第16話:温泉、若者たちの休息(1)
【16】
「温泉?」
陽光に夏の気配を感じるようになったとある朝、俺はニョルズの手当てをしていた。早朝の滝行を終えると、日課となっている「湯で温めた布」にてニョルズの傷口周辺をあたためた後に動作運動をさせる、様はリハビリの真似事である。引きつりがやや残る薄い皮膚、弱った筋肉、固まった関節、それらに負担をかけずに少しづつ機能回復を図るための処置ではあるが、これが結構難儀する。
「風呂とまでは言わないが、もっと大きな洗い桶と多くの湯があれば、全身を温めることができるのだが」
つい愚痴を漏らした際、傍で控えていたイズナが「湯が湧いている岩場ならありますが…」と言ってきたのだった。
「詳しく話してくれ」
動揺し手元が狂った俺は「い、痛いです、先生」ともがくニョルズへの謝罪も片手間に、イズナのひざ先に自分のひざを突き合わして詰め寄った。イズナは驚きに目を見開いて固まったまま、相対的に大男に見える俺に詰め寄られた恐怖からか、それとも単に俺が嫌いだからなのか知らないが、えらく耳を赤らめて上体をひねり「ち、近いです、だめです、だめ」と上ずった声を上げた。いいから、そんなことはどうでもいいから情報を吐き出せ、早く。
「…里に流れる川の上流に岩場があります、その割れ目から湯が湧き出て…。岩場の斜面途中に窪みがりますのでそこで湯をため、川の水を酌んで水温を調整して湯を楽しむことが里では時々あるらしいと…」
「案内しろ」
俺は左手にニョルズを、右手でイズナの腕をつかんで立ち上がった。ちいさな悲鳴が2つ上がった。
☆☆☆☆☆
「これは見事だな」
俺は額から汗を滴らせながら川の断崖斜面を覗き込んだ。
社から里へ向かう道すがらの途中で小道に入り、進んだ先には「山の下腹での谷あい」と言えるような場所に小川が流れていた。川の一角が急峻な崖となっており、上から覗き込むと水面までの高さは4~5mほどだろうか、ヒトガタの肩の高さほどだ。
確かに岩場の半ばになめらかな岩のくぼみがある、岩の上部には黄色い温泉水の跡が残り、うん、湯がたまっているわけだ。そこまでは縄ひもが垂れているのでそれに伝って降りる。縄ひもの先は川の水面まで下りており、そこには桶が括りつけてある。あれで湯をうめて温度調節をすると。
「喜べニョルズ、これでたっぷり関節運動ができるぞ」
「いやあの先生、それよりはやく下してください」
俺の肩に担ぎあげられたニョルズは身をよじった。ニョルズの脚の骨折は予想を上回る速さで回復の兆しをみせてはいたが、さすがに山道を歩かせるわけにはいかないので俺が抱えて運んだのだ。
「どちらにせよ、この斜面をお前を抱えて降りねばならんのだ。このまま…ああ、服を脱ぐ場所がないな」
斜面は湯船に相当する部分しかなかった、衣類の脱ぎ着はここでするしかなさそうだ。そうすると俺たちは野生児さながら素っ裸でターザンごっこをしなければならないわけで、少し気分的に抵抗はあるが、なに人の姿はなし、露天風呂の延長だと思えば気にすることもないだろう。
「よし、脱げ。すぐに脱げ」
「先生、なんだか待ちきれないのは、先生なのではないのですか?」
そうなのだ、俺は待ちきれない。この世界に落っこちてきてそろそろひと月たとうかという頃だ、連日滝行を行っているので身体の清潔さは保たれているはずだが、風呂に、湯につかるという行為を久しくしていない。庫裡には簡易的な湯殿はあるらしい、らしいというのは俺は見たことも利用したこともないからだ。当たり前だ、あそこは女性しかいない。
話に聞くところには、大きめの桶があり、竃で沸かした湯を運び込んで手桶で洗い流す、ようは「行水場」ということだ。流石に女性のそのような場を借りるのは憚られるし、なにより俺は身体が大きすぎて女性が使う桶では手狭だろう、どうせ湯に肩まで浸かれないのだし、意味がない。
「脱げんか、それなら俺が脱がしてやるが」
「大丈夫です」
ニョルズはきっぱり言い切ると、片足で立ち、俺の衣類の脇腹あたりをつかんでバランスを取りながら、するりと衣類と下帯を解いた。それを見た後で俺も脱ぐ。うむ、山道途中の川べりで、成年男子といたいけな少年が向かい合って素っ裸である、なんだろう、この落ち着かなさ。
「いくぞ」
