7.侯爵閣下の謝罪
「わあっ…!!!」
目の前の風景に、リンは思わず感嘆のため息を漏らした。
ディスカストス家自慢の海辺の別荘からは、遠く、湾の対岸とその向こうに続く外海のきらめきまで見て取れる。
大きな出窓からはバルコニーへ出られるようになっており、収納式のひさしがついたそこには、寝そべるための長いすがいくつか置いてあるのがいかにも夏のリゾートらしい。
そんなリビングは入り口から入ってすぐに少しのロビーがしつらえられており、そこから更に5段の下り階段をつけていて、部屋に入ると眼下の眺望とバルコニーが一気に見渡せる作りになっていた。
執事の先導で海を見下ろすベストなソファに案内されたリンは、ようやく泣きやんだミリアムに、話しかけた。
「素晴らしい眺望ね!ミリアム、ありがとう。こんな素晴らしい景色、滅多に見られるものではないわ。私、こんなきれいな風景を見たのは生まれて初めて!本当にありがとう。」
「・・・リン・・・。」
「どうしたの?ミリアム?」
「お願い!リン!帰るなんて言わないで!!」
「・・・。」
目の前の親友が、猛暑の首都で24時間子供達の世話をしてこの一月半を過ごしてきたことに、ミリアムは激しく同情していた。いや、同情などという生ぬるいものではなく、よりぴったりとした表現をすれば、それは強い尊敬と憧れの念だった。
この3つも年下でありながら、まるで母親のように自分に優しくしてくれる親友を、ミリアムは心の底から慕っている。リンは勉強ができるだけでなく、誰彼隔てず優しい。カレッジではリンの出自を揶揄してバカバカしい特権意識を振りかざすクラスメートも多い。そんな人達の心ない中傷にも、リンは決して惑わされなかった。
ミリアムはこの国の、この同じ特権階級とされる貴族達がキライである。自分の努力ではなく、単なる血筋というものによって立ったプライドを盲信して威張り散らすその姿を見るにつけ、逃げ出したくなる。あんな人達と友達になんてなりたくない・・・いいえ、なれない。そろそろ学齢になるから、と両親に連れられて戻った「故国」、そして自分が所属すべき階級の「仲間達」は、悉く、ミリアムの期待を裏切り、大きな幻滅を与えたのだった。
だからこそ、ミリアムはリンに強く惹かれた。
リンの強さ、そして優しさ。物事を公平に見る聡明さ。なによりリンはミリアムをミリアムとして扱ってくれた希有な人間だった。
いつでもミリアムは「アクセルの妹」だった。物心ついてからこっち、アクセルは圧倒的な存在感でもってミリアムの人生を支配してきた。小さい頃はそれでも良かった。アクセルは自慢の兄だったし、常に守られ大切にされることに異存はなかった。
両親が死んでしまった時も、その後のとても辛かった時期も、アクセルがいなかったら、きっと、絶対に乗り切れなかった、とミリアムだって分かっている。兄にはいくら感謝してもしたりないくらいの恩を感じている。
少し独善的なところもあるし、ミリアムに対してひどく口出しをしたがるところを我慢すれば、だいたいの部分でアクセルは良い兄であり、保護者なのだ。
ところが、こと、リンのことになると態度が豹変する。貴族の嗜みとしてディスカストスも年間多大な額を様々な慈善団体に寄付しているし、そういった貧困に苦しむ人々も、孤児院で育ちながら立派な職についている人々も、きちんと尊重する態度を忘れないのが本当の貴族のノーブレス・オブリージュというものである。
その点アクセルは完璧だったはずなのだ。それがミリアムの敬愛する、自慢の兄のハズなのに・・・。
とにかくリンに関しては酷すぎる!ミリアムは今日こそは兄にそのことを訴えて、リンとの親交についてアクセルにあれこれ言われたり指図を受ける筋合いはない、とはっきり言ってやるつもりである。
ミリアムの我慢ももう限界だった。
リンの腕を不作法にも痣が出来るほどつかみ上げる等、本当に警察に突き出してやればよかった、とさえ思う。それくらいミリアムは怒っていた。
*****
「お兄様、こちらに来て」
ミリアムが聞いたことのない声で呼ばわると、アクセルは堂々とした態度でリンとミリアムの座る、眺めの良い特等席ソファの脇に座った。
「お兄様、リンに謝って?」
「ミリアム、私は・・・」
「リンは黙っていて?これは私とお兄様の問題だから」
「・・・」
アクセルは妹がこんな風に自分を見る日が来ようとは思っても見なかった風に、ミリアムと眼を合わせてはすっとそらす、というのを何回か繰り返した後、大きなため息をついた。
「ミズ・バクスター、申し訳なかった」
「!!!」
リンはビックリした。驚きすぎて、即座に返答が出来ないくらいほどだった。
「あ、あの、閣下、私は、その」
「だめよ、お兄様。もっときちんと謝って」
ミリアムの怒りを滲ませた硬質な声が、更なる謝罪を要求する。いったいこれ以上のどのような謝罪があるのだろう?貴族階級の礼儀作法など知るよしもないリンは、ディスカストス侯爵家の兄妹が視線で応酬している『きちんとした謝罪』についての知識がない。
(いったい何を?)
