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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
9/152

9.アクセルの提案

「もういい!もういいのだ!…なぜ、君は……いや、私は……!!」


 アクセルは自分の中から迸る激情の奔流に為すすべもなく流されながら、必死に丸太につかまるように、リンの肩を握った。


(認めたくない!)


その思いだけが、その時のアクセルを支えた。すっかり慣れて、自分自身の身体の一部となっている『自制』と『克己心』。

 アクセルの身体を駆けめぐるこの熱く、痺れるような感情に、彼は必死で蓋をしようとあがいた。


(これは単なる同情心だ。そしてノーブレス・オブリージュを忘れた自分への失望…ミリアムの気持ちを傷つけ続けてきた自分への怒りであり、内省だ。そうだ、今、私の中に渦巻いているこの激情は、ミリアムを悲しませてきたことに対する、自分自身に対する悔恨なのだ。)


一瞬のうちにアクセルは全てを立て直すことに成功した。それにはビジネス界で多くの駆け引きをしてきた経験と、本来彼に備わっている強い心が幸いした。

 アクセルは手をゆるめ、まるで溺れる人間が必死で岩にしがみつくように縋っていたリンの肩を解放し…そして話を続けた。


「リン・バクスター、理解しているようでありがたい。君の言っているとおり、私はミリアムを守らなければならない。ミリアムを悲しませることは、私の本意ではない。」


「…。」


リンはなにも言わずに俯き、アクセルの言葉を聞いている。


(ちくしょう。なにか言ってくれ。)


内心の焦りを微塵も窺わせることなく、アクセルは続けた。


「…今まで私が君にしてきた仕打ちを全て許してくれ、とは言わないし、私自身…撤回するつもりもない。」


「…わかっています、閣下。」


「いいや、分かっていない。顔を上げるんだ、ミズ・バクスター。」


アクセルは無性にリンの目を覗き込みたかった。その硬質でガラスのように(よろ)ったリンの中から、あの、自分の腕をはらった時のような生の感情を引き出したくて堪らない。


(そうだ、私は自分の存在がいなされ、流されることに苛立っているだけなのだ。そうだ、それだけのことだ。)


アクセルは自らの中に存在する不穏当な感情を片づけようとして言い募った。


「さあ、新しい契約をしようじゃないか?ミズ・バクスター?」


「契約?」


不意にリンが顔を上げた。

 月光の下、リンの滑らかな額、頬、そしてそれに続く顔の輪郭が、この世のものとは思えないような淡い光を放ちアクセルの背筋にビリビリとしたものを走らせた。

 必死でそれに触れないよう自分の肩に力を入れ自制しながら、アクセルは東屋のベンチにリンを座らせ、自身もその斜め前に腰掛けた。


「そうだ、契約だ。明日から私と君は、仲の良い友達になる。ミリアムの大好きな兄と大好きな友達が、仲が悪いわけないだろう?」


「…。」


リンは信じられない、とでも言うように眉間にしわを寄せると、きつく握り合わされた手に視線を落とし、再びアクセルの目を見つめた。


「お言葉ですが、閣下。私には良い考えとは思えません。いくら取り繕っても、ウソの親愛関係など、早晩、見抜かれるものです。なにより私は親友であるミリアムを裏切りたくありません。」


「つまり君は、演技であっても私と親しく接するのがいやだと、そう言いたいのか?」


「そうではありません、閣下。」


「ああ、その閣下というのもやめるんだ。私たちは友達だ、しかも親密で親しい、仲の良い関係なんだ。名前で呼び合うのが自然だろう?リン?」


アクセルは突然、その思いつきがひどく的を射ているような気になり、気分が高揚していくのを感じた。


(そうだ、あの面会室での初対面が間違いだったのだ。やんわりと、気持ちの良い人間を装って目的を遂げるのだ。私を苛立たせるこの小さな女を少しずつ遠ざけるのだ、ミリアムからも自分自身からも。)


「さあ、呼んで、私の名前を。アクセル、と。」


どこか楽しげにそう言い募るアクセルの、妙に高揚した瞳を見て、リンは無性に腹が立った。


(何を言っているのかしら、この人は!!イバラの鞭で散々打ち据えたその手で、その鞭を身体の後ろに隠したまま、手をさしのべるようなものだわ!そんなこと信じられるとでも思っているの?)


