているようだ、うんつまりお局OLだな。
巫女はさまざまな過程において見出される。成人の儀、女官として修業中において示される「異能」と「大いなる漂泊者」の反応で決まる。かつて婆さんは「彼」を唸らせることに成功し、イズナは「治癒の異能」を示し、イトゥンが「心の声を聴くことに長けた異能」により大巫女、巫女、姫巫女、としての座を得たらしい。かつては巫女も複数いた華やかな時代もあったらしいが、今期3名が揃っていることが近代においては珍しい状態だという。
俺が親しく声をかけ始めた女官には下働きに出てまた一年に満たない三名の女官見習いたちもいた。気分的には取引先企業の受付嬢や担当先の新人OLと雑談をしている気分だ。社の中で唯一の男性、組織系統から見事に外れている「継手」という立場は、なんというか大企業グループ内の関連小規模会社の社長みたいな気分に近い気がする。俺の拙いわずかな言葉にも屈託なく笑ってくれる彼女たちは、朗らかで、純真で、俺の少し寂しげになった気持ちを和らげてくれた。
特に厨房で朝食作りを担当しているクナという名の十五歳になったばかりという女官見習いは良く笑ってくれた。彼女も例にもれず小柄だが、頬はふっくらとつややかで、ウェストが細いのに尻の丸みが見事で、女性として成熟をしはじめた匂いがして、まさしく「お年頃」と言った感じだった。栗色の色素の薄い髪も彼女の快活な印象を強めていた。彼女にとってはきっと目に映るものすべてが、まだ新鮮で輝かしく信頼できるものなのだろう。その朗らかさと健康さに惹きつけられた。
俺は朝食の後や、夕食の後に厨房に顔をだし、料理の食材について尋ねたり、品目を当てたり、味付けの感想を言ったりして時を過ごした。時々は、余りものの蕪や菜っ葉の湯通しや塩漬けをひとつまみもらったり、釜飯のおこげのご相伴に与ったりもした、そんなものでもこの世界では立派な間食だ。
「ないしょですよー?」
そう言うクナと一緒に、二人でこっそりつまみ食いをする時間は、ほのかに暖かな時間だった。もらった塩漬けがいつも塩辛い味がする気もしたが、それは気のせいに違いない。
☆☆☆☆☆
それから俺は毎晩、わずかな時間でもいいから、理由が無くても必ず人形に乗り込むようになった。
俺がこの世界に落ちて不安になったように、こいつもきっと不安を抱えているに違いない。そして俺が不安を感じなかったように、こいつにも不安を感じないようにいてもらいたい。
たぶんこれは犬か馬の調教に似ている。世話をし、信頼を得る、そして頼れるリーダーになる、つまりはそういうことなのだろう。
人形の外観は完全な人間体型だ。すらりとした体躯でやや足が太い、外観印象は日本の戦国武者と、鷹狩をしている公家の御曹司を足して2で割った感じだ。遠近的には「西洋人が日本の鎧兜を身に着けた感じ」のイメージでもある、手足が長くスタイリッシュではあるが、ドコかちぐはぐな違和感を感じる印象を残す。
全身の色は白というか乳白色にて構成されている。俺が過去で見たイメージでは目に鮮やかな透明感のある白と青の色彩だったのだが、なんというか長い間、太陽と海風と波に洗われて色が抜けた船舶の色を連想させるのは俺の先入観だろうか。何しろ「彼」はずいぶんと長い期間を放置されてきたのだ。
胸部、肩、脛、手の甲から肘にかけては厚みのある装甲になっているが、腿、二の腕、腹部は薄い装甲や魚鱗のような装甲板が貼りついており稼動範囲を広げている。厚みのある装甲板は言ってみれば「亀の甲羅」だ。多少の傷や割れならば数日から数か月で修復する、大きく破損した場合は数年から十数年かかって修復される。もちろん「きちんとした技術者として育成された一族の者」がいれば交換補修も出来るが、当然いまはそんな者たちはいない。
頭部は、なんだろう? 烏帽子をかぶり、第二次ドイツ兵ヘルメットとお面を付けている感じ?
