70.嵌められた二人組
時間は滑るように過ぎていく。
逆算するとあと2時間ほどでアクセルがここに到着する計算になる。一方で、マニティ島へ移動するために、寝台列車に乗ることを考えると五十分後の特急列車に乗らなければならない計算になる。アクセルに直接会って事情を説明できたら、と考えつつも、時間的な問題でそれは不可能な話だった。リンは自室の片付け作業をしつつ、気を紛らわせた。
やがてリンのスマートフォンに一通のメールが入った。文面を読み、全ての段取りが終了したことを確認すると、リンと2人のナースは自室をでて玄関へと向かった。
頼んでおいたタクシーが寮の玄関前の車止めに入ってくるのを見て、リンは改めて二人に向き直った。
「じゃあ、お願いします」
リンは頭を下げた。少し緊張しているが、表情は明るい。状況は決して良くはないし、まだまだ予断を許さないことは事実だろうけれども、少なくとも今はベストを尽くしてやり抜くしかない。
その表情を見た二人の協力者は、
「オッケー」
「了解」
と言って、ニッコリと親指を立てた。そして、励ますような笑顔で、このいじらしい年若な研修医の手を握りしめた。
「元気でね、メールちょうだいね!」
「なにがあっても、あんな卑劣な記事に負けちゃダメよ!」
口々にリンを激励すると、一人はそのまま、もう一人は乗り込むのを見られないようにかがみ込みながら、タクシーに乗り込んだ。リンは無言で頷きながら、胸一杯の感謝の気持ちを込めて、そっとタクシーの後ろ姿を見送りながら聖句を唱えたのだった。
*-*-*-*-*
寮の門を入って行ったタクシーが、黒髪の女性を乗せてすぐに寮を出て来るのを見て、門前に停めた古いセダンから寮の入り口を見張っていた男が、がばりと身体を起こした。リンを追っているタブロイド紙の記者である。あわてて双眼鏡を置くと、
「おい、起きろ!!」
叫びながら、慌ててエンジンを掛ける。間髪入れずにハンドルに飛びつくと、タクシーを追いかけながら、助手席で横になっているカメラマンを、乱暴に小突いた。
「……なんすかー?もう侯爵閣下が来たんですかー?」
「いいや、わからんが、女が動いた。タクシーに乗って出てきた。後を追うぞ!」
前方を行く黒っぽい色のタクシーはギースの町を抜け、郊外へと続く道路へと入っていく。
「やっぱり!この先にあるのはディスカストス侯爵様の別荘だ!侯爵と待ち合わせするんだ!」
ハンドルを握る男が、勝ち誇ったように叫んだ。
「って言ったって、別荘の中には入れないぜ?」
愛用のカメラに暗い場所でも写真が撮れるよう、望遠レンズに加えて様々な装置をつけながら、もう一人が茫洋とした口調で答える。
「とにかく門と女が一緒に写ってさえいれば、あとはどうにでも書くさ。その代わり門の向こうへ入られちまったら、写真が撮れるチャンスもなくなっちまう。抜かるなよ?」
そう念を押し、男は引き離されないよう注意しながら、タクシーの後をついて走り続けた。
やがて岬の突端にあるディスカストス侯爵家別荘の門前でタクシーは停車した。それに合わせて、ギリギリ様子をうかがえる辺りに路駐すると、運転席の男は声をひそめ、興奮を抑えつつ言った。
「おい、しっかり狙えよ?決定的なシャッターチャンスだぞ!」
と、口調は押さえているのに口角に泡がたまるほどいきり立っている。
「分かってますよ~」
のんびりした口調とは裏腹に、その手に持っているのはすっかり準備の整った、まるでライフルのようなカメラで、甚だ攻撃的である。望遠レンズに暗視スコープ、そして例え十メートル先からでも顔をはっきりと捉えることのできる、高出力フラッシュなど、ターゲットをはっきりと撮影する為の装備を備えた商売道具を手に、カメラマンが車を降りようとした……、その時だった。突然暗闇を切り裂いて、赤色灯をまわしながらパトカーが忽然と現れたのである。
*-*-*-*-*
どうやらカーブを抜ける箇所からヘッドライトを消していたらしく、そのせいで接近にまったく気付くことのできなかった2人の男は、何事かと身体をすくませた。
そうこうするうちに、赤色灯で辺りを赤く照らしながら近づいてきたパトカーが、路側帯に停められたタブロイド二人組の車の前方に、スーっと停まった。
車内の二人はそれを見て、途端に慌て始めた。
