86.ミリアムへの追憶
アクセルを乗せたハイヤーは滑るように高速道路を飛ばして行った。警察のスピード違反取締に引っかかってもいいから(その分の罰金と損金を上乗せするから)飛ばして欲しい、と頼み込んだアクセルに、ハイヤーの運転手は鷹揚に微笑んで、
『大丈夫です。特別なレーダーを積んでいるので』
と請け負った。
そしてその言葉は伊達ではなく、およそ時速200kmほどのスピードを出してハイウェイを飛ばしていったにもかかわらず、取締に引っかかることもなく車は順調に進み、50分後には無事エッジロード市立病院の正面車止めに到着したのだった。
「ミリアム・ディスカストスの保護者です。妹はどこに?」
受付で名乗ったアクセルが案内されたのは、救急救命センター奥の緊急手術室の前にある待合いスペースだった。ミリアムとリチャードの緊急手術はまだ終わっていないとのことで、廊下の突き当たりにあるその場所は、バタバタと活気のある外側の処置室とは打って変わって、ギシギシとした緊張感に包まれていた。その空気が『死』を呼び寄せるような気がして、アクセルは気が滅入った。それを誤魔化すように歩き回りながら、アクセルは何度も何度も手術中のランプが消えないかと、見上げてはため息をついた。
その後、しばらくの間ウロウロと歩き回っていたアクセルだったが、1時間も経つ頃には心労のせいもあってすっかり疲れ果て、どさりと壁際のベンチに座り込んだ。
そんなアクセルの苦悩を知ってか知らずか、腕を組み、彫像のように身じろぎ一つせずに目を瞑って手術が終わるのを待っているアクセルの端整な横顔は、たちまち救急救命で働く女性スタッフ達の注目を集めることとなった。この鄙にも稀な美丈夫を一目見ようと多くの野次馬が用もないのにアクセルの座る待合いスペース近くの廊下を行ったり来たりしていたが、さすがにこの状況で話しかけるだけの無神経さを持った強者はおらず、結局黙ったまま座っているしかないアクセルの頭の中ではイヤな想像が次々に増殖してしまい、それをうち消す作業を繰り返すうちに、少しずつ精神力を削り取られ、アクセルは益々疲れ果てていった。
そうしていつしかうつらうつらとしてきたアクセルの頭の中では、ミリアムとの数々の思い出が蘇ってきたのだった。
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ミリアムが生まれた時、アクセルはすでに7歳になっていた。年の割に聡明だったアクセルは、その誕生にまつわる様々な出来事を鮮明に憶えていることができた。
大抵の人間はディスカストス侯爵家の御曹司への社交辞令もあって、アクセルのその珍しい色合いをした髪の毛や瞳の色を褒めそやしてくれるものの、くすんだ灰色としか見えない自分のその色をあまり気に入っていなかったアクセルにとって、ミリアムの持って生まれた光を集めたような金色の巻き毛や、その青い瞳はまるでフレスコ画に描かれた天使のように見えた。
それだけではない。ミリアムは性格までアクセルとはまったく違っていた。どちらかというと思慮深く、聡明で生真面目、どこかおっとりとした貴族らしいアクセルに対し、ミリアムはとにかく活発で活動的、女の子らしくよく喋る、明るい性格をしていた。そんなミリアムのおしゃまでキュートな様子は、その天使のような容貌も相まって周囲の大人達や年長の子供をすっかり虜にしたのだった。無論、アクセルもその中の一人である。
当初、ディスカストス侯爵夫妻をはじめ周囲の人々は、今まで大貴族の後継者として蝶よ花よと育てられてきたアクセルが、ミリアムの登場によって注目を失い、ヤキモチを焼くのではないか、苛めるのではないか、と考えていたようだったが、まったくの杞憂に終わった。アクセルはこの可愛らしく活発なミリアムのことが大好きになった。
そうしてミリアムが生まれて1年も過ぎた頃、先代のディスカストス侯爵夫妻は歩き始めたばかりの娘を連れ、学齢に達した跡取り息子を泣く泣くアザリスに残して外遊に出かけたわけだが、アクセルが最後まで泣いて別れを嫌がったのは実の両親ではなく、生まれたばかりの天使のような妹の方だった。
その後、長じてますます自分との性格の違いが際立つに従い、アクセルはミリアムを可愛がるだけではなく、どこか尊敬の眼差しでもって見るようになった。
真面目と言えば聞こえが良いが、どこか杓子定規で決まった考え方しかできない自分に比べ、外国暮らしが長かったこともあって、妹のその自由な発想力には舌を巻くしかない。アクセルはいつだって本気でミリアムの能力を褒め称えた。
とはいえ学力はといえば、決して高くないミリアムである。元々の気ままな性格とそこから来る散漫すぎる注意力のせいで、ミリアムの学習意欲はあまり高くなく、あまり勉強に力を入れなかった為、当然の結果として学力そのものはそう高いわけではなかったのだった。
その後、両親の死をきっかけにコスモポリタンとしての生活を打ちきってアザリスに戻らざるを得なかったミリアムが入れられたのが、貴族階級の子女のための全寮制のフィニシング・スクールだった。そして、そこでの人間関係が原因でミリアムはすっかり元気を無くしてしまうことになったのだが、その後のルッジア留学のおかげでなんとか元のミリアムらしさを取り戻し、更には3年の浪人生活を経て入学したウィリアムズ・カレッジでリンと出会い、すっかり元々の快活で伸び伸びとした良いところを取り戻すことができたのだった。
リンがアクセルの思いを受け入れてくれ、晴れて恋人同士になった直後、ミリアムは語った。
『ねぇ、お兄様、私思うのよ。私があのいやらしい貴族階級専用のフィニシング・スクールでとても辛い思いをしたのは、きっと、リンに出会う為の、リンに恥ずかしくない人間としての大切なステップだったんだ、って。
だって、そうでしょ?
