97.リンの内なる葛藤
アザリスの西海岸、隣国スウィルトとの間に横たわるクーズ海は、内海特有の穏やかな潮流に恵まれた漁業の盛んな地域である。そしてそのクーズ海に浮かぶガーニーテッド諸島で最大の島が、このマニティ島だった。
リンにとって最も幸いだったのは、この島の辺境性に加えて、ある意味閉鎖的であるがゆえのとけこみやすさだった。知り合いばかりのこの島では、よそ者が珍しいせいか、嫌うというよりは好奇心を露わにとりあえずは受け入れてくれる人が意外に多いのと、それに続いて一度懐に入ってしまえば、まるで家族のように接してくれるのである。
2年と少し前、突然紹介状もなく、ただ医師免許とそれに付随する就業許可証を携えて現れた得体の知れない女医であるリンが、快く雇ってもらえたのは、全くの偶然と幸運が重なったからだった。当時、マニティ公立病院では、丁度常勤医師が辞めることになっていたが、なかなか後任が決まらずに困り切っていた。まあ要するに、医師に成り立てて得体のしれない人間でも、とにかく雇わないわけにはいかなかったということだ。
『少なくとも免許も許可証も本物だったし、なによりもあれだけ雇って欲しいと必死ならば、そう簡単に辞めないだろうと踏んだから』
面接を担当した救急救命センター長は後日、そう語った。
そんなふうにかなりせっぱ詰まった状態の環境と境遇で、医師としての社会人生活のスタートを切ったリンではあったが、担当部署である救急救命センターはとにかく忙しく、結果的には濃厚な経験を短期間に数多く積むことができた。その結果、めきめきと救急救命医としての腕を上げることができたのは思いもかけぬ幸運であり、また同時に、思いがけない副次効果が意外な場面で現れた。というのも、その後、しばらくしてリンは半年の休職を余儀なくされたが、職場への復帰を概ね好意的に受け入れてもらえたのである。リンの骨惜しみしない、誠実で地道な献身的な姿勢に、マニティ公立病院救急救命センターのスタッフは皆、好感を持ってくれた。そんな風にコツコツと努力を積み重ね、2年半の時間をかけ、リンはようやっと『自分の居場所』を作っていった。
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しかし、どうやらそんな平和な日々も終わりを告げようとしている。理由は無論、今、リンの目の前で満身創痍で横たわる、麗しのディスカストス侯爵閣下が現れたからである。
(閣下は何故私に会いに来ようと思ったのだろう……?)
ぼんやりと考えるリンの頭の中に、この2年間余、後悔と哀しみに枕を濡らしながら、知らず知らずに生み出し、繰り返し繰り返し想像してきた、自分勝手で甘い夢想が蘇った。
ご都合主義なその夢想の中では、なんと!アクセルは今でもまだリンの事を愛してくれていて、再会するやいなや、リンを熱く抱きしめ愛を告げてくれる。
『この2年半の間、ずっと探していた。やっと見つけた。愛している、リン。もう二度と離さないよ』
そして、リンをギュッと抱きしめる。次いで降り注ぐキスの雨を受けながら、リンはかつてない幸せと愛の喜びを噛みしめるのだ。
(……ああ……、そんなことあるわけないのに……)
リンはあまりに自分に都合の良い夢想を追い払うために、両目に手のひらの付け根を押し当てて、グリグリと押しつけながらギュッと目を閉じた。実際には、そんな都合の良いばかりの未来なんて、ありっこないことは、リンにだって分かっている。なぜなら、リンは逃げたからーー。全てを捨て去り、愛と信頼を、何もかもを裏切ってーー。
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あの日、リンが人生で最も輝かしく幸せな気分を満喫していたあの日ーー。
愛するアクセルと身も心も結ばれ、愛と幸せを噛みしめたあの日。大切な親友が生死を彷徨った挙げ句に、ようやく意識を取り戻したあの日。リンは全てを捨てて逃げ出した。ようやく生還した親友を放り出して。『そばにいる』と言った約束を破って、恋人を捨て去って姿を消した。いや、そればかりか、自分を大切にしてくれた人達との繋がりをもまた、全て断ちきった。
アクセルに所在を突き止められるのを恐れて、シスター・マーガレットにさえ、所在を知らせなかった。スマートフォンも解約した。そのせいで、この2年余の間、リンの元には手紙も、ましてやメールもメッセージもなにも届かず、ただひらすら働きづめに働いて生きてきた日々だったのである。
