90.真夜中のクラムチャウダー
更新、お待たせいたしました。
ラストまで、どうぞおつきあい下さいませ。
ぼんやりと自失しているアクセルを連れチェックインの手続きを済ませると、リンは夜遅い食事を摂るためにレストランを探した。しかし、そう大きな街ではないここエッジロードでは、真夜中を過ぎて開いているレストランはなかった。
(なにか食べてもらわないと……)
リンは、思い切ってルームサービスを頼んだ。メニューに載っている料理は、どれも目が飛び出るほどの金額で一瞬怯んだが、仕方がない。それにこんな時にディスカストス侯爵様の、うなるほどの財産を使わずしていつ使うのか?
「閣下、食事が来ましたよ」
ルームサービスを届けに来たボーイの差し出す受け取りにサインをし、ワゴンを受け取ると、ぼんやりと座っているアクセルの前に置く。リンは自分の世界に沈み込んでしまっているアクセルの意識をなんとか引っ張り出そうと、努めて明るく声をかけた。
「さ、閣下、少しだけでもいいから胃に入れて下さい。その分だと、今日は1日食事を摂ってないんでしょう?」
そんな恋人の優しい気配りに上手く反応できないまま、アクセルは重い頭を上げた。
目の前に置かれた、クラブハウスサンドイッチの皿と、湯気を立てているクラムチャウダーのボウルがいかにも美味しそうな匂いをさせているはずなのに、アクセルには微塵も食欲が感じられなかった。どう言って断ろうかと考えている矢先、バーコーナーに置かれている、ポータブルのワインセラーが目に入った。その瞬間、アクセルは唐突に猛烈な喉の乾きを覚えた。それは単なる喉の渇きではなかった。ミリアムが生死の狭間から無事帰還することを信じ、祈りながらも、どうしようもない不安を抱えたまま耐えるしかないこの無限とも思える夜を、なんとかやり過ごす為に必要なもの、つまりはアルコールを要求する、身体からのサインに他ならなかった。
「……ワインを……」
そう呟いたアクセルの声は、しわがれ、ひび割れていて、いつもの艶めきもベルベットのような滑らかさもなかった。しかし、その痛々しい声は、小さい頃から慣れ親しんで育った、孤児院の裏手にある海べりの崖に吹きつける、強い季節風の風音にどこか似ていて、リンはなんともいえない懐かしさを感じて、より一層アクセルを労しく思うのだった。
(閣下は疲れ切っている……)
無理もない。両親を亡くしたアクセルにとって、ミリアムはたった一人の家族なのだ。そんな大切な妹をも、また、失ってしまうかもしれない、という恐怖はどれだけ大きいことだろう!
リン自身は孤児という境遇から、そもそものはじめから家族というものを持たないで生きてきたが、周りにはいつも孤児院の仲間達がいて、母親代わりのシスター・マーガレットがいてくれた。時折クリストファーのように養子にもらわれていく仲間との別れはあったものの、死別ではなくあくまで明るく前向きな別れだった。
(……最初から家族を持たない生き方と、大切な家族を失っていく生き方と、どちらの方がより、不幸せなのだろう?)
リンは一瞬だけ、物思いに沈んだ。しかし、すぐに気を取り直した。
(不幸比べなんて、不毛だわ。ただ一つだけ、真実があるとしたら、どんな境遇にあっても、人は自分の力で立ち上がる力を備えている、ということだけ)
リンはそうやって生きてきた。そして、その信念こそが、リンを今の場所まで運んでくれたのだ。繰り返しもたらされる差別。理由のない侮蔑。そんな苦しみに負けず、倦まず、自分を憐れむのではなく、周りに手をさしのべることができる、助けになれる、そういう人間になろう、という強い意志が自分の精神を支えてくれたことを、リンはよく知っている。約1年前のタブロイド騒動の時でさえ、そうして新しい道を切り開いたのだ。
(そう。閣下だって大丈夫。閣下の中にもその力はきっとある。今はこんなに打ちひしがれているけれども、例え一時的にアルコールに助けられたとしても……)
リンは改めてアクセルの腕に置いた手に力を込めた。
「ワインをお持ちしますね、閣下」
アクセルが緩慢な動作でリンの手に自分の手を重ね、ギュッと握った。それを更にもう一方の手でポンポン、と叩くと、リンは冷蔵庫のようなワインセラーに足を向けた
正直な所を言えば、リンはかなりの確率で、ミリアムの無事を確信している。ここ、アザリスは階級社会であると同時に、訴訟社会でもあるのだ。当然、救急救命医はそう簡単に『山を越えました、もう大丈夫』という意味のことを言ってはくれない。ましてや、相手はディスカストス侯爵というこの国の貴族階級の最上層に位置する、大貴族なのである。下手な事を言って、万が一の事態になって、更に訴訟沙汰にでもなれば、地方都市の公立病院に勤務するちっぽけな救急救命医の首など、いとも簡単にはねられてしまうだろう。
そうした事情を鑑みれば、先だってミリアムの容態を説明してくれた担当医師の表情や声の調子には、彼なりに精一杯のメッセージが込められていたと思う。つまりは、特に事態を悲観させられるような材料は見あたらなかった、とリンは感じたのだ。
とはいえ、ただ自分がそう『感じた』からといって、アクセルに向かってなんの確証もない話をすることは憚られる。それに、そうした『診療紛い』『医師紛い』な言動は、研修医としての倫理要綱に厳しく禁じられているのも事実なのである。
(結局、こうして側にいることしか、私に出来る事なんてないのかもしれない)
リンはワインセラーから適当に選んだワインを取り出しながら、思った。
(そうよ。今、閣下になによりも必要なのは休息だわ。適量のアルコールは閣下を元気づけ、眠りを誘ってくれるかもしれない)
リンは医師として葛藤した。しかし最終的には、
(もしかしたら、こういう状態の人間には、アルコールを与えるべきではないのかもしれない。でも、今の閣下には、なにより元気を出してくれるアルコールが、ワインが必要だわ)
という結論で自分を納得させ、ワインを手にアクセルの元へ戻ったのだった。