「…閣下、良いではありませんか?私がここを去れば全ては丸く収まります。ミリアムだって、きっと分かってくれます。」


「何を分かってくれるんだ?リン?」


アクセルのバリトンがまるで蜂蜜のように、リンの鼓膜を打った。その瞬間、リンの身体に電流のようなものが走り、かすかに身体が震えるのを感じた。リンは初めての感覚に恐ろしくなり、とっさにアクセルを睨み付け、詰るように言った。


「…ああ、もう!やめて下さい!そんな風に私の名前を呼ぶのは!!」


それはリンの無関心・無感情の仮面が粉々に砕け散った瞬間でもあった。


「ああ、やっと本音言ってくれたな、リン?」


「だから…、そんな風に親密なフリをして私の名前を呼ばないで下さい、と言っているんです!」


「いいや、止めない。君も私をアクセル、と呼ぶんだ。ミリアムを悲しませない為に、私と君は、仲直りをして気持ちを通い合わせた友人になったのだから。」


「…閣下…!」


「アクセル、だ。リン。」


リンは目の前の、妙に楽しげな男に無性に腹が立った。何が嬉しいのか、口角はきゅっとあがり、顎のラインが憎らしいほどセクシーだ。眉を片方だけ歪ませたその笑顔は、まるで獲物を弄ぶ猫のように狡猾に見える。

 しかし…。

 リンは自分の中から得体の知れない喜びがわき上がってくるのを止めることができなかった。アクセルが笑っている。嬉しそうに身体を伸ばし、その信じられないくらい長い足をゆったりと組み、ゆったりと東屋の大理石でできたベンチの背に身体を預け、見たこともないくらいリラックスしている。

 そう、リンの知るアクセルはいつでも身体をこわばらせ、緊張していた。それはミリアムと会う為にたたずんでいたカレッジの面会室でも、リンに怒りをぶつけたあの駅のロータリーでも、ついさっき、リンの肩を痛いくらいに握りしめていたときでも。彼の身体は痛々しいくらいに緊張感を漲らせ、外界の全てから彼自身を守ろうとしているようにみえていたのだ。

 それがどうだろう。今、リンの前でニヤニヤと微笑むアクセルのどこにも、緊張のキの字も見えない。

 理由にはまったく想像もつかないが、どうやら自分が怒り、怒鳴りつけたことがアクセルを喜ばせ、彼から『してやったり』という表情を引き出しているようだ。


(なんなの?いったい…。これじゃあまるで、孤児院に引き取られたばかりの男の子じゃないの…。)


 リンの脳裏に何人もの、世話をした子ども達の顔が浮かんだ。

 誰も彼も、路上生活をしていたところを保護されたり、親に見捨てられたりした直後に送られてくるせいかひどく荒んだ表情をしている子どもばかりだ。汚い言葉を使い、時にはわざとリンやシスターを罵り、手間を増やすのを喜ぶように衣服を汚したり仲間とケンカをして暴力を振るったりする。

 しかし、リンには分かっている。彼らは自分の傷ついた心をどう表現したらいいのかわからないだけなのだ。そして、自分が取るに足らない、ダメな人間だとその未来を諦めている。絶望しているのだ。そのせいで、彼らは自暴自棄な行動に走る。周囲を困らせ、嫌がられることで『これ以上嫌われることはない』という、卑屈で悲しい安心感を得ようとする。

 その証拠に、リンやシスター達が愛情を持って根気よく言い聞かせ続けると、少しずつ変わっていくのだ。ちょうど野良猫が人間に懐くのと同じように。じりじりと一進一退を繰り返しながら。

 そして、笑う時が来る。そう、目の前のアクセルのような、笑顔を見せる時が来るのだ。心底、リンを信用したり自分の未来に希望を持ったりすることは未だなくても、過去の不幸な記憶にとらわれず目の前にある『愛情』をシンプルに受け入れることができるようになることで、自ずと発露する屈託のない微笑み。そこから子ども達は少しずつ、未来へとその安心感を延ばしていくことができる。自分の未来がなにか明るく価値あるものに繋がっているのではないか、自分にはそのための力が備わっているのではないか?そう思えるようになる。

 アクセルのその表情を眺めながら、リンはそんな子ども達のことを思い起こし、そして同時にひどく納得してしまった。


(ああ、やはりこの方は『嘘つきな子ども』。愛情を信じられない、親を亡くした喪失感を未だに引きずっている子どもと同じ。尊大で自信家な外見を装ってはいるけれど、その心の奥底では、本当に欲しいものが分からないまま泣き叫ぶ小さな子どもを抱えている。

 私がこのディスカストス兄妹と出会ったのもなにかの使命を帯びていると考えるしかない。こんな風に考えるのは間違っているかもしれないけれど…。

やっぱり、私のあの直感は間違っていなかったのだわ。私にはこの立派な大人の男性が『嘘つきな子ども』にしか見えない。そう思って接していくしかないのかもしれない…。)


そこまで考えて、リンはためしに少しアクセルを突き放してみることにした。

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