93.癒された侯爵閣下
翌朝、アクセルが眼を覚ますとリンの姿は見えなかった。かすかに残ったベッドの中のぬくもりと、枕元のメモが無ければ、この24時間に起こったことの全てが夢だったと思っても不思議はないほどの、妙な気分だった。
と、枕元にあるアクセルの時計を重しにして、几帳面でいて、同時に伸び伸びとした文字で書かれたメモに気づき、目を落とした。
『閣下へ
ミリアムのことがどうしても気になるので、一足先に病院に行きます。よく眠っているので、起こさずに行きます。 リン』
「……リン……」
そう愛する人の名前を呟いたその瞬間、昨夜の全てがありありと想い出され、アクセルは心臓を押さえて呻いた。
夢のようだった、と現実味の欠落を感じる反面、果てしなく柔らかくて暖かい、まるで羽毛枕のようだったリンの肢体の感触が現実のものとしてありありと蘇り、アクセルの心臓は、ドクドクと大きな音を立てた。
あれはアクセルにとって初めての、えもいわれぬ体験だったことは間違いない。昨日の夜、リンはアクセルに全てを与えてくれた。何一つ取らず、また、要求しなかった。大袈裟でもなんでもなく、昨夜のリンは、人間離れした大きな大きな、まるで大地母神のような存在だった気がする。
なにより、あれだけのアルコールを摂ったというのに、二日酔いの症状が全くない。気分がスッキリとして身体中にエネルギーが充ち満ちているのが、感じられる。しかし、夢でなかった証拠に、バーコーナーのポータブルワインセラーのすぐそばに、ワインの瓶が4本片づけられていた。
アクセルは昨晩自分が体験したことが、今までに自分が経験してきたこととは、一夜のアバンチュールであるにしろ、短期間であれ恋愛関係の上であるにしろ、完全に別物であることに衝撃を受けていた。目眩すら感じる。
(あれが『愛を交わす』ということなのだ……。気持ちが、精神が交わり、互いの間に限りない『許し』が環流し遭うような、暖かみに溢れていた)
次いで、アクセルはここにはいない彼の恋人を思い浮かべた。
リンは完璧だった。アクセルに全てを差し出してくれた。アクセルもまた、完全にリンを信じて全てを差し出したが、そこにはなんの損失もなかった。二人が差し出しあった『愛』や『思い遣り』は、互いの中をグルグルと循環して、何度も何度も二人の間を行き来しながら、大きな白い光となって、アクセルの冷えて強ばった身体を温めてくれた。
アクセルの中はリンの全てで満たされ、また、リンの中にはアクセルの存在そのものが注ぎ込まれた。アクセルは知った。リンの限りない愛を。アクセルに差し出されたリンの全てによって、それが確信出来た。
(今まで私が経験してきたのは正に単なる『性交渉』としか呼べないものだったんだな……)
アクセルはそんな風に自嘲した。しかし、その歪んだ笑みはすぐに幸せそうな男の甘い甘い笑顔へと変わってしまった。
アクセルはもう、皮肉屋で冷たい差別主義者には決して戻れそうになかった。アクセルの中で踞っていた傷つき、真心を疑う目をした寂しい少年はもうどこにもいない。彼は、昨夜、リンに与えられた『全き愛』を胸に、希望(未来)に向かって走っていってしまったのだから。リンの愛はアクセルの全てを癒したのだから。
そして同時に、アクセルは、自分自身の愛もまた、リンの全てを癒したと信じたかった。それを確かめたい!リンの口からもう一度、『愛している』の言葉を聞きたい!そんな衝動に駆られた。
(さあ、ミリアムに会いに行こう。そして、リンと沢山、話をしよう)
思えば昨日、病院の廊下で会って以来、魂が抜けたようになっていたアクセルは、ろくにまともな会話をしていないのである。
音信不通でいたこの6ヶ月余の間、リンがどんな場所にいたのか?どんな経験をしたのか?辛いことはなかったか?楽しいことはあったか?
自分自身は相も変わらず写真付きのメールを送り続けてきたがリンからは敢えて返信はなかった。そんな冷たい(ある意味徹底した)恋人の態度に、寂しさを感じていたアクセルだったが、いまやそうしたネガティブなものは心の中のどこを探しても見あたらない。
アクセルはベッドを降り、カーテンを開けて、雨降りだった昨日の夜とは打って変わった晴天の朝の眩しい日射しを全身に浴びると、バスルームに向かって力強くその一歩を踏み出すのだった。




