8.月夜の散策
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翌日はよく晴れた、美しい夏の日だった。
朝食の場にアクセルは現れず、ミリアムも特になにも話さなかったので、リンは約束通り彼がデリースへ戻ったのだ、と解釈した。
「今日はアイランドに行きましょう!」
ミリアムが宣言する。
「アイランド?」
「そう。昨日話したでしょ?ビーチのある、うちの島よ。」
「うちの島…!」
リンはすっかり忘れていたので、もう一度ビックリさせられた。別荘ばかりでなく、島まで持ってるなんて…。ディスカストス家のすごさをまたもや突きつけられたような気がする。
「夕方までたっぷり遊べるわ。リン、水着を忘れないでね!」
ミリアムが子供のように言う。カレッジでは子供っぽ過ぎて違和感を与えるその口調が、侯爵家所有の別荘では、ピッタリな印象を与えた。
(そうなんだわ。これがミリアムの世界。ミリアムが慣れ親しみ、今まで生きてきた世界なんだわ。)
悲観するでも僻むわけでもなく、リンはすとん、と納得して友人の愉しそうな顔を眺める。
(全てを持っているミリアム…。それなのに気の合う同じ階級の友達がいないなんて。一人くらい、いても良さそうなものなのに…。)
そこまで考えて、リンは頭を振った。脳裏に自分がカレッジで接している沢山の令嬢達の顔が浮かんだからだった。
あんなに沢山の学生がいるのに、貴族階級出身者でリンの出自を知っても態度を変えない者は皆無なのだ。しかも、皆無に等しい、といったレベルの問題ではなく、正真正銘皆無なのだ。
(身分もお金もあるけど、精神的な共感を得られない人々とつき合わざるを得ないのと、身分やお金がないけれども、精神的に充実しているのとどっちの方がより幸せなんだろうか…)
思わずリンは考え込んでしまった。
そして、出発までをそんなふうにぼんやり過ごしてしまったせいで、物陰からじっと観察する、アクセルの灰色の視線に気付くことはなかったのである。
*****
ミリアムの婚約者、リチャードの操縦するクルーザーは、エメラルドグリーンの海を滑るように走っていく。
やがて小一時間も経った頃、見えてきた白い砂浜の小さな島には、ディスカストス家私有のヴィラがビーチのすぐ近くに建っていた。
「すごい、水道まである!!」
驚くリンに、
「幸い、この島には井戸が掘れたの。だからこそ、お祖父様がここを買ったらしいわ。
電気は太陽光発電よ。曇りの日が続いた時のために、灯油の発電機もあるけどね。」
と、ミリアムは自慢げに言った。
お抱えシェフ特製のランチボックスには海辺らしい海鮮のテリーヌや全粒粉を使っているのに信じられないくらい美味しい黒パンのサンドウィッチ、そしてディスカストス家に代々伝わるレシピで作られた蜂蜜スプレッドの挟まったスコーンサンドなどがどっさりと詰められていた。
ランチを存分に愉しんだ後、3人はビーチに繰り出した。
リチャードは巧みなインストラクターで、リンはミリアムと3人でシュノーケリングを愉しんだ。
信じられないくらい、綺麗で小さな魚達を見て、さすがにリンのテンションもあがってしまう。こんな海の中の美しい光景が見られるなんて!昨日の夜、ミリアムとアクセルと3人という、ひどく気まずい雰囲気のディナーに耐えた甲斐があったというものだ。
ミリアムが約束してくれたとおり、アクセルは今朝早くに別荘を出発したらしいし、もう心配事もなさそうだ、と思ったリンは心底ホッとすると共に、ほんの少しだけだが、アクセルに申し訳ないと思うのも止められなかった。
もしかしたら、アクセルだって、たった一人の妹と、もうしばらくバカンスを楽しみたかったのかも知れない…。
リンの本意ではないにしろ、見かけ上は、自分のせいで侯爵閣下を追い出したようなかたちになってしまったことが少しだけ気になった。
しかし、すでに彼は去ったのだ。申し訳ない、と思う気持ちよりも今は目の前のこの美しい景色を楽しもう!リンはそう、気持ちを切り替える。そして、
(来年はどんなにミリアムが誘ってくれても断ろう。だったらここに来るのも今年が最初で最後。だったら思いっきり楽しんで良い思い出を作らなくては!)
