89.アクセルの支えとなって
「脈拍、戻りました!」
「よし!強心剤投与!」
「気を抜くな!」
「アンプル、まだ?!早くして!」
救急救命センターの医師達の怒号のような指示が飛ぶ。その中心に寝かされたふっくらとしたミリアムの白い身体に、わずかではあるが血色が戻りつつあった。
隣には共に緊急処置を受け、なんとかこちらも蘇生したリチャードが寝かされている。そして、その鼓動に寄り添うかのように、ミリアムの鼓動もまた、かすかに、しかし確実に再起動して拍動を再開したのだった。
「親族は?」
それまで指揮をとっていたリーダー格の医師が、看護師に尋ねる。
「待合いスペースにいらっしゃるようです」
「診察室にお通しして」
「はい」
そうして彼は、サブ・リーダー格の医師に目で合図しながら術衣を脱ぐ為に隣室に入っていった。
*-*-*-*-*
乱れた前髪を両手で整えながら、どう説明しようかと考えつつ診察室に入っていった主治医、マーカス・ドラグーンを待ちかまえていたのは、一組の男女だった。
(はて、どこかでみたような……?)
二人の顔を見た瞬間、そんなことを思ったドラグーン医師だったが、すぐにそんなことは忘れてしまった。それくらい、せっぱ詰まった表情で、目の前のハンサムで身なりの良い男性が身を乗り出したからである。
「先生、妹は……ミリアム・ヘスターは無事なんでしょうか……?」
男の目から見てもハッとするような印象的な風貌に、なめらかなバリトンを持っているこの男はきっと金も持っているのだろう。ドラグーン医師は瞬時にアクセルを品定めして、そう結論づけた。なぜなら、身体の隅々までピッタリと合っているスーツは、そこらの量販店で手に入る大量生産ものには、到底見えないし、手首にぶら下がっている重そうな腕時計もなかなかの品に見えたからである。
(勘弁してくれよ……)
有能かつ腕も良い救急救命医である彼は、ウンザリした気分でカルテに視線を落とした。そしてそこにミリアムとその保護者であるアクセルの名前に爵位持ちの称号を見つけて、殊更、イヤな気分になった。
それというのも、この爵位持ちの色男(しかも大金持ちときている)が見舞いに通うことになるこの先3ヶ月ほどの間に繰り広げられられるであろう、女性スタッフ達の軽薄な喧噪劇が、ありありと想像されたからである。
正直言ってこういういけ好かない人の羨むようなものを何もかも持っている(ついでに可愛らしい彼女までいる!)男なんて、冷たく突き放してやりたいドラグーン医師であった。しかし、彼には義務がある。今夜、一番の貧乏くじを引いたのだ。いくら目の前の色男がいけ好かないモテモテイケメンだとしても、これから彼が直面する精神的苦痛と試練に対する気遣いが、不要であるわけではないのである。
そんなわけで、ドラグーン医師は長年被り続けてもはやすっかり自分の顔の皮と同化してしまっている、『聞き分けの良い、信頼できる風』な医師の顔をなんとか引っ張り出してその顔に貼り付けた。
「ミスター・ディスカストスですね?」
「はい」
「患者さんは妹さんのミリアム・ディスカストスさんで間違いありませんね?」
「はい、間違いありません」
「一時は心肺停止しましたが、現在は無事蘇生しています。連れの男性もミリアムさんに先んじて15分ほど早く蘇生し、状態は安定しています。」
「ああ、ミリアム!神よ、感謝します!!」
「良かった、良かった……ミリアム!!」
アクセルとリンは手を取り合って喜んだ。
しかし、それもつかの間、ドラグーン医師はひと息ついた後、間髪入れずに、まるで不意打ちのように、軽い調子でその辛い宣告を唇に乗せた。
「ただ……、ミリアムさんのほうが内臓の損傷が激しく、まだまだ予断を許さない状況です。今夜が山場となるでしょう」
「……それは……」
「心肺は動いています。しかしこのまま意識が戻らなければ……。大変危うい状態です」
目の前の医師が、小面憎い程冷静な様子で淡々と言い切った。アクセルは一瞬言っている意味が飲み込めず、呆然とした。いや、分かりたくない、と脳髄がその言葉を理解するのを拒否したのかも知れない。そんなアクセルの様子を感じ取ったのか、リンが言葉を継いだ。
「処置は全て終わっているんですよね?」
「はい。内臓の損傷部位の切除、縫合、止血。出来る手は全て打ちました。後は患者……ミリアムさんの生命力に賭けるしかありません」
ドラグーン医師の疲労困憊な様子を見れば、彼と彼のチームがどれだけ精一杯対応してくれたかがわかる。そうなれば、もうリンには言う言葉は見つからなかった。
本当ならば、このまま緊急処置室に入り、自分も参加してミリアムの処置に手を貸したい気持ちで一杯のリンである。しかし、申請書類を提出済みとはいえ、自分にはまだ就業許可が下りていない。厳密に言えば、無免許医であり、どんな医療行為も許されはしない、そう法律で厳格に定められている。
「閣下、閣下?」
「ああ……ミリアム、ミリアム……!」
「ミリアムは大丈夫、きっと大丈夫ですよ」
リンはアクセルに優しく話しかけながら、ギュっと握りしめられたその両手にそっと自分の手を乗せた。そしてそれがひどく冷たいことに気付いて、そっとさすった。
「よろしければ、道路を渡って真向かいのホテルをご利用下さい。当病院内にはご家族の滞在施設がありませんので」
アクセルのあまりの弱りぶりを見かねたのか、ドラグーン医師が驚くほど優しい声で言った。
リンは無言で大きく会釈すると、アクセルの背中に手をあて立ち上がり、一夜の宿を求めてそのホテルに向かったのだった。




