75.手放せないもの
ブッブッブーブッブッブー
胸ポケットの中で震えているスマホに起こされたアクセルは、一瞬今自分がどこにいるのか、わからなかった。ついで、かすかな振動とレザーシート独特の匂いを感じて、自分がリムジンに乗っていることと、それがどうしてなのかを思いだし、とっさに左手首の時計を見た。
予定ではもうじきギースのインターチェンジに着く頃である。シートの上で身じろぎすると、すぐ脇にある冷蔵庫からガス入りのミネラルウォーターを取りだして一口飲んだ。ほんの少しにすぎない、仮眠とも呼べないほどの睡眠だったが思っていたよりも眠りは深かったらしい。まるでたっぷり睡眠を取ったような満足感を感じて、アクセルは身体を伸ばした。長身のアクセルが身体を動かしても十分広いリムジンの中には、かすかなクラシック音楽がかかっている。ぼんやりと車窓を眺めるアクセルの頭の中に、最後にリンと会った時のことが想い出された。
秋ももう半ばを過ぎ、アザリス北部に位置する避暑地であるギースにはそろそろ本格的に冷たい風が吹き始める、丁度そんな時期だった。
その日、ギースの別荘でゆっくりと食事をした後、病院の職員寮へと戻ろうとするリンをどうにか引き留めたくて、アクセルは自慢の薔薇園をそぞろ歩きしよう、と誘った。秋に咲く品種が、初夏よりも控えめで落ち着いた芳香を放っている少し冷たい空気の中、リンの小さな手を握って無言で歩いたあの時、アクセルの胸の中は幸福感で一杯だったものだ。
「ジョン・マシューズの親父さんが、次の交配で出来た薔薇に君の名前をつけてくれると言っていたよ」
アクセルがそう言うと、リンは吃驚した顔でとんでもない、と首を振った。
「どうして?」
女性はそうしたロマンチックで、唯一無二のプレゼントが好きだと思っていたアクセルは、心底不思議そうに訊いた。
「リン、なんてありきたりな名前じゃないですか?薔薇なんですから、ルクレツィアとか、メルツェデスとか、エリザベスとかこう、ゴージャスな名前じゃないと」
なにより、柄じゃあありません、そう言って照れくさそうに上気してそっぽを向いたリンの、夜目にも赤い耳たぶにキスを落としたらどんな顔をするだろう?なんてことを考えながら、アクセルは抗議した。
「リン、良い名前じゃないか。私は好きだ。短くて呼びやすい、そして、私にはこの世で一番大好きな女性を呼ぶための言葉だ」
至極真面目にそう言い切ったアクセルの眼差しを受け止めた途端、見る見るうちにリンの顔や耳、そして首筋からデコルテが更に赤みを帯びていくのを見て、思わず衝動的に抱きしめて、キスの雨を降らせたあの夕べーー。
なんの疑いもなく、リンとの間にこうした幸せな時間だけを積み重ねていけると信じていたあの瞬間。薔薇の薫りに満ちた空気の中で交わした、甘い甘いキス。アクセルの腕の中で弾んでいた、リンの肢体、そしてそこから立ち上っていた、清々しいハーブの匂い。
(リンの笑顔を、心の底から笑っているリンを、一番近くで守っていけると信じていたーーそんな自分が悔しい!この状況を予測できなかった自分の見通しの甘さが悔しい!!後悔してもしきれない……)
車窓を流れる対向車のヘッドライトを眺めながら、アクセルは深い悔恨に沈んだ。
(私が貴族でなかったなら……。ただの平民で、リンと同じ庶民階級の男だったなら、こんな風にリンの名誉を傷つけ、下らない騒動に巻き込むことはなかった……)
アクセルの中に再びリンの姿が思い起こされた。
屈託無く笑う眩しい笑顔や、いつも微笑んでいるように見える、口角のキュっと上がった優しい表情。アクセルの大きな腕にすっぽりと収まってしまう、可愛らしい頭蓋と、手触りの良いさらさらとした髪の毛。そこから立ち上るせっけんシャンプーのラベンダーの匂い。
なによりアクセルの心を揺さぶるのは、会う度に見せるその照れくさそうな他人行儀な態度だった。