うまく表現できないが「とんがり頭」で「首も覆うがっちりガード」で「眼だけに切れ目が入っているお面付き」という頭部だ。
お面のスリットの向うに見えるその眼は綺麗で透き通ったガラスの1対の眼球。周辺に人工培養筋肉の痛々しい素顔がある、火傷痕に似た皮膚の引きつりが、見るものによっては嫌悪感を持つかもしれないが、俺は「彼」の瞳が好きだ。とても澄んでいて、すべてを見通している印象がある。
特徴的なのは大きな手足の先にある五本の指であり、その指の延長の「大きな爪」だろうか。足の爪は根元で伸縮機能があり出し入れができる。つまりこれは猫や豹と一緒だ。チーターとかの「早く走るための固定スパイク」としての爪ではなく、木や崖を駆け上る時のためのものであり、しっかりと踏ん張るためのものだ。足は人間の形状よりもやや幅広のつま先がある、足跡は逆三角形に近い。
手は大きな手袋をはめたようで指先の爪は出っ放し、これは熊や狼と同様に攻撃としての手段にも使うことが、まあ可能と言えば可能な爪だ、ヒトガタ相手ならば傷めることもあるだろうけれど。
大きな弱点は間違いなく胸部と腹部の中間にあるコックピット、これがなんというか見事に黒く塗ったポリカーボネイトそっくりで、耐久力が一緒なら、ヒトガタ同士の戦闘でここを叩かれると一撃だろう。いろいろな意味で。
そのほかには「足首の後ろ」「膝の後ろ」「肘」「脇」あたりだろうか。ここは稼働のため装甲板がなく鱗もない、やや黒ずんで硬質化した人工培養筋肉がむき出しになっている。ここを力いっぱい斧で叩いたり槍で突いたりされたならばきっと裂けてしまう。液体流動神経回路の層も突き破り、もしかしたら高密度炭素結晶体の骨格まで達するかもしれない。
コックピット内はシンプルだ。高性能な伸縮性と衝撃吸収性の高いシート、頭部と肩を覆うヘルメット、操縦桿に該当するような四本のスティックと四つのペダル。操縦桿はしっとりなめらかな感覚の材質で出来ており、ずっと何だろうと考えていたら「鹿角」がこのような感触だったことを思い出した。操縦桿やペダルはあるが、細かい動作を決めるのは結局のところ「シンクロイメージ」だ。これにより操縦桿はほとんど飾りに近い。力をこめる時、大きな動作をするときの「イメージ」を高めるための小道具に過ぎないものではあるが、無ければ無いで困るだろう。とにかく、ヘルメットで脳波を媒介とする手法でなければ四肢の駆動などとても追いつかない。
俺は毎晩「彼」の姿を眺め、その構造や状態を確認し、少ない時間でもいいから乗り込んだ。
祭りが終わり、彼は社前の広場のやや隅に置かれている。天幕がわりにおおきなゴザを幾重にも張り、日差しと埃を避けて安置している感じだ。俺は彼の状態をチェックするとコックピットに乗り込み電気ショックを受ける。シンクロ後には身をかがめて天幕を出て、こなすべき仕事があれば山や畑に行き木々を引っこ抜いたり、峠道を整備したり、木材を運んだりした。急ぎの仕事がなければ少しだけ社と里の周囲を散策する。夜の散歩のようなものだ。ここが俺と彼の生きるべき場所、守るべき場所なのだと自らに言い聞かせながら。
時々、婆さんやイズナやイトゥンが建物の影や窓や屋根から覗いているのを見た。「姿を隠せ」と前に約束をさせていたが、最近は俺と彼の暴走がないのをいいことに、だんだんと好奇心を押さえられなくなっているのかもしれない。俺は彼の瞳を通じて彼女らを見つめはするが、決して愛嬌のある仕草を行いはしなかった。彼に乗り込んでいる時の俺はとても危険で、また彼も「小さきモノ」を見つめることは望んでも、触れられることを望んでいないように感じたからだ。