ケツの収まり具合の悪い違和感を飲み込み、俺はニョルズをふたたび担いだ。「しっかりつかまっていろ」と言うと、縄ひも1本を頼りに壁くだりをする。背中にニョルズの素肌を感じる、なめらかな少年の肌だ、一方俺は汗だくである。うむ、素足はさすがにきつい。だがすぐそこに楽園があるのだ、俺は逝く! しかしいくら筋力があると言っても、少年を一人かついで山道をくだり、いままさにローブくだりだ。俺はいつからロッククライマーになったのだろうか、額の汗は止まらない、何より足元が滑りそうで、しかもニョルズは怪我人なのだ、気を使う。
「もう少し、もう少しだ…」
「先生、真剣すぎて怖いです」
「よし!」
無事に湯殿にたどり着いた。崖っぷちの天然岩の造形にしては広い、大人が2~3人は並んで浸かれそうだ。新緑と沢の眺めも良く、これは素晴らしい! 湯加減も十分で熱いほどだ。俺は股間を隠すこともせずに沢の水を酌み、湯を埋め、湯殿水面の気になる汚れなどを流し去るとゆっくりと湯に身体を沈めた。
「うむ、極楽だ。ニョルズ入ると良い」
「熱いです…」
「そうか、子どもには少し辛いかな?」
俺は桶に冷たい水を入れてニョルズに渡した。これで顔や身体を十分に冷やしてから入るといい、体が温まったらまたマッサージだ。この湯はなんだろう、硫黄泉か鉱泉だろうか、色は少し黄色っぽい白濁色だが、そう香りは強くない。湯をゆらすと底にたまった湯の花が少し舞い上がりなお一層湯の透明度を下げた。
「うう…」
「我慢しろ、十分に関節や筋肉を温めるのだ」
えいやと気合を入れて入ってきたニョルズと並び、対岸の新緑と、その上に広がる青空と積乱雲らしい雲を眺める。BGMは沢の流れと森の奥から聞こえてくる鳥のさえずりだ。このような贅沢なロケーションはそうはあるまい。俺は寝そべり首まで湯につかった。
「すばらしい眺めだな、思わず鼻歌が出てきそうだ」
「先生があんなに熱心になるなんて…、それにイズナ様を途中で置いてゆくなんて…」
「仕方があるまい、さすがにあの山道を2人抱えてずっと下るのは無理だったのだ」
「イズナ様、すごい顔をしてましたが」
「あいつは別に怪我をしている訳ではないだろう? 参道の途中だ、自分の足で戻れるじゃないか、ここへのたどり着き方も聞き出したし、無理に連れてくる必要もあるまい。来たければそのままついてくるようにも言ったしな」
「そういう問題でしょうか…」
どういう問題なんだろう? ニョルズは「イズナ様を地面に落として『そうか、ならもうお前を連れる必要はないな』とか言ってしまうし…、僕を優先してしまって、後が怖い…」と浮かぬ顔だ。やはり里の人は「巫女」を優先し大事に敬うのだな。しかし俺は敬意は払っても従属する気はない、フィフティフィフティの関係でいたいのだ。居候だけど。
「イトゥン様も社前で待っていらっしゃったですよね? ものすごい勢いで前を通り過ぎましたが」
「きちんと伝えたぞ? 『今日はお前とは一緒にいられない』と」
「言いましたね『今、忙しい!』と、イズナ様を抱きかかえて」
忙しかったぞ? もう若くはない肉体で、二人を両肩に担ぎ上げて突っ走るのがどれほど辛いか、若者には関節炎のつらさは分かるまい。コンドロイチンかグルコサミンを持ってこいと言いたい。
しかしこの湯は本当に心地よい、久々の湯で、関節や筋肉のこわばりが解れるようだ。今が暖かい季節で本当に良かった。この世界に冬に訪れていたら、俺はあの膨大な重圧と肩こりと頭痛と風呂に入れないストレスで死んでいたかもしれん、実は俺は風呂が大好きなんだ。
「極楽だ…、何もかも忘れそうだ…」
「僕はとても忘れられません」
確かにお前の傷を忘れるような発言は不謹慎だった、謝罪しよう。いや先生、謝っていただきたい問題はソコではありません。この湯殿はですね、若い者が2人で来ると言うことはですね…。などと問答を繰り返している最中、頭上から声が届いた。
「あ、貴方という人は、貴方という人は!」
「おう、イズナか、心地よいぞ、君も後で入るといい」
最近俺は意識的にイズナを呼び捨てで言うように心がけている。意識していないと、あの異貌の美人に飲まれてしまうからだ。そういった他人行儀は二人の関係性を遠ざける良くない因子だと思ったからでもある。もちろん失礼はないようにも心がけている、この距離感が大切で、また難しい。
俺は朗らかに笑って右腕を振った。