たった1週間会わなかっただけでも、まるで友人に戻ったかのような態度になるリン。アクセルが喜びを隠そうともせずに、大仰にハグと頬へのキスをして、指を絡めるように手をつないでも、なかなか目を合わせてくれず、丁寧な敬語を使うリン。
そんな時、アクセルはいつも、あの、初めて一緒に過ごしたギースの夏を思い起こす。他人行儀なリンの態度は、まるであの時のような『偽りの親愛』を演じているようで、アクセルはいつだって胃の中に蝶を飲み込んだような気分にさせられるのだ。
少し会わないでいるだけで、毎回のように気易いところがなくなって、かつてのような堅苦しい態度に戻るリンのその様子は、アクセルにとっては、まるで別れ話を切り出す前触れのように見えてしまう。リンの愛情深さと誠実さを信じているアクセルは、考えすぎだと知りつつ、いつだってリンが自分とつき合うのをやめて、離れていってしまうのではないか、という不安が拭いきれないのだった。
そんな所に持ってきて今回のタブロイド騒動である。しかも、リンを持て囃す『現代のシンデレラ』的なものではなく、まるで泥棒猫扱いの記事だ。
(……私とつき合ってさえいなければ、あんな酷い誹謗中傷に遭うこともなかったのだ……)
そう考えて、アクセルはギュっと目を瞑った。
(私はリンに相応しくない。あの、美しく強く、そして優しいリンとは釣り合わない人間だ。
それなのに。
これだけリンにとって自分が相応しくない相手だと分かっていながら……私という男は……どうしようもない人間だ……)
アクセルにだって、分かっているのである。この騒動にリンを巻き込まずに済む方法も、今後一切リンに迷惑がかからないようにする方法も。自分が身を引きさえすればいいのである。どう考えても、結論はいつもそこに落ち着いてしまう。それがベストな選択なのだと頭では分かっているのに、断固としてそれを拒む心を抱えて、そんな分裂した傲慢な自分を自嘲しながら、アクセルはより一層強く目を瞑った。
(こんな時でさえ、私は身を引くという決断が出来ない、情けない男だ。頭に浮かぶのは、リンの笑顔ばかりで、リンに会いたい……!会ってその身体を抱きしめたい……!そして、もうなんの心配もない、と言ってやりたい!)
そんなことばかり考えている情けない自分に、アクセルの罪悪感は益々かき立てられた。
アクセルの自己嫌悪を増幅させたのは、ことここに至っても、ここまで罪悪感を抱いてリンに対する申し訳なさで頭が一杯になっても、リンと別れるという選択肢を決して俎上に乗せない、自分という人間の身勝手さだった。
今回のこの騒動の大元は自分自身に由来するということは、アクセルにだってよくわかっているのだ。
古い血筋、爵位に財産。人とは少し違っている珍しい外見。両親と死に別れ、若くして爵位を継いだ孤高のプリンス……。そんな『付随する物事』が、否が応にもマスコミからの注目を集める一因になっている、ということを、アクセルはよく分かっていた。
だからといってそれらを全て捨て去ることは出来ないだろうことも、アクセルにはよく分かっている。ディスカストスの名を冠した企業の数々には、当然働く沢山の従業員達がいる。爵位の下に行われている慈善活動もあり、そしてなによりミリアムの生活を守って行くためにも事業を手放すことは考えられないからだ。
そこまで考えて、再びアクセルの頭に、堂々巡りにしかならないジレンマが戻ってきた。
(リンにとって一番良いのは、私と別れることだ。こんな無用の注目を集める、タブロイド紙が餌食にしようとするような男とはさっさと別れるのが、リンにとって最も良いことだ……。
それなのに……。私にはどうしてもリンと離れたくない……)
リンと離れる、考えるのもイヤなその考えを頭から追い出すように、アクセルはブンブンと頭を振り続けるのだった。




