85.悪い報せ
電話がかかってきたのはアクセルのスマートフォン、しかもプライベート用のだった。その番号を知るものはとても少ない。リン、ミリアムをはじめ、本当に親しい友人のみである。
(誰だろう?)
疑問符と共にディスプレイを覗いたアクセルの目に飛び込んできたのは見たことのない固定電話番号だった。市外局番にも見覚えがない。
そのため、アクセルは一瞬出るのを迷った。しかし、電話は執拗に鳴り続けている。
「旦那様、私が応答いたします」
さすがにコールが15回を越えたので、グッドマンが手を差し出した。無言でスマートフォンを渡し、再びタブレットPCに目を落としたアクセルの耳にグッドマンの鋭く、狼狽した声が突き刺さった。
「えっ?!そ、それで、ご容体は?!」
それを聞いたアクセルは弾かれるように立ち上がると、グッドマンの手からそのスマートフォンを奪い取った。
「アクセル・ディスカストスです」
波立つ感情をまったく感じさせない、滑らかなバリトンが名乗る。
『ああ、ミリアム・ディスカストスさんの……?』
「兄です。妹が、なにか?」
『私はエッジロード市立総合病院、整形外科のトマス・ローンズです。先程、当病院の救急救命センターに妹さんがリチャード・ハーズバーグという男性と共に、収容されました。現在救命措置を行っています』
「救命措置……?」
それを聞いた途端、アクセルはまるで足下にぽっかりと黒い穴があいて、自分の身体がどんどん吸い込まれていくような錯覚に陥った。
「ミリアムは……ミリアムは……」
現在の状態を問おうとして言葉を継ごうとしたが、その先をどうしても言えずにそう繰り返すアクセルに、ローンズ医師は早口で
『ハーズバーグさんと共に、大変危ない状況です。なるべく早くこちらへ来ていただきたいのですが?』
とだけ言った。
アクセルだけではない。急に病院から電話がかかってきて、しかも救命処置を受けている、などと言われたらどんな人間でも茫然自失状態に陥るものだ。こういうとき、余計な言葉は不要だということを彼はよくわかっている。ほとんど思考停止に陥っている相手には、極々実用的で現実的なことだけを口にするべきである、と。
「もちろんです。すぐに向かいます」
アクセルはそれに自動的に返答した。
『お待ちしています』
そういって切れたスマートフォンを胸ポケットにつっこみながら、アクセルはグッドマンに振り返って言った。
「ミリアムとリチャードが事故に遭ったらしい。エッジロード市立病院に向かう。後のことは任せる」
「かしこまりました。車をご用意します」
まるで全てを分かっているかのように、グッドマンが答えた。
「いや、自分で行く」
上着を着て財布を内ポケットにしまいながら答えるアクセルに、
「いけません!こういう時にご自分で運転するなど、絶対にいけません!」
とグッドマンが強く抗弁した。
「……わかった、今すぐ車止めに車を回せ」
「スミスはこの時間お屋敷に待機中ですので、時間が惜しい。ハイヤーを手配いたします。旦那様はこのまま下に降りてください。1分以内に裏玄関の車止めに契約ハイヤーをまわします」
「頼む」
そう言い捨ててその部屋を飛び出し、アクセルは廊下を走った。そんなCEOの姿を秘書達が驚いた表情で見送る。そのまま待機していた重役フロア専用・地下駐車場直通エレベータに飛び乗ると、アクセルは足に力を入れて踏ん張り、減っていく階数表示をジリジリと見上げた。
(早く……早く……!!)
そう念じてはみるものの、だからといって降下スピードが上がるわけもない。しかし、そうでもしていなければ、悪いことばかりを考えてしまいそうだった。
(救急救命センター……危ない状態……すぐに来て欲しい……)
アクセルの頭の中を、さっき話した医師の言葉がグルグルと回った。
(ああ、ミリアム、ミリアム!!お願いです、お父さん、お母さん!ミリアムを、私の大切な妹を連れて行かないでください!!)
アクセルは祈った。神ではなく、両親に向かって。
「ああ、ミリアム……!!」
思わずそうつぶやきながら、エレベータの壁に腕をつき、額を押しつけて目を瞑りながら、アクセルはこみ上げる恐ろしい想像を頭の中から追い出そうとして、懸命に頭を振った。
あの日、両親の訃報を知らされたあの日ーー。あれからもう20年近い月日が流れ、自分はすっかり立派な大人の男に成長したはずではなかったか?
(それなのに、この情け無い狼狽ぶりはいったい、どうしたことだ!!)
アクセルは自分が酷く弱く、頼りない子供に戻ってしまったような気がして、その心許なさに体幹をぶるりと震わせた。
そして、そんなアクセルの脳裏に浮かんだのはリンの面影だった。自分を優しく抱きしめ、微笑みかけてくれた、母性に満ちた暖かな微笑みーー。
(ああ!ここにリンがいてくれたら!!)
アクセルは心の底から、強く思った。
今この時、アクセルはリンに会いたいと、痛切に思った。そしてこの不安を分け合い、あの静かで不思議な響きを持つアルトの声で
『大丈夫、大丈夫ですよ、閣下』
と言って欲しい。そしてそっと抱きしめさせてほしい、そう思ったのだった。
アクセルの脳裏にリンの全てが激しいほどの渇望を伴ってフラッシュバックした。それはあたかも麻薬中毒患者のそれのように、酷くリアルな映像を伴ってアクセルを揺さぶった。
(ああ、そうか。私はリンと出会って、そしてリンを愛し、愛されることで柔らかい、子供の心を取り戻したんだな。だからこんなに弱くなってしまった。リンの愛が、私の心の中にあった頑なでひび割れた大地に雨を降らせて、そして柔らかく敏感なものに変えてしまったのだ……)
アクセルは唐突に悟った。愛は人を強くすると同時に、柔らかく、ある意味弱くするのだと。
(しかしそれでも……。私はリンを愛することを選ぶだろう。何度この生を生き直したとしても、必ずリンを愛し、随分前に失ってしまった柔らかく優しく感じやすい幼心を取り戻す方を選ぶだろう。なぜなら、私はリンを愛さずにはいられないのだから)
そこまで考え至った所で、アクセルは改めて両手をギュッと握りしめた。
(しかし、今、自分の隣にリンはいない。軟弱な精神では、この窮地に立ち向かうことはできない。とにかく今は、なんとか一人でこの局面を切り抜け、ミリアムとリチャードを助ける為に全力を尽くさなければならない)
アクセルはそう念じて気持ちを立て直した。
そんな様子をまるで見ていたかのように、身体にGを感じたかと思うと、チーンというチャイムと共にエレベータのドアが開いた。ガラスで仕切られたエレベータホールを抜け、独特の臭いがこもったコンクリート打ちっ放しの駐車場に足を踏み出すと、それを待っていたかのように黒いピカピカのハイヤーが滑り込んできた。
ハイヤーはまるで減速を感じさせないなめらかさでピタリと停まると、運転席から出てきたがっしりとした男が後部座席のドアを開け、恭しく頭を下げた。
「ディスカストス様、どうぞ」
お仕着せに身を包んだ運転手に促されるまま、後部座席に乗り込む。
「エッジロード市立病院、救急救命センターまで。急いでくれ!」
逸る気持ちを押し殺してアクセルは言った。
「かしこまりました」
一流ドライバーだからこそ身につけた、あえて感情を交えない静かな返答と共に、黒いラグジュアリー・セダンは、アザリス首都ギースから北西へ150kmに位置する海辺の街、エッジロードへ向かって、滑るように走り出したのだった。