目に映る自らの腕に精悍さを感じる、最近稽古で身体が引き締まってきたのを実感しているのだ、食事も実に粗食で、正直時々「チョコレートとかケーキとか大福とか羊羹が俺を襲ってくる」夢を見ないでもない、俺は雪崩のようなそれら甘味を喜々として迎え撃つわけだが、なに、ここの雑穀粥と干し魚だって負けてはいないくらい美味で滋味だ。連日連夜コンビニおにぎりとサンドイッチという食生活は、実に精神的に貧しかったのだ。人の手ずから与えられる飯のなんと美味いことか。
頭上からは「なんで置いてゆくのですか!」とか「最後まで連れて行きなさい!」とか「怖かったのですよ!」とか「女性を担ぎ上げるなんて!」とか「湯殿に誘うということがどういうことか分かって言っているのですか!」とか言っていた。うん、ヒステリーだ、ああ言うのはしばらく放っておくに限る、しゃべり疲れたところでやっと話が始まるものだからね。
「すまんな、騒がしくて。せっかくの小鳥の声が消えてしまった」
「ですから先生、あやまる相手が違います…」
ニョルズが「どうしよう」と呟いて深々と湯に浸かる。ニョルズ君、そうやって浸かるとのぼせるよ? 俺は小鳥のさえずりの代わりにイズナの声をBGMに聞き流した。
「イトゥン?」
イズナの声のトーンが突然に変わった。俺は深々と肩まで湯につかった姿で視線を上げると、イズナの横にイトゥンの姿がひょっこり現れていた。じっとこちらを見ている。なんだろう? いつも彼女は表情が少ないが、何日も一緒に山歩きをした結果、俺は「それなり」ではあるが彼女の機嫌と言うか「気分」を感じ取ることが出来るようになっていた、
あれはイラついている感じだろうか。ぬかるみに足を取られた時とか、思わぬ場所で枝に頭を打った時とか、せっかくのきれいな景色を見せようと案内をしてくれたのに天候不順で展望がよくなかった時とかに彼女はアレに似た瞳の色を見せていたな。そういう時、きまって俺は彼女の腕を取ったり、頭をなでたり、肩を抱いたりして「大丈夫か」「大丈夫だぞ」と言って彼女の機嫌をなだめたが、あいにくここではそうは出来そうにない。
俺はイズナにしたように右腕を上げ「イトゥン、君もあとでイズナと一緒に入るといいぞ」と言ったとたん、イトゥンは、とん、という音を立てて断崖から身を躍らせた。
激しい水音と、すごい水柱が上がった。
あっけに取られて思わず半身を起して水面を見る。たっぷり呼吸5回分の時間をおいて、ぷかり、とイトゥンの姿が水面に表れる。よかったこの川底は深いのだな。そして、いつぞや見たようなカワウソのような優雅な泳ぎではなく、鬼気迫るような激しいクロールを始め、桶を吊るした縄ひもの場所に泳ぎ着くと、そこを野生児さながら、きれいな黒髪をべたりと肌に張り付かせて力強く上がってきた。
湯殿まで登ると、最後に片足を大きく上げてよじ登る。おい、イトゥン、お前さんもそろそろ年頃なんだから股ぐらを男性の眼前に見せつけるようなまねは止めなさい、はしたない。この少女は腰巻を巻いてない。しかしイトゥンは恥じらうそぶりもなく湯殿の際で仁王立ち、眼光鋭く俺たちを睥睨すると、濡れた衣をぺちゃりと脱ぎ捨てーーー「イ、イトゥン様」と顔をそむけたのは思春期のニョルズ君である、同世代の子ども同士だとやっぱり恥ずかしいよねーーーぽちゃんと湯殿に入ってきた。
「あたたかい」
「確かに気持ち良い、が、少し待てなかったのか?」
「待たない」
「我侭な子どもだなぁ」
「ちがう」
「どう違うんだ、この野生児め」
俺はイトゥンのつややかな黒髪の頭をぐりぐりと押し込んだ。猫が嫌がるような表情で、迷惑そうな瞳をする。本当にこいつは野生児だな。
「あ、あのイトゥンさま…」
「イトゥン! だめです、上がりなさい!」
ニョルズとイズナの声が騒がしい。困ったものだ、こいつらには優雅に風呂に浸かるという精神はないのだろうか。俺はため息をついて湯殿に寝そべった。空がー、蒼いーー。今日も良い天気になりそうだ。
☆☆☆☆☆
その後、俺はニョルズから『若い二人が一緒に湯に行く、誘う』という行為がどのような隠喩、村の暗黙の了解、を意味するのか聞いて真っ青になった。大急ぎてニョルズとイズナに謝罪し、イトゥンを叱ったのは言うまでもない。謝罪は受け入れられたり受け入れられなかったり、した。そして猫は叱られても知らん顔だった。