もちろん、私、昔っから差別なんてしないし、差別をする人を軽蔑するわ。下らないと思うわ。
でもね、差別を差別と意識せずに、まるで空気のように悪気無く生活している人達もいるんだ、って、そういう無辜故の悪意、とでもいうのかしら?そういう人達の存在を知らなければ、私、きっと子供のまんま、ただただ無邪気なだけだったと思うもの。
あの場所での経験がなかったら、自分が貴族であることも、それがアザリスでどういう意味を持つのかも、そして、それを受け入れてどう生きていけばいいのか考えるべきなんだ、ってことも気付くことができなかったと思うから。
あの辛い思いがなかったら、きっと、ルッジアで出会った貴族階級の存在しない社会構造の素晴らしさも分からなかったし、ましてやお母様に倣ってウィリアムズ・カレッジに行こうなんて思わなかったし、きちんと自立して生きていこうとも思わなかったもの。お兄様におんぶに抱っこで生きていくことを、恥ずかしいとも思わなかったわ、きっと』
『うん、そうだな、ミリアム』
満ち足りた顔をして、ソファに深くこしかけながらそう話す妹の顔に暖炉の火が反射して、その金色の巻き毛が赤褐色に染まってみえた。その赤々と輝く黄金に見とれながら、アクセルは優しく相槌を打ったものだった。
『ウィリアムズ・カレッジに行かなければリンには会えなかったし、お兄様だってリンに会えなかった、ってことでしょ?しかも、三浪してあのタイミングで入学したのが重要なポイントよね?!だって、あのタイミングじゃなくちゃ、私とリンとは同じ部屋になれなかったんだから!?
なんて運命的なのかしら!私たち!
リンと私とお兄様。神様がきっとその偉大な左手で右手である私たちに、ちらりともそうとは気付かせずに行った、偉大な導きによるものなんだ、って、私思うの!』
活き活きとそう主張するミリアムの姿や声がありありとアクセルの脳裏に蘇った。可愛いミリアム。たった一人の妹。リンに出会い新たな人生の目標を得るまで、文字通り、ミリアムはたった一つのアクセルの生きる糧だったのだ。
両親の死以来、ディスカストス侯爵家を維持する目的も、ビジネスの世界で成功を収め、金を稼ぐのも、嫌いな社交界に顔を出して、いつか必要な日が来た時にミリアムが受け入れられる素地を作ろうと努力したのも、すべてミリアムの為だった。
その大切なアクセルの妹が、今、この瞬間、死にかけている!あの光り輝く、無垢な魂の上に、死の鎌が振り下ろされる巨大な危機に瀕しているのだ!
アクセルは必死で祈った。今は天国にいる両親に、神に、そしてミリアムを助ける為に緊急手術室の扉の向こうで全力を尽くしてくれているであろう全ての医師達に向け祈った。
「……お願いです、ミリアムを、ミリアム・ヘスターをどうか、どうか助けてください……!」
白くなるほどに両手の指をギリギリと組み握りしめながら、アクセルは呟いた。
と、その時ーー。
アクセルの耳に、かすかな足音が響いた。
何故か?、遠くから近づいてくるその足音が、他の雑多な話し声やBGMからくっきりと分離されて聞こえた。タッタッタとリズミカルな、まるで長距離走のアスリートのようなその足音は、アクセルの座る緊急手術室に向かってどんどん近づいてくるように聞こえた。
アクセルの中に、なんとも言えない震えるような喜びの予感が沸き上がった。そんなざわざわとした脳髄をどうすることも出来ないまま、知らず知らずにアクセルは立ち上がっていた。
そして、とうとうーーアクセルは見た。
遠くの廊下の角を曲がった人影が、こちらに向かって小走りに駆けてくる姿を。
足を踏み出すたびに左右に跳ね揺れるポニーテイルと、華奢な身体。
それはアクセルがこの7ヶ月間、会いたいと、会って抱きしめたいと焦がれ続けた女性。
ミリアムが全幅の信頼を寄せる大好きな女性。
グッドマンが未来の女主人として夢想する女性。
その人物は、アクセルの姿を認めると叫んだ。
「閣下!!」
その声を聞くやいなや、いても立ってもいられず、アクセルもまた、リンに引き寄せられるように走りだしたのだった。




