96.無言のさよなら
アクセルがシャワーを浴びてサッパリする頃、コンシェルジュに頼んでいた着替えが届けられた。見たことも聞いたこともないメーカーのカジュアルな量産品だったが、吃驚するほど安価な割には、縫製は丁寧で好感が持てた。長身のアクセルには、たいていの既製品ではパンツの裾が足りないのを誤魔化す為に裾をロールアップし、合皮のデッキシューズを履けば、海辺の街にピッタリのマリンルックが完成である。
肩口もウェストも微妙にきつく感じられるのは、普段オーダーメードばかり着ているせいだと割り切って、アクセルはジャケットの前身頃を引っぱりながら、部屋を出て階下に向かった。
ミリアムの為の滞在が延びるだろうと考え、チェックアウトはせず、逆に何泊か延泊の手続きをし終えると、グッドマンに電話をかけていくつか仕事の指示を出す。
『お嬢様は大丈夫でいらっしゃいますか?』
落ち着きを装っているようで、どこかなにかに怯えるような声音で、そう問いかけたグッドマンに向かって、
「大丈夫だ、グッドマン。ミリアムは、私たちの小さい『専制君主』はこんなことで我らを解放してはくれないさ」
と軽口で応えると、電話の向こうでグッドマンが驚きのあまり言葉を失った気配がした。それを潮に電話を切ると、アクセルはホテルを飛び出し、病室に向かって一目散に走った。
救急救命窓口に寄ると、病院の正面玄関入ってすぐの、入院手続き室へと誘導される。同時に、つい先程ミリアムが覚醒した、という嬉しい一報がもたらされ、アクセルは間髪入れずグッドマンへとその旨を知らせた。今度こそ、忠実なる老執事は安堵のため息をついて、心安らかに職務に集中できそうだ、と主人に謝意を示した。また、一緒に事故に遭ったリチャードも無事、意識を取り戻しており、更に嬉しいことに二人とも五体満足であり、損傷の酷かった血管や内臓が無事快復すれば、元の生活に戻れる、と担当医が請け負ってくれたことも言い添えて、海外で事故の一報を聞いて、急ぎこちらに向かっているリチャードの両親への言付けも頼んだ。
その後、色々と説明してくれたドラグーン医師に向かって、アクセルは深々と頭を下げ、謝意を示した。そんなディスカストス侯爵の貴族らしからぬ態度に、驚きのあまり言葉を無くしつつも、その人間くさい、そして高飛車なところが欠片もないところに好感を抱いたドクター・ドラグーンなのだった。
一方アクセルはアクセルで、ドラグーン医師のオフィスを出て病室に向かいながら、自分の行動を思い返して感慨深く笑った。
(3年前の私、リンと出会う前の私だったら、医師に向かってあんなふうに素直に礼を言うことはできなかっただろうな……)
アクセルはリンとの出会いに、それを与えてくれた神に、心の底から感謝せずにはいられなかった。
アクセルは今の自分が好きだ。昔の自分の何倍も好きなのである。階級社会の上位者である侯爵家の御曹司として刷り込まれた、貴族としての矜持。それを否定する気はない。しかし、そこにはえてして他の階級の人々を蔑ろにして、下に見る気持ちが芽生えてしまう。自分たちは特別で、階級が下の人々とつき合うのはやめるべきだ、との根拠のない論理が刷り込まれていく。無知故の不信感も入り込む。
それだけなら未だ良い。そこに、差別の兆候が忍び込むと、もういけない。貧乏や低賃金、そこから犯罪に走る人々に向かって、仕事に就く気がないからだ、だの、意欲が低いからだ、だの、血筋が悪いからだ、だのと、その人物の心根の問題として社会的な問題を論じるようになってしまう。そうして『差別主義者』の一丁上がり、というわけだ。
アクセルは、かつてのそんな自分を恥じた。
人間は弱い。ありとあらゆる環境に合わせて生き延びようとする生物としての本能に忠実だ。どんな人間も、それがどんな環境であれ、生まれついた環境に最適化して生きていくようになっている。希望を持ちにくい環境であれば、希望を持たずにいられるような選択をするし、犯罪や暴力というものが所属する家族や地域といったコミュニティの『常識』であったなら、しごく素直にそれを『常識』として生きる選択をするものだ。それがどんなに反社会的な『常識』だったとしても、人間はその狭い社会の中で、その環境に合わせて自分を、自分の選択を作っていくものなのだ。
アクセルがそうした人に対する多面的な視点を持てるようになったのは偏にリンのおかげだった。リンが見せる高邁で気高い自己犠牲の精神や、限りなく優しく信じられないほど温かな真心に触れるにつけ、リンの出自や生まれ育った環境に対する偏見が溶けていき、それに伴い、孤児である人々への謂われ無き差別心も溶けていったといえる。
そしてその後、数々の慈善事業や支援NPOを通じて社会の底辺から逞しく立ち上がろうとしている人々を支援するようになって、アクセルはますますかつての自分の偏狭な考え方に嫌気が差した。
そして昨晩、アクセルはこの世界中で誰よりも幸せな男になった。普遍的であるが、心底信じることがとても難しい『"愛"こそが全ての基本である』という真実を心の底から実感し、その正しさを確信する、という稀少な幸福の実践者になれた。
アクセルは無敵だった。自然と笑みがこぼれる。輝くような幸せを噛みしめた。失われていたかもしれないミリアムとリチャードが無事生還した。しかも五体満足で。そして、自分の人生にはリンがいてくれる。未来永劫、ずっとーー。アクセルはその時、明るい未来を疑いもしなかった。
余談になるが、そんな幸せと愛を確信しているアクセルが、病室へ向かう道すがら辺りに振りまく、無敵のチャームに惹き付けられ、通り過ぎるそばから沢山の人々(特に女性)の視線を釘付けにしていたことは、無論、アクセル本人には預かり知らぬ出来事ではあった。
そしてーーー。
アクセルがミリアムの病室に飛び込んだ時、その室内に何故かリンはいなかった。リンが愛用しているリネンウォーターの、嗅ぎ慣れた清々しいラベンダーとミントの残り香が、ついさっきまで確かにリンがここにいた、という証左を与えていたけれどもーー。
(トイレにでも行ったのだろうか?)
そんな風に思いながら、まだリンのぬくもりが残っていそうな、付添用の小さな丸椅子に腰を下ろし、アクセルは眠っているミリアムの手をそっと握った。
それから2時間。アクセルはミリアムの手を握りながら、リンの帰ってくるのを待ち続けた。
しかしーー。
待てども待てどもーー。
ーーリンは戻らなかった。
そしてーー。
この日を境に、リンはアクセルの前からぷっつりと、跡形もなく姿を消してしまったのであるーー。
次回、ようやくプロローグの時点へ戻ります。やっとここまで来ました!
次の更新は1週間後です。
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