との思いで、最初で最後になるであろう、美しい海中にある全てを瞼の裏に焼き付けようと思うのだった。
*****
クルーザーの上で美しい夕焼けを楽しみながら3人が冷えたビールを楽しんでいた頃、アクセルは苛々しながら3人の帰宅を待っていた。
そして、はしゃいだリンが真っ先に水着のままで崖下のマリーナから長い階段を駆け上がり、いち早くリビング下のバルコニーに笑いながら駆け込んできた時、それを真っ先に出迎えたのは、侯爵閣下本人だった。
「ほら、私が一番よ!…ハァ…ハァ…これで食後のアイスクリームは私が3スクープね!」
まだまだ下の方をひぃひぃ言いながら登っているミリアムと、エスコートがてら、笑いながら後押ししているリチャードに向かって叫んだリンは、笑いの発作にとりつかれたかのように愉しげに笑った。
そうしてバルコニーのカウチで一休みしながら2人を待とうと振り向いた時、その人影に気付いて凍り付いた。
リンはその体つきを知っていた。
男らしい、がっしりとした体つきに、長い手足。リビングの照明が逆光になっていて、表情が見えない分、余計に恐ろしさがかき立てられる。
(どうして?!デリースに帰ったんじゃ…?)
リンは呆然としたまま、息も絶え絶えに後ずさった。
一方アクセルはリンのしなやかな肢体に目を奪われていた。
小さい頃から常に家事労働を担い、掃除洗濯から同じ孤児院の子ども達の世話まで勤め上げてきたリンの身体には余計な贅肉は無く、程良い筋肉がついている。そこにもってきて、カレッジでの栄養に配慮した寮食と多忙な実験・実習が課せられる医学課程の生活が、リンの第二次性徴を華々しい方向へと導いた。
リンの首から肩へのラインはすんなりとしなやかな曲線を描き、それでいてしっかりとした筋肉とそれを薄く覆う脂肪がなんともいえないみずみずしさと弾力を想像させる厚みを与えている。
胸はこぢんまりとしているが、階段を駆け上がった時に大きく弾んでいたところをみれば、その柔らかさは容易に想像できた。
アクセルが最も目を奪われたのはリンの腰からヒップにかけてのふくよかなフォルムだった。決して平面的ではない、丸い厚みを持ったヒップが、ぐっと狭まったウェストの下からぐいっと突き出るように続いている。
リンの肢体は、無理なダイエットやエステ、そして整形に明け暮れて厚みも柔らかさも置き去りにしている社交界の女性達にはない、暖かみと弾力、そして弾けるような生命力を伴ってアクセルを圧倒した。
リンは笑っていた。まるで朝日のように。明るく輝くような笑顔だった。
それが自分を認めた途端、たちまち消え失せ、そして驚きと恐怖を経て、全てを封じ込めたあの忍耐強い無感情へと収束してしまった時、アクセルは激しい喪失感に全身を震わせた。
(あの笑顔が、リン・バクスターの本質なのか?そして私という存在は、あの輝き溢れる、全き精神をいとも簡単に苛み、かき消すものでしかないのか…?)
驚き震えて、身体を縮こませるように立ちすくむリンの後ろから、やっとミリアムとリチャードが現れた。
「お兄様?!何故、まだいるの?!」
と、ようやく階段を上りきったミリアムが、リンの気持ちを代弁したかのように叫ぶ。
「…帰ったさ。そしてもう一度来たんだよ。お前とリチャードと…」
アクセルはそこで一旦言葉を切り、
「…ミズ・バクスターと楽しい休暇を過ごす為にね」
リンはそれを聞いて何かの間違いではないかと開いた口がふさがらなかった。
一方ミリアムはアクセルに抱きついた。
「ああ、お兄様!やっと分かってくださったのね?!リンのこと!私、お兄様ならきっと理解してくださる、って信じてた!リンの素晴らしさも、私がどんなにリンのことを信頼しているかも!ああ、嬉しいわ!」
「…ミリアム、ダーリン……許してくれるかい?もうケンカは終わりだね?」
「もちろんよ、お兄様!良かった!良かったわ、ね?リン!」
ミリアムがべそをかきながら振り向きざまにリンに同意を求めてきたので、リンは
「そ、そうね?良かったわ、私も嬉しい。」
と答えざるを得なかった。
無論、リンはそんな伯爵閣下の言葉の裏に隠された感情に薄々感づいていたが、あえて気付かない振りを通した。
愛すべきこの友人の心をこれ以上悩ませる事はしたくなかった。結局のところ、リンもこの差別主義者の侯爵閣下も、ミリアムを喜ばせ安心させたいと思う気持ちは一緒なのだ。その一点だけでも共通の思いを持てれば、なんとか残りの日々を過ごせるかも知れない。リンはそう思った。そして、再びリンは祈った。母親代わりのシスター・マーガレットの面影が頭を過ぎる。
(シスター、支えて下さい。私の弱い心を。挫かれ、蔑まれても相手を憎まずに済むように。)