「おい、なんだぁ?なんでこんな所に警察が……」
「わからねぇよ。でもなにも悪いことはしてなし、法を犯しているわけでもねぇ。堂々としてりゃあいいんだ」
そう虚勢を張る男だったが、本当は今すぐエンジンを掛けて走り去ってしまいたい衝動に駆られた。今まで沢山のSP達ともみ合いへしあいしながら突撃してきた男だったが、警察は苦手だ。なんといっても奴らは国家権力を持っている。下手すると、痛くもない腹を探られる羽目になる。タブロイドの記者をやっているだけあって、男には叩けばホコリのでるアレコレがあるのだ。
一方、カメラマンはといえば、準備万端整った自慢のカメラをそっと足の間に降ろしながら、チラチラとパトカーの向こう側に停車しているタクシーを見ていた。問題の女が出てきて、あの門を潜って行ってしまったら、もうどうしようもないのだ。勝負は一瞬だというのに、万が一警察に難癖つけられたら、どうすることもできない。カメラマンの中に、ドアが開くのを待つような気持ちと、このままなにも起こらずに、警察がさっさといなくなってしまえばいいのに、と神に祈るような気持ちがせめぎ合う。
そんな気持ちをつゆ知らず、自分の事でいっぱいいっぱいになっている記者の男は、
「今だ!ほら、撮れよ!」
とカメラマンを急かした。しかし、カメラマンの男だとて、馬鹿ではない。
「馬鹿言うな、パトカーが見張ってるんだぞ?」
と抗議して、益々、カメラを自分の足の間、シートの下の方へと隠すように身を縮こませた。
「なに言ってるんだ、千載一遇のチャンスだろう?!二人の仲を証明する絶好の一枚が撮れるじゃないか!」
「じゃあ、お前が撮ってこい。俺は、捕まるのはゴメンだ」
「貴様~~~!」
記者の男が額に青筋を立てる。ほとんど八つ当たりのようにカメラマンを睨むと、どうしたらコイツに撮影させることができるか、考えを巡らせようとした、その時である。コンコン、と運転席側の窓が鳴った。もしかしなくても、警察官が叩いている音だった。
「すみませ~ん、ちょっとお話、よろしいですか~~?」
気のよさそうな、若い声が聞こえる。屈んで覗き込んでいるのを見ると、どうやら身体が大きいようだ。記者の男は観念して、窓を下げた。
「こんばんは~、どうしました~、こんなところで~~」
果たしてその若い警官は、いちいち語尾を伸ばして喋った。それはまるで子供を相手に、噛んで含めるような言い方に似ていて、自分をバカにしているように聞こえた。記者の男はそのしゃべり方にイラッとしながら、口を開こうと息を吸い込んだ。
しかし、その息は、警官への返答には使われずに終わってしまった。というのも、2人の目の前で、ディスカストス侯爵家別荘の門前に停まっていたタクシーが、すーっとUターンしたかと思うと、元来た道を戻っていったからである。
「あっあっあーーー!」
警官の目の前で有ることも忘れて、男は叫んだ。助手席のカメラマンは、完全にしらばっくれて、相変わらずカメラを隠すように足を寄せると、我関せずとばかりにそっぽを向いた。
「写真撮影ですか~~ぁ?こんな夜更けに~?」
イラつく喋り方でそう問われた記者の男は、思わず『うるせえ!!』と怒鳴り返しそうになる。
ところが、そのいかつい警官の表情と目を見て、記者の男は震え上がった。からかうような間延びしたふざけたしゃべり方をしているというのに、その若い警官の目は酷く鋭く、厳しかったのである。男の身のうちにゾッと悪寒が走った。そして同時に、なぜだかピンとくるものがあった。
(……嵌められた……)
さっき走り去ったタクシーといい、絶妙なタイミングで現れたパトカーといい、どう考えてもタイミングが良すぎるではないか!しかも必死で隠しているのにもかかわらず、どうやらその警官はこの車にはカメラマンが乗っていて、写真撮影をするつもりである(しかも非合法に極めて近い、肖像権もへったくれもないタイプの撮影を、である)ことを知っているのだ。
どう考えても、偶然通りかかった筈がない話の内容だった。
「……少々、署の方でお話聞かせていただいて、よろしいですかぁ~?」
相変わらず間延びした、どこかふざけた口調で警官が言い募る。しかしその目線はといえばひどく鋭く、ふざけた様子はどこにも見られないのだった。