その時、再度大きくため息をついたディスカストス侯爵がリンの目の前に片膝をついて跪いた。そしてその手を両手で捧げ持ち、
「お許しいただけますか?マイ・・・ディア」
と言って、そっと額に戴いたのだった。
それはこの国の貴族階級が最も尊ぶ、礼儀作法のうち、男性から女性へと送られる、尊敬と謝罪のマナーである。
驚きのあまり、リンは呆けたようにアクセルのその動作を眺めていたが、急に我に返ると、自分の手をひったくるようにアクセルの手から取り戻した。
「あ…あの…閣下…」
何を言ったらいいのかわからない。リンはすっかり毒気を抜かれてしまっていた。
「お兄様は少しあちらへ行っていて」
懇願ではなく、完全な命令口調でミリアムが言った。アクセルはそれに従い滑らかな動作で立ち上がると、何も言わずにリビングを出ていった。
執事が淹れた薫り高い紅茶のカップを完璧なマナーで取り上げるミリアムを見るともなしに眺めながら
(すごい…。なんだかんだ言って、やっぱりミリアムは貴族階級の令嬢なのだわ…。)
とその隔たりにリンは新鮮な驚きと共に、大きな階級の差を感じながら、黙ってミリアムの言葉を待った。
と、
「…それで、リン?明日から何をしましょうか?まずはヨットね?ヨットって言っても、ほとんどクルーザーなの。…リチャードがね?ライセンスを持っているからつき合ってくれる、って。
ほら、あそこに見える小島。あれ、うちのなの。すごく綺麗なビーチがあるのよ?行ってみましょう?」
ミリアムが何かを埋めるように一気にしゃべり始めた。
「…ミリアム…やっぱり私……」
『こにはいられないわ』と続けようとしたリンの言葉にかぶせるように、ミリアムが叫んだ。
「リン!…まだ怒っているの?そうよね、そんな簡単に許せるわけないわよね!
わかったわ、お兄様をもう一回呼ぶわ!あなたが気の済むまで詰って良いのよ?謝罪を受け入れなくてもいいの!だから…!」
「ミリアム、待って!閣下のことはもういいの!もういいから…」
言葉を続けようとしたミリアムを再度押しとどめながら、リンは続けた。
「ね、お願い、ミリアム。やっぱり閣下の言う通りよ。私たち、学校でのおつきあいをこういう個人的なおつきあいに広げるべきじゃないんだわ。だって、私たち、住む世界が違うんですもの。私は…孤児院上がりの奨学生。あなたは貴族階級のお嬢様。今は良くても、きっといつか私とこうした関係にあったことを悔やむ日がくると思うの。」
「そんなことは絶対にない!どうして分かってくれないの、リン?!」
「…ミリアム…」
その後も延々とミリアムの説得は続いた。
いつもだったら実際の年齢に反して年上役を任じるリンがその論理的な弁舌でミリアムを説得するのであるが、そもそも、リンがミリアムに納得させようとしている『身分違い』の部分に、どうあってもミリアムが断固拒否!の姿勢を貫いた為、リンの説得は受け入れられずに堂々巡りとなり…。
結局のところ、最後にはリンが根負けしてしまい、とにかく2週間はここに滞在することを約束させられてしまった。
しかも、ミリアムは『明日には必ずアクセルを追い出す』と豪語している。そんないきり立った友人を見て、移動とアクセルからの悪意に疲れ果てたリンが、もう何も言うことが出来なくなってしまったのである。完全にミリアムの粘り勝ちであった。
ただし、万が一にもアクセルの滞在が延びるようなことがあれば、どんな手段を使っても滞在を切り上げることだけは、ミリアムに納得してもらった。
「もちろんよ!大丈夫!私が責任を持って追い出すから!!
お兄様なんて、お兄様なんて、暑い暑いデリースのめんどくさい社交界で、マンゴーに群がるハエのような結婚願望女達の標的になって、せいぜいバカらしいお世辞の応酬でもしてればいいのよ!」
到底、無邪気で気の良いミリアムらしくないイヤミが朗々と天井の高いリビングに響き渡った。
(閣下に聞こえたら、また『貧乏人のせいで妹が変わってしまった』とか言われそうな言だこと…ふぅー…聞こえてないといいんだけど……)
と、苦笑いと共にため息をついたリンなのだった。