(ーーそうだ。あんな仕打ちを受けて、アクセルもミリアムも私のことを、許してくれるはずがない)
自業自得とは言え、あまりの後悔と哀しみに、ズキズキと痛む胸を押さえ、リンは知らず知らずに浅くなる呼吸を整えるために、必死で深呼吸を繰り返した。
そんなリンの心の中では、疑心暗鬼と不信に苛まれ、青白い顔をした嘆き女が泣き叫んでいる。そして、その気味の悪い青白い顔をしたやつれた女の隣には、慈悲深く公正さを司る"裁定"の女神アテナもまた、存在していて、リンに向かって更に逃げ出すことを禁じ、諫めるように厳しい表情でこちらを睨んでいるのだった。
リンにだってアテナの言いたいことはよく分かっている。リンの脳裏に様々なイメージが過ぎっては消えていく。その一つ一つを吟味すればするほど、アクセルが自分に対して失望し、怒り狂っているだろうことを確信せざるを得ない。だからこそ、ようやく見つけたリンを間違いなく捕まえる為に、アクセルは命の危険を顧みず、嵐のクーズ海を越えてきたのだろう。
(見つかってしまったからには、きちんと彼の怒りを受け止めて、謝罪し、許しを乞うべきなのかもしれない……逃げるのではなく……)
リンがそう考えると、アテナが厳格な表情で大きく頷いた。リンとて、そうするべきだ、ということはよく分かっている。
しかし、そのすぐ側でパンシーは泣きわめき、叫ぶ。『早く逃げろ!』と。『侯爵閣下の怒りに、お前は耐えられないだろう』と。どんなにアンフェアであっても。『逃げるしかない!』とパンシーは泣き叫ぶ。
ところが、それに対抗してリンの内なる『良心』であるアテナは反論する。『お前の愛したこの美しい男はそういった冷徹な男なのか?』と。『今こそ、全てを明かして許しを乞うべきではないのか?既にこの男の愛情はお前には向いていないだろうが、それでも、誠意を持って向き合うべきだろう』と……。
(ああ、もうやめて!私を放っておいて!!)
自分を引き裂く精霊と女神の言い合いを拒むように、リンは両耳を覆った。
ただーー。
素直に、正直に言えば、リンはアクセルが恋しかった。今、この瞬間も目の前に横たわるアクセルに触れたくてたまらない。そっとかき抱いて、その額にかかる、乱れたサンディ・ブロンドの前髪をかき上げ、その青い痣に口づけて慰めたい、という衝動を抑えるのに苦労するほどにーー。
そのせいで、ここを立ち去るべきだ、と思いつつも、結局はアクセルに乞われるままにその手を握り込み、座り続けることを選択してしまった……。更には、アクセルが眠ってしまった後も、掴みつづけている指を外して、ここから去るべきだと思ったのに、そうできないのだ。
目覚めたアクセルが、自分をどんなふうに詰るのかは、わからない。が、リンは一分一秒でも長くアクセルを見ていたかった。アクセルの側にいたかったのだ。
(そうーー私は意志の弱い、情け無い人間なのだわ……。一度は離れることを決意して、実際に行動に移したというのに、いざ、目の前に閣下が現れた途端、離れがたく思う気持ちを抑えきれないのだからーー)
リンは知らず知らずに手を伸ばし、アクセルの頬に触れようとしたが、触れるか触れないかのところで、ビクリと手を震わせ、手を引っ込めることになんとか成功した。自分の弱い心ゆえに言うことを聞かない右手を意志の力でもって押さえ込みながら、リンは項垂れた。
(……疲れた……)
疲労の余り、心のどこかが麻痺している。
(今の私には、もう、なにかを決断するだけの力が残っていない……。
閣下に……閣下に委ねよう。
私は閣下に不誠実な事をした。どんな理由があるにしろ、それは事実なんだから。
その結果、もし、閣下が許さない、と言うのならーー。許しを乞うしかないかもしれないし、また逃げるしかないかもしれない。
それでも、もしかしたらなんとか和解の道を探ることも出来るかもしれない)
苦し紛れだったが、とにかくそんなふうに覚悟が決まったおかげか、リンの身体からは力が抜け、身体中から緊張が解けていくのを感じた。
そしてーー。
既に24時間ぶっ通しで起きて仕事をした後なのもあり、そのまま無意識にアクセルの眠るベッドの隅に突っ伏すと、スイッチが切れるように眠り込んでしまったのだった。