これから始まる、本格的な試練を予感した精神が、再び硬く透明な壁を鎧うのを感じて、リンは思わず眼を閉じた。そんなリンをそっと見つめるアクセルの視線にも気付かずに…。
*****
リンの精神力が試される機会は、意外に早くやってきた。
その日の夕食後、はしゃぐあまりにシャンパンを過ぎたミリアムがリチャードの介抱と共に自室へ早々に引き上げてしまった後、二人っきりになったのを機に、アクセルがリンを夜の庭へと誘ったのだった。
その日は美しい満月の晩だった。
ディスカストス家のこの別荘に15の歳から50年も勤めているという、老いた庭師が丹精した薔薇が咲き誇る薔薇園をそぞろ歩きながら、何を言われても平常心を失うまい、とリンはおよそそのロマンティックなシチュエーションにそぐわない、恐ろしく冷え冷えとした覚悟と共に、アクセルの後ろについて夜半の小道を歩いていった。
辺りに漂う薔薇の香りがむせかえるような夜だった。薔薇を害虫から守り、その菌根菌で地中の養分吸収を支えるコンパニオンプランツとして植えられたペパーミントのピリっとした芳香が、甘い匂いに混じって辺りに漂い、薔薇の香りをより一層引き立てる効果を上げていた。
やがて二人は、小さな噴水とその脇にあるささやかな東屋にたどり着いた。
「座りたまえ、ミズ・バクスター」
硬い声でアクセルが命じると、リンは素直に従った。しかし、一切目線は合わせない。アクセルは何故かそんなリンの態度に苛つきを募らせた。
「……。」
リンは黙ったまま、硬く結ばれた自身の両手を見つめている。ミリアムから押しつけられた2~3シーズン前のプレタポルテのサマードレスの裾がはためく。柔らかいシルクジャージーのノースリーブからのぞく、日に焼けた肩から腕のラインが、月明かりの下で不思議な光沢を放った。
アクセルはそんなリンのまろやかな首から肩の線に、突然言いようのない喉の渇きを覚えた。
「妹…ミリアムは随分君に執着しているようだ。」
「……。」
リンは無言を通した。
「滑稽だろうな、爵位持ちで傲慢な私が、妹には言いなりで、あろう事か庶民階級のしかも孤児である君に、最上級の礼をもって謝罪するなど…。」
アクセルの声には自らへの苦い嘲笑が含まれているように、リンには感じられた。
妹の事になると、バカバカしいことでもなんでも、言うとおりにしてやりたい、という気持ちが、ミリアムへの深い深い愛情が感じられた。妹に嫌われたくない、という、アクセルらしくない、弱気がかいま見えたような気さえする。
「…羨ましいですわ、閣下が。」
と、次の瞬間、リンは図らずも顔を上げてまっすぐ言い放っていた。
「…えっ…?」
思いもよらない言葉を聞いて、アクセルは驚きのあまりずっと見ることができなかったリンの顔を、じっと見つめた。
「閣下もご存じの通り、私は孤児で、親もきょうだいもいません。ミリアムの事をそのように大切にし、自分のプライドを後回しにしてまでミリアムを優先する閣下を見て、思わず私にも兄がいたらこんな風に大切にしてくれるのだろうか、と羨ましく思いこそすれ、閣下がおっしゃったようなことは一切思ったことはございません。
同時に、もしも私に妹や弟がいたら、きっと閣下と同じように守ってあげたい、と強く思います。
閣下は立派です。ミリアム…さんもきっといつか閣下に感謝する日が来ると思います。
閣下が私に冷たくして、私を遠ざけた事に、感謝する日が…。いつかきっと…。」
リンはそこまで一気に話すと、東屋の石のベンチから立ち上がり、本題に入るようにアクセルを促した。
「…それで、閣下。お望み…いいえ、ご命令はなんですか?
…いいえ、分かっています。閣下がおっしゃりたいことは…。
ですから…、もうなにもおっしゃらなくて結構です。私は明日、ここを離れます。
明日の朝一番の汽車に乗る為には、そろそろベッドに入らなければなりません。
これで失礼させていただきます。」
「……。」
苦虫を噛みつぶしたような表情でアクセルはリンを見つめた。
そんなアクセルの視線をまっすぐ受け止めたリンの眼の中には、一切の感情が欠落していた。ガラスのように澄み切っており、心の交流を完全にシャットアウトしている。
それを見せられて、アクセルはなぜだか激しい焦燥感に駆られた。
(違う!違う違う、違う!私が望んだのはその瞳ではない!!私が…私が望んでいたのは…)
そして、その焦燥感に駆り立てられるようにリンへと近づき、死んだ魚のように感情を押し殺したリンの瞳を至近距離から覗き込んだ。
それでも依然としてリンの瞳は一切の感情を見せなかったことに、アクセルの焦燥感は最高潮に達し…。
気がつくとアクセルはリンの肩に手を乗せ、激しく怒鳴りつけていたのだった。