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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
68/152

68.リンの決意


(だめ!来てはだめ、閣下!!)


 まるでそこにアクセルが現れたかのように、リンは薄闇へと視線を投げかけた。知らず知らずに両腕で自分の身体をギュッと抱きしめながら、アクセルが自分への愛情故にとる行動がアクセルを更なる窮地に追い込むのを確信して、胸の辺りがズキリと痛んだ。

 そうして次の瞬間。リンの中にムクムクと沸き上がってきたのは、絶望でも哀しみでもなく、圧倒的な母性本能だったのである。


(だめだめ!何を怯えて縮こまっているというの!リン・バクスター!

 今、閣下を、ドクター・ヴァン・マーネンを、この病院を、そしてなにより私自身の未来を守れるのは、私だけじゃない!

 自分のこの手で、今、行動を起こさなくては誰も守れない!

 私の未来の夢の実現に、誰の邪魔もさせないし、私は誰の足枷にもならない!)


それはまるで雷に打たれたように、神の啓示のようにリンの上に落ちてきたひらめきだった。


 このままアクセルの愛情に包まれ、その胸の中で守ってもらったままぬくぬくと生きて行ければ、それはそれで幸せなのかも知れない。自分にもそういう人生の可能性があったのかも知れない…とそこまで考えて、リンは知らず知らずかぶりを振った。なぜならば、どうしてもそうした人生を歩む自分の姿が想像できなかったからだ。男性に寄りかかり、頼り切り、経済的にも精神的にも一人ではまっすぐ立つことも出来ない。そういう人生。

 それはまるで、孤児であるから、と。何をしてもムダなのだ、と。そうして無気力に、一生を差別と偏見を諾々と受け入れて生きていくことと、とても似ている。

 アクセルを愛している。彼に付随する全てをひっくるめて愛している。リンにとってアクセルは正にただ一人の男に過ぎない。愛情深く、どこか傷ついた心を抱えている、少年のような男性(ひと)。それなのに、リンを易々と抱き上げてどこへでも連れて行こうとする。その強引さとそれを実現できる力を持っているのに、その心はとても純粋で……。リンを抱きしめる時のアクセルはいつだってまるで筏に縋り付く、遭難者のような必死さを抱えている。そう感じられる。

 アクセルがどんなにそれを望んだとしても、それでも。リンには侯爵という爵位とその財産に依存しきった人生は歩めそうにない。リンの夢とリンの人生を守り、それを支えて実現していくのはリン自身にしかできないのだから。

 それにしても、とリンは思った。


(こんなふうにタブロイドの記者とパパラッチに追いかけ回されるなんて、きっと閣下と出会い、恋人同士にならなければ一生縁のないものだった……)


さっき投げかけられたひどい中傷と暴力的な言葉やまるで脅しのような言い方を思いだして、リンの身体がブルリと震えてしまう。


(それでも、最初っからこうなることが解っていたとしても……。私はきっと、閣下のあの手をとらずにはいられなかった。閣下のあの目を無視して、応えないではいられなかったに違いない…。

 きっと、閣下を『愛しい』と思う気持ちを、閣下に伝えたいと欲する気持ちを(とど)める事なんてできなかったに違いないから……)


そこまで考えて、リンの心は益々晴れ渡っていった。

 心中になんの後悔もなければ、自戒もない。今、自分がするべき事も、したいことも、その向こうにある目標も、全てがきれいにくっきりと見えている。

 まるでまっすぐ伸びる、暁に続く道のようなその心持ちに、リンの身体が三度(みたび)震えた。

 自分が行動することで大切な人達を、自分の人生を守るのだ、という闘志が沸々と沸き上がってきたのだ。

 と、その時である。

 リンのお腹がグゥーっとなった。

 リンは思わずプっと噴き出し、天を仰いだ。


(1日中緊張して、お昼ご飯はおろか、スマートフォンの電源を入れることも忘れていたほどだったのに、自分自身で動けばいいんだ!って決めた途端これなんだから。

 私の胃袋ってば、ほとほと現金に出来てるのかもしれない。というより、いつの間にかトラブルに立ち向かうのが習い性になっちゃってるのかも。でも……)


そこまで考えて、リンは笑った。一人、暗い玄関ホールの片隅で。壁に寄りかかったまま、微笑む。それはまるでピエタか菩薩のような笑みだった。

 リンは、思う。


(そう、これが私。私らしい、本当の私。ーーううん、私の好きな私、なんだわ)


リンはしみじみと笑みを味わって、そして神様に感謝した。さっき、この寮の建物に飛び込んできた時とはまるで違った心持ちでいられることが不思議なのと同時に、どこか当然のような気もするのだ。なぜなら、リンの上に落ちてきたひらめきが、まるでリンの血を吐くような祈りを聞き届けた神様からの叱咤激励を込めた天啓のような気がしたからだった。


「……まずは食事だわ。腹が減っては戦は出来ぬ、だし」


おどけたように言いながら、自分を励まし、足を踏み出す。


 そんなリンの頭の中ではすでに次の策がものすごい勢いでシミュレートされ始めているのだった。


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