高い位置から見下ろす彼女たちは、儚げで弱々しく、そしてとても愛おしく感じた。
☆☆☆☆☆
バルドルと俺は何度も作戦会議も行った。毎日、訓練時間の終わりにはたくさんの提案と長い相談をすることが増えた。
戦が近づいてきているならば早急に対処をしなければならない。くだんの国はこの里より北側にある。「社」から「社の里」「海岸の里」は南南東にむかって伸びている川の流れ沿いに広がっており、「鍛冶の里」は西南西に位置している。つまり一番最初に接敵するのは社の北側だ。
そこにつながる山道、交易路とも呼べない道の山頂付近に「砦」を作る必要があるだろう。最低でも「見張り台」は欲しい。そこに狼煙台を作り常駐要員を配置し、定期報告をさせる必要がある。例えば、毎日昼には「異変なし」とした一本の狼煙を上げさせる、「異変がある」場合は二本の狼煙、「進軍あり」の場合は三本の狼煙、というようにだ。
「社の里」においても準備は必要だ。最低でも里の皆を「一時的に収納する広場や建物」が欲しい、2重の柵や堀などで囲った避難施設、城とは言わないがそれに準した砦のような建物が望ましい。戦士の館の隣に大きな避難所を作るか、社に隣接する位置が最適だろう。
その他には人手と戦力の確保だ。いままでの里同士での小競り合いならば、若衆たち「戦士」だけで対応するのが普通ではあったらしいが、今回の相手は規模が違う。ならば現在いる「常設の正式な戦士」だけではなく「非常時に集まれる戦士」の確保が必須になる。これはいろいろと悩ましい、戦士育成の伝統があり意地もある、また里での生産性を落とさないようにすべきで際限ない呼集もできない。ひとまずは現状を伝え、希望者を募るところから始め、基礎訓練をするべきだ。
槍ならば素人でも使えるように訓練するのは比較的簡単だ。それも「ものすごく長い槍」ならばなお良い。柵の向こう側から突けるのならもっと良い。戦場での恐怖感、人が人を傷つける恐怖心を薄めるのは「距離」だからだ。離れている場所からならば動揺も少ない、防衛戦向けならば2~3週間程度の訓練でも十分様になるはずだ。問題は「実践向けの訓練方法」のマニュアルが確立されていないことだが、そこは「戦士」のなかでも「指導力がある」と言われるリーダーがいるし、サブリーダーもいるらしい。俺が基本戦術を説明して、彼らが実質指導することで促成育成のができることを期待しよう。
とにもかくにも必要な物資は木材だ。基本方針が決まった途端、俺は人形に昼夜問わず乗り込む日々が続いた。要所要所に木材を運び込み地ならしをする。
バルドルは若衆や古老を通じ、里での協力体制を作りはじめ、社と戦士の館の両方に、隣接する避難所であり共同生活施設を建設し始めた。
そんな準備を始めてしばらくしてからだった。ある日の夕暮れ時、煤に汚れ、血を流し、里へ流れ着いた者からの悲痛な情報が入った。「鍛冶の里が襲われた」と―――。
☆☆☆☆☆
俺はその情報が届いた瞬間、人形のコックピットに飛び乗り、急ぎ駐機姿勢を解いて立ち上がった。そして初めて外部スピーカーを使用して叫んだ。
「今から『鍛冶の里』へ向かう! まだ救える者がいるかもしれない!」
社から婆様を始め女官たちが飛び出してくる。俺はヒトガタの視線を彼女らに向けると告げた。
「怪我人や避難民が次々とここに来るだろう。皆で急ぎ治療の準備だ! 湯を沸かし血と泥を洗い流し、清潔な布と暖かな食べ物を用意してあげてくれ。イズナ、皆への指示をよろしく頼む!」
夕焼けが急速に暗闇になる逢魔ケ時の中、目に鮮やかな白と緋のの衣を身に着けたイズナが確かにうなずくのを見た。
「当座、休める場所が必要だ。社と建築中の集会所が活用できる! イトゥン、バルドルに連絡を取ってくれ! 俺はこれで先に向かうが、怪我人がいれば対処しきれない。若衆から治療の心得のあるヤツを中心に10名ほど追って鍛冶の里へ向かわせるように伝えてくれ! 敵がいたなら絶対に戦闘はするなとも厳命してくれ! 戦闘は絶対に駄目だ! まずは怪我人を救うことを第一に、敵がいたら姿を隠してやりすごことが重要だと伝えてくれ! そして峠に…」
「わかったー! 見張り台をすぐに完成させて若衆を配置させる―!」
小柄なイトゥンから思いもよらないほど大きな声が届いた。集音マイクの高性能さなのか? いや違う、周囲の女官たちも驚いた顔をしている、彼女はこんな大声が出せたのだ。知らなかった。ちいさな身体の少女はおおきく背伸びをし、両手を広げて峠の方向を指し示した。そしてバルドルと俺が取り決めていた手信号の一本狼煙、二本狼煙、三本狼煙のゼスチャーをしてみせた。
「いいぞイトゥン、よく覚えていてくれた! バルドルへの連絡を頼む! では婆様、俺は行く。皆を頼みます!」
風が吹いた。白髪の妖怪は、澄んだ笑顔で大きく手を振ってくれた。
☆☆☆☆☆
俺はヒトガタを駆って駆って駆け続けた。夕暮れ迫る中、ヒトガタは平地ではスプリンターのような驚くほどの速度を発揮し、山道に入ると飛び跳ねるように進んだ。ヒトガタの巨大な足では人が通るべき道が荒れることにやがて気が付き、山に入ると山道に平行する位置を突き進んだ。激しい揺れと衝撃が俺をシェイクする。最大跳躍はヒトガタの頭上二倍に至る高さだったが、しかしその速度はそう長く持たなかった。あっという間に人工培養筋肉は激しい熱を発しはじめ、急激に速度が低下し始めたのだ。そして俺の脳や腰や腹も限界だった、上下に激しく揺れる衝撃で、背骨がガタガタになってしまいそうだったし、胃の感覚が明らかにおかしい、平衡感覚を保つのも辛くなり、夜の山は暗く、ヒトガタのカメラアイを通しても昼間のように明確には見えないために、足場の安全を気にしだすと移動速度はぐっと落ちてしまった。
しかしそのおかげで、逃げ出して来た「鍛冶の里」の住人たちに気が付くこともできた。俺は、疲れ、汚れ、怯える彼らに対してヒトガタの上から声をかけた。
「俺は社の里の継手である。皆、良く無事にここまで来た! 里まであと少しだ、気をしっかり持って進め! 社では皆の受け入れのため、湯を沸かし、食事を用意している! もう少しだ、がんばれ!」
俺の声を聞くと、その場で跪き、頭を下げる者までいた。俺は先へ進むことを促すと再びヒトガタを進ませた。彼らの感謝が痛かった。俺は感謝をされることは何もしていない、むしろ彼らを守りきれなかった罪人なのだ。
ゲヴンは言っていた「少し離れた里から鉄剣の注文が来ていた」と。それはつまり「鍛冶の里」にとってすぐそばまで戦火が近づいていたことに他ならない。かの国の本拠地が北側にあるからと言って、その侵攻区画がストレートに南下していると確信する理由がどこにあったのか。とんだお笑い種だ。侵攻は、社の里を迂回するかのように包囲するかのように進んでいたのだ。そして南側の「鍛冶の里」の隣接まで迫っていたに違いない。そして攻められたその里に武器供与をした「鍛冶の里」にそのまま侵攻の手を伸ばすことだって充分にあり得たのだ、気づくべきだったのだ、何が作戦立案だ、防衛準備だ、シロウトが祭り気分で間抜け軍師を気取っていたのだ、俺は馬鹿で愚かだった。どうかどうか無事でいてくれ!
俺は焦る心を抑えきれずにヒトガタを再び駆けさせた。